紅葉企画。このルートは昨年実施予定だったのですが、その時は台風19号の影響で宿付近の道路が崩落してしまったため、中止せざるをえませんでした。そして今年は前日まで雨続きで天気にやきもきさせられましたが、この週末は晴れ予報となり、実際今日は紅葉狩り日和のいいお天気になりました。
軽井沢駅に降り立つと、空気が澄んでいて寒い! 気温は10°C。都心とはまるで違う空気です。ああ、軽井沢に来た、という実感が湧きます。北口を出るとそのすぐ西に、しなの鉄道の軽井沢駅舎が立っています。この建物は明治時代のそれを再現した(旧)軽井沢駅舎記念館でしたが、2017年に旧駅舎口ゾーンとして整備されました。
この横には草軽電気鉄道(軽便鉄道)の小さなデキ12形13号機電気機関車が保存展示されています。かつてはここ軽井沢と草津温泉を繋ぐ55.5kmの鉄道があったのです。
今日はまず旧碓氷峠まで上るのですが、その前に軽井沢の紅葉の名所である雲場池に立ち寄ります。
駅前からかつてはメインストリートだった旧道を行き、軽井沢本通りに入ります。この通りには日本建築界に大きな影響を与えた篠原一男の『軽井沢旧道の住宅』(1975年)があります。その所有者はこれをずいぶん前に手放していますが、その理由は軽井沢が原宿化して環境が大きく変わったためと聞きました。建物そのものはレストランになって残ってはいますが、様々な改変が加えられているようです。
軽井沢は日本一の別荘地でしたから古くから著名人や芸術家の別荘が多くありました。
脇田美術館の裏手には吉村順三が設計した洋画家の脇田和の別荘があります。この時代の建築家はピロティーが大好きでこの建物にもそれが採用されていますが、これはピロティーのためのピロティーというわけではなく、軽井沢は霧が非常に多く一階は居住に適さない、という気象的な条件によるものでしょう。現在この建物は脇田美術館の管理下に置かれ、年に数日だけ公開されます。必見の名作!
脇田美術館から奥に進むとそこはしんとした森の中で、別荘や外人墓地が現れるようになります。
雲場池通りに出るとそれらしき人々が池方面に歩いて行きます。
この人々に混じって私たちも紅葉の名所の雲場池に到着。
紅葉はそろそろ見頃になるかな、どうかな、と思っていましたが・・・
じゃ〜ん!
いい感じ。今日は晴れてくれて本当にうれしい。
雲場池の周りには遊歩道が巡らされているので一周してみます。
楓類は黄色からオレンジ色、そして赤と様々な色を見せてくれています。
池の東側の森は逆光に照らされていて、微妙なニュアンスに富んだ色彩が美しい。
真っ赤なドウダンツツジ!
黄緑色からオレンジ色に移りゆく楓も美し。
雲場池、期待以上だったね〜 と、みんな満足したようです。
雲場池からは旧中山道で旧碓氷峠に向かいます。
旧中山道は今回の企画のサブテーマです。このあたりの旧中山道は現代の道路になっていますが、それが逆にこのあと訪れる予定の地道のままの旧中山道への思いをより強くしてくれます。(地道の中山道は明日になりました。)
正面に穏やかな山が見えてきました。あれはおそらく旧碓氷峠のすぐ北にある一ノ宇山でしょう。旧碓氷峠は写真右手のちょうど木に隠れたあたりにあるはず。
旧碓氷峠の標高は1,190mで、このあたりは950mですからここから240m上らなくてはなりません。
旧軽井沢銀座に入りました。ここは夏の昼間だったら人が大勢いるところですが、このシーズンの朝9時には人影はなし。
江戸時代に中山道の軽井沢宿があったのはここです。中山道の最大の難所だった碓氷峠のすぐ西にある軽井沢宿は、江戸へ向かうも江戸から来るもほとんどの旅人が宿泊した宿で、旅籠は最盛期には100軒近くあり、中山道最大の宿場でした。
歌川広重は『木曽海道六拾九次之内軽井沢』でこのあたりを描いています。木で半分隠れた浅間山、闇に包まれている宿場の家並み、馬に乗りそこへ向かう旅人、たき火でたばこに火を付ける男・・・
明治時代に入ると参勤交代がなくなり、軽井沢宿は次第に宿場としての機能を失っていきました。鉄道の開通により軽井沢駅付近が賑わいを見せ始めると、駅周辺を新軽井沢と呼び、寂れていたこのあたりを旧軽井沢と呼ぶようになったそうです。
