11月中旬、群馬県みなかみ町の温泉に行くことにしました。初日は旧三国街道の須川宿とその周辺を巡り、湯宿温泉(ゆじゅくおんせん)に宿泊します。
東京から新幹線で1時間20分の上毛高原駅で下車すると、さすがにここは都心に比べ気温がぐんと低く、寒さを感じます。駅前のドウダンツツジは真っ赤。
利根川の東側の山を見れば、僅かに残っている紅葉が目を楽しませてくれます。
ここから須川まではバスで向かいますが、このバスが30分以上もないときました。新幹線に合わせられないものでしょうかね。もっともこのバスは沼田からやって来るので、新幹線より上越線の利用者の方が多いのかもしれませんが。
時間に余裕があるので、駅のすぐ横にあるみなかみ町観光センターを覗いてみました。
観光案内所で地図をいただき、土産物が並ぶ店をちら見。季節的にはちょっとどうなのかと思いますが、一角に吊るし雛が展示されていました。かなり凝った作りで、かわいらしいです。これも郷土作家の手によるものなのでしょう。
ようやくバスの出発時刻になりバス停に赴くも、待っている人は誰もおらず、ちょっと不安になります。田舎ではどこでも基本的な足は車なので、バスを使う人は稀なのでしょう。やってきたバスには一組だけ乗客がいましたが、この人々以外は最後まで乗ってくる者はおらず。
バスは利根川の支流の赤谷川の渓流に沿って進んで行きます。本日の宿泊地の湯宿温泉で赤谷川を渡ったバスは急角度の坂道を上って行きます。グワオ〜ン。
須川の集落の入口まで上ると、そこには道の駅『 たくみの里』があります。
私たちを乗せたバスはこのすぐ手前の小さな駐車場で停車。バス停の横には藁で作られた『わらバス』がありました。このわらバス、乗車して操縦もできますよ〜
この地区は、かつての須川宿とその周辺の民家を改修して作られた町並み保全地区の『たくみの里』であり、匠が経営する工房が点在し、藁で作られたアートが全部で7点(もう1点あるが遠い)置かれています。これはいわゆる町おこし事業の成果なのですが、これがなかなかのもので、結構な数の観光客の姿がありました。
道の駅『たくみの里』の前には今年の新型コロナウイルス感染症のおかげで再発見されたと言ってもいい、疫病の流行を予言したとされる妖怪アマビエの藁人形が置かれていました。
藁アートの最新作がこのアマビエです。世の中にたった一点だけだというアマビエの絵に、まあまあよく似ていますね。
さて、これよりたくみの里の散策です。たくみの里は徒歩で巡ることも可能ですが、自転車の方が行動範囲が広がるので、私たちはレンタサイクルです。ここで貸し出しているのは全部電動アシスト車でした。
人生で二回目の電動アシスト車にちょっとおろおろのサリーナ。
このあたりは野仏が多いようで、ガイドマップでは『野仏めぐり』が紹介されています。9つの野仏を巡ると景品がもらえるそう。これは道の駅のすぐ近くにある1番目の野仏で道祖神。
つまり『たくみの里』には、かつての須川宿の魅力に加え、匠の工房巡り、藁アート巡り、そして野仏巡りという楽しみ方があるというわけです。
私たちはまず藁アート第1号を観ようと、村の南東にある信号機のところに向かいました。
そこにあったのは『わらシシ親子』。巨大〜 なかなかの迫力です。藁アートの展示は平成29年度からとのことなので、制作されてから3年が経過したものと思われますが、補修を繰り返しているのかあまり傷みは見られません。ちょっと日に焼け、黒ずんでいるところがまた迫力に繋がっています。
この『わらシシ親子』付近からは、北に谷川連峰がバ〜ン!
ここは周囲を山に囲まれており、赤谷川の東の山もよく見えます。
山の紅葉はやはりそろそろおしまいのようですが、里は木によってはまだ黄色や赤いものもあります。
『わらシシ親子』と谷川連峰に感動したら道の駅に戻り、宿場通りを北上します。この宿場通りがかつての三国街道でしょう。
この日はちょっと風が強く、電動アシストで大正解。
火の見櫓の下に板木(ばんぎ)がありました。
板木はサリーナがやっているように木槌で打ち鳴らすもので、火災時はもちろん、集会などの合図としても使われたそうです。
火の見櫓のすぐ先には水車小屋があります。
解説がなかったようなので何のために使われたのかははっきりしませんが、おそらく穀類を挽いたのでしょう。
おっと、藁アートを一つ見逃しました。戻ってやり直し。
宿場通りからちょっと入った畑の端にいるのは大きな藁のイヌワシです。ここの藁アートはみんな完成度が高いですね。
イヌワシの横はリンゴ畑です。真っ赤でおいしそう。
イヌワシを眺めたら宿場通りに戻ります。
須川宿資料館には須川宿や旧新治村内の旧家の所蔵品などが展示され、旧本陣家の上段の間が復元されています。建物は新しいですが、門は当時のものだそうです。
宿場通りには水路があります。
ここが須川宿だったころはこの水路は三国街道の真ん中を流れていたそうで、須川宿資料館の中にそれを示す絵が展示されていました。
須川宿の北の外れ近くから南を見たところです。街道ですから真っすぐですね。
宿場通りがほぼ終わったところで進路を変え、熊野神社に向かいます。
宿場通りから100mも進まぬうちにそれは現れました。畑の向こうにこんもりした林が見え、その中に赤い鳥居が立っています。この鳥居をくぐって進めば、小川とも呼べないような小さなせせらぎが流れています。静かでいい感じ。
このせせらぎのすぐ先に熊野神社の小さな社は立っています。
そしてその横に『わらくま』。これは去年制作されたようで、少し傷みが見えますが、迫力満点! グァオ〜
この熊野神社の境内から西を見れば、木立の間からわずかに紅葉を残した山が見えます。
熊野神社を出たら次は『わらべこ』へ。
道端に咲くかわいらしい小さな菊の花の向こうに谷川連峰が。。。 雲に隠れていますね。
宿場通りに平行して通る寺通りに入ると、馬小屋の前に『わらべこ』はいました。なぜ牛小屋ではなく馬小屋の前?
