今年はジオポタ創立20周年ということで、今回はその記念走行イベントです。開催地は関東からも関西からも集まりやすい琵琶湖に決定。実行委員はレイナ、キルピコンナ、ヨンチェスの3名。ところがヨンチェスは海外赴任で参加できず、関西組はロートルばかりとあって宴会のみの参加ということになりました。あれまあ。
それはともかく、走行組はJR北陸本線の長浜駅に集結。駅前には羽柴秀吉とのちの石田三成こと石田佐吉の出会いの場を現した像が立っています。佐吉はここ長浜市石田町の生まれで、観音寺で修行をしていました。当時長浜城主だった秀吉が鷹狩りの途中に寺に立寄った際に茶を所望すると、佐吉はまず大きめの茶碗にぬるい茶をたっぷりと、次に少し熱めの茶を半分ほど、最後に小さな茶碗に熱い茶を入れたそうです。これは『三献の茶』として有名な逸話で、秀吉はこの佐吉の心配りに感心し、やがて佐吉を召抱えることとなったというものです。
あれれ、一人足りない・・・ 某は遅刻だというので、やってくるまでの間近くを散策します。
慶雲館は、平安神宮神苑、円山公園、桂離宮などの造園を手掛けた近代日本庭園の先覚者と呼ばれる七代目小川治兵衛の作庭で国の名勝に指定されています。
その入口には真っ赤なもみじが。
表門をくぐると前庭で、そこには高さが5mもある大灯籠や、秀吉による年貢免除地を示す長浜領朱印地石標(明治以降に移設)があります。
ここはさらに中の主庭も見学したいところですが、そろそろ駅前に戻る時間です。
慶雲館の向かいは長浜鉄道スクエアで、現存するものでは日本最古の鉄道駅舎だという1882年(明治15年)完成の旧長浜駅舎が建っています。
駅前通りと北国街道(ほっこくかいどう)の交差点に建つのは長浜旧開知学校。この学校は現長浜小学校の前身となるもので、町民の寄付により1874年(明治7年)にこの近くに建てられ、1937年(昭和12年)に現在地に移転されたそうです。
洋風の木造三階建で、上には八角形の櫓(復原)が載っています。当時の長浜ではかなりモダンな建物だったことでしょう。
港町の長浜は、かつて琵琶湖の東岸に延びる京阪神と北陸とを結ぶ北国街道の宿場町として栄えたところで、白い土蔵がある老舗の商家や舟の側板を利用した舟板塀などが並び、現在も往時の雰囲気が感じられます。
この左手の建物は室町時代からの旧家の安藤家で、秀吉時代には長浜の自治を委ねられた十人衆のうちの一人でもあったそうです。現在の建物は明治の終わりから大正の始めにかけて建てられたもので、虫籠窓(むしこまど)と紅殻格子(べんがらごうし)が見えます。
某がなんとかやってきて、いよいよツアー開始。やれやれ。。
まず向かったのは、長浜城の外堀があり大手門が建っていたという所。
現在は側溝のようにしか見えない水路に架かる小さな橋の欄干に『長浜城外堀』とあり、道路を挟んだ先の石碑に『長浜城大手門跡』とあります。
まさかこの小さな水路が外堀であったはずはないので、おそらくこの前の道あたりが外堀だったのでしょう。その向こう側の琵琶湖側に大手門が建ち、そこから先が長浜城だったということですね。
現在の長浜といえば黒壁スクエアです。
黒壁スクエアは伝統的な建築である黒漆喰の建物などが集まるエリアで、北国街道と大手門通りの交差点である『札の辻』に建つ旧第百三十銀行の黒壁一號館『黒壁ガラス館』を始め、30の古建築が再生されています。それらは現在は美術館やギャラリー、レストラン、カフェなど様々に利用されています。
黒壁ガラス館を眺めたら北国街道をゆっくり流します。この建物にも紅殻格子が見えますね。
この一区間は『武者隠れ道』だそうで、家と家の境界が不規則に出入りしており、戦の時に身を隠すのに都合良くできていたそうです。
北国街道から東へ向かうと地元では『ごぼうさん』の愛称で呼ばれるという長浜御坊こと大通寺です。この寺は1602年(慶長7年)に長浜城跡に創建され、1652年(慶安4年)にここに移転されたようです。
脇門(台所門)は長浜城の追手門を移築したものだそうですが、この大きさからすると長浜城は意外と小さかったようです。
山門は総欅造り。比較的新しい江戸時代末期の建築ですが、なかなか迫力があります。
私たちは脇門の側からアプローチしましたが、表参道の商店街からやってくるとこの山門が真正面に見えます。