先頭を行くシンチェンゾーはテニスの合宿でこのあたりをしばしば訪れるそうで、行きつけのお高い〜フレンチレストランがあるとかないとか。(笑)
旧軽井沢銀座商店街の一本北側の道には、先に紹介した吉村順三らが学んだチェコ出身のアントニン・レーモンドが設計した聖ポール教会(現軽井沢聖パウロカトリック教会/1934年)が立っています。
帝国ホテルの建設のため師のフランク・ロイド・ライトと共に来日したレーモンドはその後日本に居住し、各地に様々な建築を残しました。この教会は屋根や塔の形状などに母国チェコで見られる建築様式が用いられているように思えます。屋根は現在は銅板葺ですがオリジナルは柿葺です。柿葺は日本に古くからあるものですが、チェコでもよく使われています。
内部は丸太が表わしの魅力的な空間なのですが、この時は新型コロナウイルス感染症の影響でこれは見られず。とても残念。
旧中山道に戻ります。中山道の栄枯盛衰を見てきたのはつるや旅館。この旅館は江戸時代初期から続いているそうです。
保養地・避暑地としての軽井沢の元を作ったとされるカナダ人宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーがここ軽井沢初となる別荘を建てた時に、その場所などを斡旋したのがつるや旅館の当時の主人でした。その後、島崎藤村をはじめ、芥川龍之介など多くの文人たちがここを訪れるようになり、当時はさながら軽井沢サロンの様相を呈していたようです。
つるや旅館からさらに旧中山道を進むと、軽井沢ショー記念礼拝堂があります。
宣教師のショーは1885年(明治18年)ごろに軽井沢にやってきてこの地に魅了され、その後、つるや旅館の前の大塚山(だいづかやま)に別荘を建てました。そして1895年(明治28年)に軽井沢で最初となる教会を作ったのです。それがこの教会の原形です。
その後建物は増改築が行われ、1922年(大正11年)にほぼ現在の姿になったそうです。
この教会は外観も内部もいたってシンプル。
1888年(明治21年)に建てられたショーの別荘は、この教会の裏手にショーハウス記念館として移築復元されています。
この建物は養蜂民家を移築改造したものだったそうですが、オリジナルのそれはどんなものだったのでしょう。外観は総二階建のいたってシンプルなもので、内部もご覧の通り、どこにでもありそうと言えばそんな感じではありますが、これから元の民家の姿を想像するのはなかなか難しいです。置かれた家具はおそらく日本製ではなく、本国のカナダあたりから取り寄せたものでしょう。空間にピタッと嵌っています。
まあとにかく、これが軽井沢の別荘第1号ということですね。
旧中山道は軽井沢ショー記念礼拝堂の先で、矢ヶ崎川に架かる苔に覆われた石橋の二手橋を渡ります。
ここは二手の名のとおり道が二手に別れているところですが、旧碓氷峠へ向かう旧中山道は直進。
ひっそりと流れる矢ヶ崎川。
二手橋を渡るといよいよ旧碓氷峠への上りが始まります。この上りは序盤からきつく、すぐにあへあへ。
200mほどで右手に分岐する地道が現れます。これが旧中山道です。この道は現在は旧碓氷峠遊覧歩道となっていて、歩きなら快適な散策ができますが、残念ながら自転車は通行禁止なので私たちは車の道を行きます。
その後も勾配は緩むことなく、これは時に10%を超えます。えっさ、こらさ、とゆっくり上り詰めて行きます。
周囲の紅葉は盛期に向かって着々と進行中。いい感じになってきています。
この峠道は勾配がきつい割には直線基調でカーブは数えるほどしかありません。
中盤に差し掛かるとそのカーブです。一つ、二つ、三つと廻って行きます。
このカーブを廻り終えると600mほど続く直線区間に入ります。もっとも直線とは言っても微妙に曲がっているので、真っすぐな見通しがあるわけではありませんが。
ここまで来る間に全員汗びっしょり。朝は寒かったので着込んでいた上着や中着を次々に脱いでいきます。ここでみんなが着替えている間にダッシュしたのは新人のマコリン。ガシガシ上って行きます。やる〜ぅ。