ま、それはいいとして、角、長すぎねぇ〜?(笑) でも、足の感じとか、いいね。
寺通りをなおも北西に進めば、正面に高畠山が見えてきます。
この中にポコンと飛び出しているのは駒形山で、大きな岩壁が露出しています。頂いた地図にはこの岩壁は馬の横顔に見えるとあるのですが、どうもよくわかりません。
この地区に野仏が多いことは先に述べましたが、これもその一つです。
ガイドマップに載る9つが有名なのだと思いますが、これはそれには載っていないやつです。でも、二人並んで澄まし顔、でいいじゃないですか。
周囲の山は最後の紅葉が残照のようにほのかに灯っています。
さらに行けば、馬頭観音など三つの石仏石碑が並んでいます。
これも無番無名の仏さま。
寺通りが終わった先は、ガイドマップでは『初越のこみち』があることになっています。
この入口に向かえば、白壁の土蔵が立っています。腰はなまこ壁で、全体としていい状態です。
この土蔵のすぐ先から『初越のこみち』は始まりました。
初越(はつこえ)はここの地名で周囲には様々な花が植えられているようですが、この時は残念ながら咲いているものはありませんでした。
この『初越のこみち』を入るとすぐに『風の掲示板』なるものがあります。木の札に様々な願い事が書かれています。確かに風が吹けばカランコロンと音がしそう。
ここはたくみの里の最も奥になる場所で、古くは歌垣(うたがき)の杜だったといいます。歌垣とは、特定の日時に若い男女が集い歌舞する自由恋愛の行事とのことだそう。へ〜え、昔の日本て自由恋愛だったんだ〜 おっどろき=
ここに見る札にはもちろん、恋愛以外のこともたくさん書かれていますがね。(笑)
『初越のこみち』は激坂のダートでした・・・ でも電動自転車だからス〜イスイ。
ただ、途中で停まってしまったサリーナは再乗車できずにヨタヨタ。電動といえども、乗り出しはむずかしい。
なんとか『初越のこみち』を抜けて舗装路に出ました。
するとそこにはいい感じのモミジが。
盛期はちょっと過ぎて地面にたくさん葉を落としてはいますが、このモミジはなかなか見応えのあるものでした。
野仏のNO.7になっている大黒天がこのモミジの下にひっそりといらっしゃいました。
ここは鄙びていて、ちょっと場所が大黒さま向きじゃあないような気もしますが、まあいいか。
この大黒さまから森の中に入り、それを抜けると、おっと〜〜〜
ここで本日一番の紅葉! 真っ赤〜
さて、残っていてくれた紅葉に感謝したら、下界に下ります。
山合いから開けたところに向けての穏やかな下りは、なかなか気持ちいい。
サーッ!