本堂(阿弥陀堂)は江戸初期の建立ですが、寺伝では、伏見城の殿舎が徳川家康より東本願寺へ贈られ御影堂として用いたものをここに移築したと伝えられているそうです。
大通寺のうしろを廻って進んで行くと、キルピコンナが怪しい路地に入って行きます。
そこには知善院があります。この知善院の表門は長浜城の搦手門(からめてもん)を移築したものだそうです。搦手門は言うなれば裏門で、事が起こった時に城主の脱出口として使われる性格も持っていたようです。
長浜城は1615年(慶長20年)の大坂夏の陣の後に廃城となり、そのころ移されたと考えられているようです。
知善院からは琵琶湖に向かいます。
末広町に入ると最近はあまり見なくなった長屋が建っています。これはなんと言いますか、やっぱり昭和レトロ?
祇園町南の交差点を突っ切って進めば・・・ あっ、祇園って京都の祇園とは関係ありませんよね。この祇園は銀座が全国各地にあるようなものでしょうか。それにしてもここには祇園らしき雰囲気がまったくないけれど。まあここに花街があったとしても、それはずっとずっと昔のことなのでしょう。
それはさておき、祇園町南の交差点を突っ切って進めば・・・ でた〜、琵琶湖! さすがに面積日本一の湖だけあり、対岸が見えません。
『おっきいですねぇ〜。海みたい!』 と呻くは、海なし県からやってきたベネデッタ。確かにこれは海のように見えますね。
さて、ここからはr331湖北長浜線、またの名『さざなみ街道』をまっしぐらに北上します。
さざなみ街道は隣を頻繁に車が通るのが少々鬱陶しいですが、広めの歩行者自転車道があるのでほとんど車の心配をすることなく走れます。
このあたりの湖畔には木が生えているところが多く、あまり琵琶湖は見えませんが、中にはこんな紅葉した木々が目を楽しませてくれるところもあります。
さざなみ街道に枝道はありませんが、姉川を過ぎたところで湖岸付近に下る道があったので入ってみました。
ここは『大浜〜安養寺湖岸緑地』で、ちょっとした松林の先に東屋が建っています。
東屋の先は琵琶湖の湖畔で、沖にうっすらと竹生島(ちくぶしま)が浮かんでいるのが見えます。
その手前には水鳥がプカプカ。白いのは白鳥ですね。この時期にもう白鳥が飛来してきているのでしょうか。それともここに居着いてしまった個体なのか。あとで確認したところによると、今年のコハクチョウは10月の半ばに初認されて以降、最大で46羽が確認されているそうです。
視線を少し北にずらせば、奥琵琶湖パークウェイが通る葛籠尾(つづらお)半島あたりが本当にうっすらと、ようやく見えています。琵琶湖は山に囲まれていて、天気が良ければ福井県との境あたりの山も見えるのだろうと思うのですが、この時はそれは望むべくもありません。
遠方に見える連続した杭は、伝統漁法のえり漁のものではないかと思います。これは定置網を使った巨大な仕掛けで、誘導路となる並べられた杭の先に網を仕掛け、魚が入るのを一晩待つというもの。ちなみにえり漁のえりは魚辺に入るで『魞』と書くそうです。
そういえば今日はアユの稚魚である氷魚(ひうお)漁の解禁日のはず。氷魚の名は体が氷のように透き通っていることから付いたようです。氷魚もこのえり漁で捕らえられます。ここ数年はその漁獲高が減っていると聞きますが、これはブラックバスなどの外来魚が増え過ぎたからでしょうか。今年の氷魚漁はどうでしょうね。
琵琶湖で一生を過ごす鮎は他の鮎と少々違うそうです。成魚でも10cmほどにしかならず、これは小鮎と呼ばれます。小鮎は鮎の稚魚のことではないんです。ところが同じ鮎でも琵琶湖を出て川を遡上するものは大きくなり、15〜30cmほどまでに成長するそうです。そこで氷魚を養殖し、各地の川に放流することが盛んになったのだそうです。海なし県のベネデッタの家の近くの川に放流されているのも琵琶湖産の鮎だそうです。
このあと浜辺でジャンプ撮影会。珍しく全員の呼吸が合った!(TOP写真)
大浜〜安養寺湖岸緑地を出たら再びさざなみ街道をどんどこ行きます。相変わらず琵琶湖はあまり見えないのですが、こんなふうに時々ちらっと顔を出してくれます。ここの湖畔には釣り人の姿がありました。釣っているのはブラックバス?