直線区間が終わり道が急にカーブすると、その先に『碓氷峠 熊野神社』の看板が見えてきました。峠に到着です。あ、『峠』はここの地名なんですよ。私たちがやってきた長野県側は軽井沢町峠町、向こう側の群馬県側は松井田町峠。
標高1,190mの旧碓氷峠はこの先100mほどのところにあります。
マコリンに続いてサイダー、サリーナ、マージコ、ムカエルそしてシンチェンゾーが到着。二手橋からここまで2.2km、登坂高度210m、平均斜度9.5%でした。
『や〜、旧碓氷峠、きつかった〜〜』 というのがみんなの感想です。
この看板の奥に旧碓氷峠見晴台があるのでまずそこへ向かいます。
ここまで木々は黄緑色から黄色が多かったのですが、先にはオレンジ色が見えています。
穏やかな坂道を上っていくとパッと青空が広がり、その下にこんな鮮やかな紅葉が広がっていました。
『お〜〜っ!』 という声が聞こえてきます。
燃えるようなオレンジ色の木の下をくぐると開けた高台にある旧碓氷峠見晴台で、先にたくさん山が並んでいるのが見えます。
いや〜、今日は晴れていて良かった〜 正面に妙義連峰、あとは、たくさん並んだ並んだ、、、(笑)
左より、
おいらはやったぜのシンチェンゾー、
ここで無線やりたいな〜のムカエル、
ここから飛びたいな〜のマージコ、
ここから見える山はみんな登りました〜のマコリン、
なんとか上ってきました〜のサリーナ。
右に移動すれば、八ヶ岳、さらに西に浅間山がデ〜ン。
浅間山の山頂が二つに分かれているように見えますが、これはカルデラが大きく抉れているためです。
私の知る浅間山は1973年(昭和48年)の爆発。子供の頃、テレビで噴火の様子が流れ、関東地方にも降灰があったと記憶しています。この降灰が生まれて初めて見るそれでした。
お天気に感謝!
見晴台からの眺めに満足したら旧碓氷峠にある熊野神社に詣でます。
ここは旧碓氷峠にある神社ということだけでなく、長野県と群馬県の県境が境内の真ん中を通ることでも有名です。階段を上って行き随神門に達すると、そこにはしっかり長野県と群馬県の県境が表示されています。
そしてその先の突き当たり正面には賽銭箱が二つ並んでいます。賽銭箱まで長野県用と群馬県用があるのかと思ったら、それどころではありません。なんとここにはそれぞれの側に神社が立っているのでした。長野県側は熊野皇大神社、群馬県側は熊野神社。いや〜、神社まで二つあるとは、恐れ入りました〜〜
無事に熊野神社にお詣りしたあとは、その前にある峠の茶屋『しげの屋』さんで力餅をいただくのが定番コースでしょう。ところがこのしげの屋さん、コロナでなのか、席はたくさん空いているのに満席とのことで入ること叶わず。まあここは明日も通るのでこれはまたということにして、先へ進みます。
ここからは旧中山道を坂本に下るつもりにしていました。この旧中山道は昔のままの山道で地道です。しかし昨日までの雨降りで足元が悪そうなのでこれは明日にし、今日はR18の新碓氷峠に出てそのままR18を下ることに変更。
新碓氷峠までは町道の三度山線を行きます。
この三度山線はもうほとんど交通がないらしく、降り積もった落ち葉に埋もれています。しかも濡れ落ち葉で滑る滑る。せっかくの下りなのに、ゆっくりゆっくり慎重に進まざるをえませんでした。この道はカーブももの凄く多いですからね。
ぽつぽつと別荘が現れるようになると、その合間から突然浅間山が顔を出しました。いいね、浅間山。ここの別荘からは毎日あの浅間山が眺められるんですね。
浅間山と濡れ落ち葉の三度山線を楽しみつつ下り、R18の新碓氷峠(標高960m)に出ました。現在は黙って碓氷峠と言えばこちらを指します。この碓氷峠も旧碓氷峠同様、長野県と群馬県の県境を成しています。
写真奥が軽井沢方面です。黒い石碑は碓氷峠修路碑(1933年/昭和8年)で、碓氷新道(R18の元となった道、1886年/明治19年完成)を修繕した際の記念碑。このすぐ手前には『カーブ184』の標識が立っています。この数値は坂本からここ碓氷峠までのカーブの数を示しています。