次に目指すは一之宮地蔵です。
頂いたガイドマップは正確な縮尺の地図ではなく、よくあるスケッチ調の絵図で、道の形状や太さが不正確なため、このお地蔵さまになかなか辿り着けず、あっちをうろうろ、こっちをうろうろ。
何度めかのトライでようやくその場所に辿り着いたのでした。
お地蔵さまは老木の下、思いがけず立派なお堂に守られておりました。
お堂が大きいので、その中にいらっしゃる地蔵はどんなに大きいものかと思いましたが、そうべらぼうでもありません。
横に置かれた幟には願いが叶ったことへの感謝の言葉が書かれています。願を掛けた時に縄で縛り、それが叶うと縄をほどくという地蔵はいくつか見て来ましたが、こうした幟の風習はここで初めて目にするものです。
このお地蔵さまの前の畑に植えられているのはなんという植物なのかわかりませんが、すでに収穫され、枯れているようです。
それがなぜか紅葉しているようにも見えるから不思議です。
一之宮地蔵の次は泰寧寺です。
その入口には地蔵が何体か置かれていましたが、状態が良くないものもいくつか。
この地蔵の前を通り奥へ進むと、ちょっとした石橋が架かり、
その周囲がもみじで覆われています。
このもみじが黄緑色から赤までそろい、いい感じです。
石橋の先には立派な山門が立っています。
よく見れば手前の石垣もかなりの大きさで、迫力があります。そういえば先ほどの石橋の下には岩がごろごろしていましたが、あの小川がこれらの岩を運んできたのでしょうか。
石垣を眺めつつ階段を上って行くと山門です。
その天井には龍の絵があります。こうしたところは鳴き龍になっていることが良くあるので手を叩いてみましたが、ここはどうやらそれではなかったようです。
山門をくぐり抜け、さらに石段を上ると本堂の前に出ます。
ここは山寺なので石段と本堂の間のスペースが狭く、大きな本堂がカメラに収まりません。本堂の前にはススキが植えられており、
横にはイチョウの大木があります。
このイチョウはまだだいぶ葉を残していて見事です。
お参りを済ませて振り返ると、山門を背景に、モミジがいい色になってきていました。
すでに13時近くなのでここで昼食にします。
ガイドマップで泰寧寺付近の食堂を探すと『四季の家』がありました。ここは蕎麦打ち体験もやっているようです。
通されたのは母屋の前に後から付けられた下屋で、日当り良好。目の前に干し柿がぶら下げられています。
定番の天ざるは打ち立ての蕎麦がおいしく、天ぷらがたっぷりでした。突き出しのきゃらぶき、おかわりをくださいました。
午後の部は村の西と南を巡ります。
四季の家を出て南西に向かうとちょっとした棚田がありました。その向こうにはあの谷川連峰。
たくみの里の南西もまた山です。その懐に向かっているので、またアップダウンです。
そんな中、道端に立派な白壁土蔵が立っています。こうして見るとやはりこの地区には伝統的な建築がいくつか残っています。
南西の奥で道の駅方面から来る庄屋通りに道が突き当たりました。ここでたくみの里は終わるので、道の駅に引き返します。
するとすぐ、野々宮神社がありました。入口には石塔がずらりと並び、赤と黄色の紅葉が見えます。
参道を進むと針葉樹林の中に鳥居が立っています。奥に見えるのが拝殿で、その前に立つ灯籠には寛保三年(1743年)の文字が見えます。
拝殿のうしろには覆屋に守られた本殿があります。この時はこの覆屋の塗り替えをしていたのでちょっと覗いただけですが、本殿はそう古いものではなさそうです。
社の横には慶應4年建立の淡島大明神が祀られています。
淡島様は女性や子供に御利益があると標識に書かれています。どうしてか、男に御利益があるという神様はいらっしゃらないみたいですね。
野々宮神社にお詣りしたら庄屋通りをまっしぐら。
野々宮神社からすぐのところにある金泉寺を通り越すと、刈り取られた田んぼの先に、いい紅葉の小山が見えます。山も平地に近いところはまだ紅葉が残っていました。
庄屋通りには旧大庄屋役宅書院があります。最初入ったのは2階建のこのお宅でしたが、どうもここではないようでした。
それにしてもでっかい家ですね。
上の家の隣にあるのが旧大庄屋役宅で、1842年(天保13年)竣工の書院がくっついています。この建物の屋根は現在は金属板葺ですが元は茅葺だったそうです。
で、肝心の書院はどこか。それは向かって左の端にあったようなのですが、ここはどう見ても一般の民家なので見学できないものと思い、引き上げてしまいました。あとで調べると、予約すれば見学できるようでした。
ここまで匠の工房を一軒も覗いていないので、『竹細工の家』に寄ることにしました。その前には『わらネズミ』がチュウチュウ。
『竹細工の家』では竹トンボや水鉄砲、そして竹の花入れを作っている方が数組いました。ここではきれいな竹細工の販売もされています。
『わらネズミ』と『竹細工の家』を観たら本日の『たくみの里』巡りは終了。
りんご畑の中を進んで、道の駅に戻ります。
道の駅で自転車を返却したら、徒歩で本日の宿泊地の湯宿温泉に向かいます。
湯宿温泉はR17が通る赤谷川の畔にある鄙びた温泉です。
しかし江戸時代の主要道はこのR17ではなく、先ほど観た須川宿がある旧三国街道でした。
開湯は約1,200年前と伝わります。その後、関東と越後を結ぶ三国街道の宿場町として栄えましたが、現在は4つの共同浴場がありますが、旅館は僅かに4軒のみです。
江戸時代、面白いことにこの温泉が流行り出すと、客が減った須川宿から営業差し止めの訴状が出されたことが記録に残っています。やはり当時から宿泊するなら温泉が良かったわけですね。
またここは、初代沼田城主の真田信之が関ヶ原の合戦の疲れを癒すために訪れて以来、真田家ゆかりの温泉地となりました。
私たちは少し早めに宿に入り、貸し切りの露天風呂でのんびり寛いだのでした。いや〜、これは気持ちいい〜〜 この時、共同浴場は残念ながら新型コロナウイルス感染症対策のため閉鎖されていましたが、ゆっくりと骨酒をやりながら、豪華な夕食をいただいたのでした。