海なし県人のベネデッタが行けば、昨日このあたりのお城巡りをしてからやってきたシロスキーがそれに続きます。
そして右手には上から読んでも下から読んでもの山本山が見えてきます。この日は晴れの予報が直前に変わり、曇りとなってしまいました。本来なら見えるはずの周囲の他の山はほとんど見えず、この山本山が存在感を増しています。
空の雲は厚く雨が心配になるほどです。メンバーの多くは本格的なカッパを持ってきていませんから。雨、降らないでよね〜、と願った瞬間に少しパラパラときて、ちょっとドキリ。
湖岸に小さな鳥居が建っています。海辺や大きな川にはたまに水神を祀る神社が建っていますが、ここは日本一の琵琶湖ですからこうしたものがあるのもうなづけます。
たぶんこの神社も水の神様が祀られているのだと思いますが、お天気が良くなる事を願うと、あ〜ら不思議、雨、止んだよ。
竹生島が近づいてきました。ここの湖岸にはごく小さな舟溜まりが造られており、そこに小舟が一艘見えます。
湖北水鳥公園までやってきました。
ここまで来るとようやく葛籠尾半島がはっきり見えるようになります。
湖北水鳥公園付近の琵琶湖は遠浅で水生植物が多く、魚も豊富なため野鳥がたくさんやってくるようです。ここで確認された野鳥は250種近くになるそうです。
湖北水鳥公園内には野鳥センターと道の駅『湖北みずどりステーション』があります。
野鳥センターには望遠鏡が設置されていて手軽に野鳥の観察ができるのですが、私たちは道の駅で休憩を。キルピコンナは小走りに建物の中に消えて行ったと思ったら、戻ってきたときにはその手に鮎の天ぷらがありました。この体長は6〜7cmしかないので、今日水揚げされた氷魚でしょうか。熱々でうまい!
道の駅で一休みしたら湖畔を離れ、渡岸寺観音堂(どうがんじかんのんどう)に向かいます。行く手の正面にはあの山本山が。
この山にはオオワシが生息していて運が良ければその飛ぶ姿が見られるそうですが、どうやらこのあたりは雨があがったばかりのようで、それは叶いませんでした。山本山をぐるりと廻るようにして田んぼの中を進んで行きます。
高架の北陸自動車道をくぐると高月に入ります。
このあたりの集落はみんなこじんまりしていて、伝統的な造りの家が多いようです。
渡岸寺観音堂に到着。
渡岸寺はお寺の名ではなくこの集落名です。おそらくずっと以前にここに渡岸寺という寺があったのでしょう。観音堂が属する寺は向源寺(こうげんじ)といいます。
湖北のこのあたりは観音の里と呼ばれ、集落ごとと言ってよいほどに観音さまがいらっしゃるそうです。そしてそれらの多くは村人によって守られ、小さなお堂につつましく安置されています。
ここには平安時代の初期、9世紀ごろの作と考えられている国宝の十一面観音さまがいらっしゃいます。
2m近い檜の一木造り。胸部や大腿部は豊かな肉付きで、耳にはイヤリングを付け(かつては胸にネックレスも)、腰を少しひねった官能的なポーズの上にへそ出しルックというお姿です。斜め後ろから見ると大きく前方に傾いでいて、飛んでいるようにも見えます。
各面の配置や大きさなどが一般的な十一面観音とは少し異なるようですが、詳細は他に譲るとして、面白い話を一つ。地元のボランティアの方の解説によると、写真家の土門拳がこの像を撮影したとき、背面の暴悪大笑面が恐ろしくて眠れなかったという話をしていたそうです。必見、暴悪大笑面!