『えっ、ここ、カーブが184もあるの?』 というマージコの声を聞きながら、さっそくR18を下り出します。
山の中を縫うようにして築かれたR18は谷側も木々に覆われていてあまり見晴らしはありませんが、それでも時々その合間から向こうの山が見えます。標高がだいぶ下がったので、このあたりの紅葉はまだ始まったばかりです。
このR18は車の難所の一つとされる所でしたが、碓氷バイパスができたおかげで交通量がぐっと減り、自転車では走りやすい道になりました。
勾配は5%程度とあまりきつくはありませんが、とにかくカーブが多いので慎重に行きます。実は去年、知り合いがここから落っこちているのです。下りでカーブが多いため、ブレーキレバーを握りしめているうちに手が痺れてきて操作困難となり、ガードレールを飛び越してしまったのでした。運良く大事には至らなかったのですが・・・
飛びたいマージコ、気持ちはわかるけど、ここからは止めてよね!(笑)
道脇に煉瓦造のトンネルの遺構が出てきました。これはかつて横川から軽井沢まで登っていた旧信越本線の鉄道施設です。こうしたものが楽しめるのもこの道のいいところ。
しかしヘアピンカーブの連続でまったく気が抜けません。落っこちないように、慎重に、慎重に。
道脇の紅葉は盛期には至っていないものの、微妙な変化に富んでいてきれい。
紅葉の始めごろはいろんな色が楽しめるので、私は好き。
カーブNo.が69に差し掛かると、目の前に巨大な構造物が現れました。第六橋梁です。煉瓦造ですが隅角部は切石で補強されています。かつてはあの上をアプト式の列車が走っていたのですね。
その列車が走っていたところは現在は遊歩道の『アプトの道』になっているはずなので、ちょっと上ってみたい気分ですが、ここは登れるようにはなっていないので断念。次に期待。
第六橋梁からわずかに下りカーブNo.が60になると第四橋梁が現れました。
この橋梁は高さでは第六橋梁に劣りますが、横に階段があったので登ってみました。
第四橋梁の西側には短い第七隧道がありました。橋梁と同じくこれも煉瓦造。
反対側の東側には区間最長となる500mを超す第六隧道が口を開けています。
第四橋梁の上で周囲を見回すと、山の上の紅葉が目に留まりました。
ぼちぼち見頃となりそうです。
第四橋梁からさらに下ると、、、 わお!
このルート上の最大の観光ポイントである、めがね橋(第三橋梁)が現れました。この手前にそれ用の駐車場があるのでここが近いことは分かってはいたのですが、引きがなくカーブのすぐ先に突然現れるので、やはりちょっとびっくりします。
この四連アーチ橋の高さは31m、長さ91m。おそらくこれは国内最大級の煉瓦アーチ橋でしょう。この橋梁は完工後に問題が発覚し補強工事がされたため、当初の設計からはプロポーションが変わっています。よく見れば、アーチ、橋脚ともにその痕跡を認めることができます。
めがね橋を眺めたらそのすぐ下にある碓氷湖に向かいます。この湖は一周散策が可能なのですが、明日ここを廻りたいという別働隊がいるのでこれはパス。さらにその下で明日下ってくることにした旧中山道の出口を確認し、昼飯処に向かいます。
ぐわ〜んと下って坂本の外れにある玉屋ドライブインに到着。
外に出された幟には『元祖力もち』の文字が。これは旧碓氷峠のしげの屋で食べ損ねたそれではないですか。ということでその『力もち』をやってみました。ここでムカエルが『「か」もちってなに?』と聞くのでみんなで大笑い。
メニューには、一番右にちょと大きめの字で『力もち』とあり、続いて、からみ餅、きなこ餅、ごま餅、とあります。え〜、どれがいい〜、と聞けば、からみ餅ときなこ餅が人気だったのでそれをオーダー。出てくるまでにちょっと時間が掛かりましたが、餅が暖かかったので作り立てなのでしょう。からみ餅は大根おろしが載っていて、さっぱり辛め。きなこ餅は上質なきなこがまぶされており、これも行けます。
ここで『力もち』は食べないの、と言い出すものがいてびっくり。『力もち』は餡子が載っているものだと言います。あたしゃあ力もちに、からみ、きなこ、ごまの三種類があるのだとばかり思いましたよ。なんで『力もち』の『もち』だけひらがななのさ!
ということで『力もち』を追加オーダー。出てきた『力もち』を見てシンチェンゾーは、『あ、本当に餡子が載っている!』と。(笑) この『力もち』は上品な甘さでとてもおいしかったですよ〜 おすすめの『力もち』でした。
さて、玉屋ドライブインで銘々お好みの食事をいただいたら午後の部開始。ここからは上り一本。玉屋ドライブインの標高は500m。目的地の霧積温泉金湯館の入口は1,080mなので、ここからは600m近くも上らなくてはなりません。
まず目指すは霧積ダムです。先ほどのR18の目の回るような下りで感覚が麻痺しているのか、なんだか足がとっても重く感じてなかなか前に進みません。
とにかく、えっさこらさと霧積湖までやってきました。この湖は霧積ダム(1975年/昭和50年完成)によってできた湖です。
昨日まで雨が降り続いていたはずなのに、どうしたわけか霧積湖の水量はあまり多くありません。
この時は霧積ダムから放水されていましたが、頻繁に放水が続けられているのでしょうか。
上ってきた側を見ると下の霧積川までは相当な高さです。この堤高は59mあるそうです。
霧積と聞いて森村誠一の『人間の証明』を思い出した方がいるかもしれません。
その中で霧積温泉旅館の従業員だったおばあさんがダムから転落死する場面がありますが、そのダムはここでしょう。映画のロケも実際ここで行われたそうです。
霧積湖を眺めたら、いよいよ最終目的地の霧積温泉を目指します。霧積川に沿ってさらに上流へ。
この先で道は急激に狭くなり山道の様相を見せ始めます。この道は県道の北軽井沢松井田線ですが、車のすれ違いは難しそうですね。
霧積川の上部はこんな様子。とてもきれいな細い流れ。
この川で霧積ダムが必要だったのかとちょっと思ってしまいます。
左手に山が迫り、右手側が谷です。ここは珍しく左手が開けていてスペースにゆとりを感じます。
徐々にではありますが高度を上げてきているので、あちこちで広葉樹がそろそろと紅葉を迎えつつあります。
再び左手から山が迫るようになるとちょっと道の勾配が増したようで、ここでムカエルとシンチェンゾーがダッシュ。
というか、サイダー、サリーナ、マコリン、マージコはずるずると遅れてしまうのでした。
『ギャー、あんなところに道がある!』 とサリーナが呻く。
上を見ると、なんと白いガードレールが見えるではないですか。ここで道は霧積川を渡り、手前に上って来ているのです。斜度は8%ほどなのでなんとか上って行けるものの、先に上っている道が見えるのは精神的にきついです。
ここは南北軸の谷なので陽の光が届き、川向こうの西斜面の山の紅葉が見えます。
なかなかいい色になってきています。
橋を渡ったので霧積川の左岸を行くようになります。
ここまで来るともうあと一踏ん張りです。
霧積川はずっとサワサワッという音を立て続けているのですが、それが一際大きくなると突然、右手に滝が現れました。霧積川の支流に落ちる金洞の滝です。滝を見ると山奥にやってきたという気分が一層強くなります。
先行するムカエルとシンチェンゾーとはここで待ち合わせだったのですが、二人の姿はなし。あとで聞いたらおしゃべりしながら上っていて滝に気が付かなかったって。え〜〜〜っ!