渡岸寺観音堂で観音さまを拝んだら、昼飯処へ向かいます。
向かった先はびわこ食堂で、キルピコンナによればここの『とりやさいみそ鍋』は滋賀県最強B級グルメで、ぜったいに外せないそうな。
『ぎゃお〜、こりゃあ食べきれないぜ!』 と、超大盛り白菜を見て驚くオレンジカラーのムカエル。
写真は3人前ですが、白菜が崩れてしまわないかドキドキもの。しかし煮込んで行くとどんどん嵩が減って、うまく鍋の中に着陸してくれます。最後に追加でうどんやラーメンを加え、満腹。いけます、とりやさいみそ鍋。
最強B級グルメに満足したら、次は紅葉の名所の鶏足寺(けいそくじ)へ。
東の山に向かってどんどこ行くと、
高時川の土手に出ます。先頭は久々に登場するも大遅刻やろうとなったアンドレ。
この道、最初は良かったのですが、風が出てきたので河川敷の遊歩道に下りると、そのうち草茫々で前進不能に。土手上に戻るもこれまた地道になり、挙げ句の果てが倒木でまたまた前進不能と相成りました。
土手から下りて田んぼ道を行くも、またまた行き止まり。あちゃ〜、ここは難所なり。
さらに一本シフトしてようやく抜け出ました。
なんとかr281に出て高時川の井明神橋に差し掛かると、鶏足寺を抱く山が見えてきます。
午後になり天候は回復基調で、雲も少し薄いところが出てきていて、その下の山にはまだかろうじて紅葉が残っているように見えます。今年の紅葉は関東以北はやや早めで、西の方はやや遅いそうですから、鶏足寺もまだいけるかもしれません。
井明神橋を渡ると石道の集落に入ります。
集落の中から山を見上げれば、中にはまだいい色の紅葉も残っているようです。
神前神社の鳥居周辺はなかなかいい感じ。
この鳥居を過ぎると石道寺の下の駐車場に辿り着きます。
駐車場からは鶏足寺まで続く石段の遊歩道を行きます。紅葉はだいぶ散ってしまっていますが、路面に敷き詰められた赤がきれいです。
この途中にある石道寺にも重要文化財の十一面観音像があるのですが、これは時間の関係でパスします。ちょっと残念。
『あれ〜、いい男に撮りすぎた〜』 と、カメラマンのムカエルが言えば、
『被写体がいいと写真も良くなるね〜』 と、サイダー。
鶏足寺の入口に到着。
ここはパンフレットなどでよく使われる撮影ポイントですが、残念ながらこの時はほとんど散っていて、路面の葉っぱも茶色くなってしまっています。
しかし奥へ進むにつれ、まだかろうじて最後の紅葉を残している木々が現れだします。
ここは黄緑色から赤まで揃っていて味わいがあります。
左、企て人その一のレイナ。右、企て人その二のキルピコンナ
この鶏足寺は現在は廃寺となっており、普段は地域住民の方々によって管理がなされているそうです。
そんなんでここにあるお堂はこんな小さなものです。
山の中で赤はやはり映えますね。
鶏足寺の紅葉を堪能したら山を下りて、北国街道の宿場町木ノ本宿へ向かいます。
R303には400mほどの新檔鳥坂(しんあっとりざか)トンネルがあるのでこれを回避し、同じR303でも旧道の方を行きます。これが本日初めての上りで、ここはちょっとだけえっこらよっこら。
旧道には檔鳥坂隧道がありますが、これは短い上に車がまったく通らないので不安なく走れました。
檔鳥坂隧道を抜けると木ノ本への下りです。ここは紅葉もちらほら残っていて快適。
北国街道の宿場町だった木ノ本に入りました。ここは北国脇往還の起点でもありました。
木ノ本はさすがに宿場町だっただけあり、現在も伝統的な建物が数多く残っています。写真の白木屋では醤油を醸造しています。