金洞の滝の正面の山は黄緑色からオレンジ色に変わろうとしています。
滝から100mほど進むと切通しが現れます。ここの標高は950m。坂本の玉屋ドライブインからここまでは8.5km、標高差450m、平均斜度5.3%。
この切通しのすぐ先には霧積温泉の駐車場があり、そこで北軽井沢松井田線は終わります。金湯館へは一般的にはそこから山道を歩いていくことになりますが、実はもう一つルートがあります。
それは切通しのすぐ手前から始まる林道です。ここに先行していた二人の姿がありました。
この林道にはゲートが設置されていてこの先は一般車は通行禁止になっています。先へ進むには金湯館に連絡する必要がありますが、私たちは事前にこの林道を使ってアプローチすることを伝えてあるので、ゲートの横を抜けて進みます。
さて、このゲートでほぼ金湯館に着いた気分になっている私たちなのですが、実はここからが結構大変なのでした。
ゲートの先はまずは巨大な岩壁の横を上る激坂です。ここは誰も自転車に乗って上ろうとするものはおらず。
激坂上りが終わり、なんとか自転車に股がって上って行きます。
このあたりで上から金湯館の車が下ってきました。下の駐車場だか横川駅だかに客を迎えに行くようです。この宿の方にこの後の道の情報を聞いたムカエルは、『え〜、これからまだ2kmも行かなくちゃあならないってよ。』 と、びっくり。
下のゲートの標高は950m、向かう金湯館の入口は1,080mで、まだこれからだいぶ上らなければなりません。
『え〜! まだ100m以上も上るの〜』 と、すっかり宿に着いた気分になっていたマージコはここから飛んで行きたかったのですが、離陸ポイントは見当たらず。仕方なく地べたを這って進んで行くのでした。
ゲートから20分ほど上りました。金湯館までの林道の半分ほどを進んだところでしょうか。振り返ればいい色になった山の向こうに妙義山が見えています。
この色合いを見ると、だいぶ高度を上げてきたようです。
いつの間にか近くの景色も、緑色、黄色、オレンジ色のパレット。
麗しき色彩のマジックを見ているうちに勾配が穏やかになり、そのうちそれは下りに転じました。
この近くの木々の色といったらまるで新緑のように爽やかで、心がざわつきます。
木立の間に赤い屋根の金湯館が見えてきました。思いのほか下にあります。
あそこまでどうやって下るのかな、と思っているところへ再び宿の車がやってきました。歩きならまっすぐ行ってから階段、でも自転車ならこのすぐ先の細道を下って押して行った方がいいとのこと。
案内の通りに細道を行くことにしましたが、この入口の勾配がもの凄くてズリズリ滑り落ちそう。
折り返すとなんとか押して下れるようになりました。
『いや〜、こりゃあ本当に秘湯だわ。。』 とムカエルが唸る。
さらさらという音、ん〜ん、さらさらじゃなくて、ザワザワかな、雨が降っているような音がします。川の流れる音です。
金湯館に到着。写真に木製の樋が見えますが、その先で大きな水車が回っていました。
ゲートから金湯館近くのピークまでは2.1km、登坂高度140m、平均斜度6.7%でした。
いや〜お疲れさま〜
このあとはゆったりと39°Cというぬるめのカルシウム硫酸塩温泉に浸かり、そして絶品の骨酒(岩魚)をやりながら、まったりと山菜中心のおいしい夕食をいただいたのでした。
あ、箸袋には西条八十の『ぼくの帽子』(のちに『帽子』と改題)の一節が刷られていましたよ。
すべて、すべて、◎
◆ひとこと by サリーナ
今年はステイホームに加えて週末ごとにお天気が怪しくなかなか走れませんでしたが、ようやくお泊まりポタの機会がやってきた。時期は紅葉、土日ともピカピカの晴れ予報。いざ、霧積温泉へ!
スタートは軽井沢です。木漏れ日の中をポタポタしていると、目の前に広がったのは青空の下、赤く染まった紅葉を水面に映す雲場池。もう、これだけで来た甲斐があったというものです。 続いて旧・新の碓氷峠を楽しんだあと、いよいよメインイベント霧積温泉への上り。今日のために『人間の証明』も読み直して臨んだルートは、霧積ダムから秘境感満載に。細い道をゆっくりゆっくり上っていけば、標高が上がるに連れて深い渓谷の両側で次第に木々が色づき始め、『いいねいいね〜』と疲れも吹き飛びます。
ところが、『やっと着いた!』と思った林道のゲートから金湯館まではさらにキツい上りが続き、ついにノックダウン。へろへろとたどり着いた宿は谷の中にひっそりと佇み、まさに秘湯そのものでした。お湯が溢れるぬるめの温泉でじっくり温まり、離れの部屋で5時過ぎから宴会に突入です。
川魚や山菜の天ぷらなどどれも美味しかったですが、やはり衝撃は『骨酒』。日本酒で満たされた大きな鉢の真ん中には焼きたての岩魚がど〜ん。岩魚のうま味がお酒にしみ込んでうまいのなんの。思わず『骨酒』の前に席を移した私サリーナなのでした。飲んべたちのために、できたおかずから次々と届けてくれた宿の皆様に感謝です。
ところで翌日。マージコの熱烈な誘いを受けて、マージコと私は本隊と別れてお手軽P組コースへ。碓氷湖を散策し、横川の鉄道文化むらでゆっくり楽しく過ごしましたが、合流してきた本隊の面々に聞けばジオポタ史上でも稀に見る過酷なルートだったとか。P組でよかった。これからもマージコについていきます。