木ノ本宿の中程にあるのは日本三大地蔵の一つの木之本地蔵院。この寺の歴史は古く白鳳時代まで遡るそうです。
空海、木曽義仲、足利尊氏、足利義昭らが参拝した記録があり、賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦の折には秀吉がしばらくここに陣を置いたそうです。
木之本地蔵院の向かいにある菓子乃蔵角屋には『がらたて』なるものがあります。
がらたては湖北地方のおやつで、粒あんを小麦粉の団子でくるんで、葉っぱに挟んで蒸したもの。この葉っぱはこのあたりの山に自生している赤い実の成るつる性の植物で山帰来(さんきらい)、別名サルトリイバラというものだそうです。この葉っぱのことをこのあたりでは『がらたて』と呼ぶのだそうです。山帰来の根茎は薬として使われるので、葉っぱにも某かの薬用成分が含まれているのではないでしょうか。まあ、一番想像できるのは防腐効果ですか。
昭和の初めまではこの通りの中央には小川が流れ、その周りに柳の木が植えられていたそうです。
造り酒屋のシンボルの杉玉がぶら下がっているのは、400年以上も続く老舗の山路酒造。
かつては新酒ができたときに緑色の杉玉をこのように軒下に吊り下げたそうですが、現在はほとんど酒屋のマークのようなものになっています。
木ノ本宿でなんと予定から1時間遅れとなってしまったので、この先は輪行組と走行組に分かれる事にしました。
輪行組のシロスキー、マージコ、ベネデッタ、キルピコンナ、レイナは木ノ本駅に向かい、走行組のムカエル、アンドレ、サリーナ、サイダーは葛籠尾半島の宿に向かいます。
木ノ本から西へ向かうと静かな流れの余呉川を渡ります。
羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳が近づくと、本日二度目の山越えになります。
R8塩津街道は避け、ここはその旧道のr514飯浦大音線を行きます。このとき飯浦大音線は車通行止めで旧賤ヶ岳トンネルも全く問題なし。快適でした。
旧賤ヶ岳トンネルを抜け飯浦(はんのうら)へ下って行くと、左手に藤ヶ崎、その先に葛籠尾半島が見えてきます。
陽の光があればこのあたりの景色は素晴らしいのですが、この時はちょっと残念。
しかし北琵琶湖らしい景色に満足のサイダー、アンドレ、サリーナでした。
飯浦からはフラットな湖畔道となるのでちょっとガシガシ。
そろそろ薄暗くなってきたのでライトを点灯するも、ここでアンドレのライトがどうやら電池切れらしいことが判明。仕方がないので塩津浜のコンビニで調達します。
塩津浜の先はr512 奥琵琶湖パークウェイが一方通行になっているため、R303しかありません。
R303には長〜い岩熊第二トンネルがあるのですが、これは歩道が素晴らしく広くて安心でした。
トンネルを抜けたら葛籠尾半島の西側に廻り込んで大浦川沿いを進みます。大浦に着いた時にはほとんど真っ暗でしたが、ここで『がらたて』をいただいて最後の走りに備えます。
大浦からは葛籠尾半島を反時計回りに廻って、菅浦の集落の入口にある宿にまっしぐら。宿まではそこそこ街路灯があって助かりましたが、久しぶりの夜間走行となってしまいました。
宿では久しぶりに再会する関西組が待っていてくれました。ナオボーとチューボーがアクシデントで参加できなくなってしまったのは残念ですが、ジーク、ケンボーそしてミエちゃんの元気な姿が見られて嬉しいです。
一次宴会で一升瓶を何本も空け、よたよた〜っと突入した二次宴会ではマージコの半裸脚踊りという下品なお披露目で盛り上がり、急速に夜は更けていくのでした。