歌川広重の名所江戸百景シリーズの14回目は、それらの中で最も東の地点となる江戸川沿いの3景。東京東部から千葉西部にかけてはたくさん川があるので、川を巡るショート・トリップでもあります。
本日のランデヴーは旧江戸川の浦安橋東詰でミルミルと、市川の手児奈霊神堂でマージコと。サイダーとサリーナは小石川を出発、あとのメンバーはそれぞれの出発地からランデヴーポイントへ向かいます。
まず渡ったのは隅田川の清洲橋。ドイツのケルンにあった世界で最も美しい橋と呼ばれたヒンデンブルク橋(吊り橋で現在のものとは異なる)をモデルにして造られました。勝鬨橋や永代橋とともに国の重要文化財に指定されてますが、これらの中でもこの清洲橋がもっとも美しいと思います。清洲橋の西岸は千代田区日本橋中州で、隅田川を渡ると江東区清澄。清洲橋の名はこの清澄と中州から一文字を取って付けられました。
清澄にある清澄公園に入ります。ここは元は三井財閥の深川親睦園だったところで、隣には同じく深川親睦園だった清澄庭園があります。公園の方はオープンで写真の広場とちょっとした池があります。庭園の方はきれいな回遊式林泉庭園で、150円で入場できますので時間があるときにはぜひどうぞ。
清澄公園の南を東西に流れているのは仙台堀川です。
仙台堀川の名前の由来は、この北岸にあった仙台藩邸の蔵屋敷から来ているようです。
仙台堀川は東の方は親水公園になっていますが、このあたりは公園とまではいかず、道のどちらかに遊歩道が設えられているくらいです。
木場公園のちょっと東にある石住橋までやってくると、ここが仙台堀川親水公園の入口です。
この入口を入ると、歩行者兼自転車路が延びています。
横十間川との交差点を過ぎ、公園の東端までやってきたところでこれを出て、葛西橋通りに入ります。
都道10号線である葛西橋通りは交通量が多い道ですが、荒川を渡る橋に向かう道はどれも似たり寄ったりです。
道路名の元になった葛西橋までやってきました。葛西橋の荒川を渡る部分の橋長は565.2mあり、清洲橋の186.3mに比べ相当に長いです。清洲橋と同じ吊り橋に見えますが構造はだいぶ違っていて、吊り材は補助的なものだそうです。
長さがあることもあり、スマートに見えますね。
さて、この葛西橋で荒川を渡りましょう。このような大きな橋にはほとんどの場合広い歩道が設けられているのであまり不安なく渡れますが、古い橋はこれが狭く、ちょっと通り難いです。
荒川の東には中川が流れています。こちらの橋長は162.2mでほぼ清洲橋と同じ長さですが、吊り橋ではありません。
中川を渡り切ると江戸川区に入ります。葛西橋の歩道は途中でなくなり、階段で下の道に降りる設計です。これは良くないですねぇ。
江戸川区をどんどこ行って浦安橋を渡ります。川は旧江戸川で、すぐ先に現れるのは東京23区で唯一の自然島である妙見島です。現在この島は周囲がぐるりとコンクリートで覆われており、ほとんど巨大なコンクリート船の様相を呈していますが、古くは中州で、流れる島とも言われていたそうです。
江戸時代、この妙見島の北に新川が開削され、行徳船の航路になっていました。このあたりは曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の舞台としても登場する地です。今日はこのあと南総里見八犬伝にゆかりの地を巡ることにもなるのです。
旧江戸川は妙見島を取り巻いて流れており、先ほどの写真は東京側の狭い方の流れを写したものですが、その三倍ほどの幅を持つ流れが島の東側の千葉県側にあります。これを渡ると浦安市猫実(うらやすし ねこざね)です。
ここで無事ミルミルとのランデヴーに成功。猫実とその隣の堀江の境を流れる境川に沿って東へ向かいます。川を挟んでミルミルが通っている北側が猫実、南側が堀江です。
すると程なく境橋に出ます。この橋の欄干には昭和時代の始め頃と思われる古い写真が何枚か展示されています。そのころはまだ海が近かったと見えて、中には鯵の開きやカレイを干しているものがありました。いや〜、これはいい風景ですね。
現在は、埋め立てられて海が遠くなったことと、海が汚れてしまって海産物の水揚げが当時ほどなくなってしまったことで、今日ここでそうした景色を見ることはできません。すぐ近くで貝の加工をしているところがあったので話を聞いてみると、このあたりで漁業はほとんど成立しなくなっていて、加工している貝は北海道産だそうです。海がすぐそこにあるのに、もったいないですね。
このあたりの歴史がいつまで遡るのかはよくわかりませんが、少なくとも徳川家康が江戸に居城を構えると、多くの漁民が紀州から移り住み、漁業と農業で生計を立て村の基盤を築いていったようです。
さて、本日最初の名所江戸百景です。画題の堀江と猫実は先ほど申し上げたように地名で、現在も浦安市のそれとして残っています。この絵は遠景に描かれている富士山からもわかるように東から西を向いて描かれています。境川を挟んで左が堀江、右が猫実。右手の林の中に立つのは豊受神社でこれも集落と同様に現存します。この神社は1157年(保元2年)創建で浦安市最古の神社だそう。
境川が突き当たったところに二本の帆柱が見えますが、あそこが先ほど浦安橋で渡った江戸川です。ヘンリー・スミス(広重 名所江戸百景/岩波書店)によれば、手前に架かる橋は境橋で、うしろの橋ともども残っているといいます。 境橋はあの古い写真が展示されていた橋です。この絵には安政三年(1856年)二月の改印があり、名所江戸百景シリーズの初めて出版された5枚の内の1枚です。他の4点は、『玉川堤の花』『千住の大はし』『芝うらの風景』『千束の池袈裟懸松』 と、いずれも江戸の人々に一応知られる場所でしたが、ここは遠隔の地で、江戸っ子の好物のあおやぎ(バイガイ)などの貝の産地として有名な場所だったといいます。近景に描かれている鳥は千鳥の仲間の大膳(だいぜん)だろうといい、笛を吹いておびき寄せ、砂に隠した千鳥無双網を引き起こして鳥を包む猟法で捕えられたそうです。もちろんこれは食用です。
さて、絵に描かれている豊受神社に行ってみましょう。
20世紀初頭のこのあたりを今昔マップを見てみると、田んぼの中に堀江と猫実の集落がぽつんとあることがわかります。その後百年でいかに人口が増加したかということですが、これは驚くほどだということがこの古い地図を見るとよくわかります。この豊受神社もその地図にしっかりと名が見えます。
境内に入るとひょうきんな狛犬が迎えてくれます。
狛犬って本当にいろんな表情をしていますよね。ここのはちょっと弱気っぽいかもね。
江戸湾に近いこのあたりの集落は台風や津波によく襲われていたようで、猫実の名は、波が堤防の上に植えられた松の『根を越さぬ』ようにとの願いから、「ね、こさぬ」→「ねこざね」となったようです。
豊受神社の南東に大三角線を斜めに突っ切る道がありますが、ここにその堤防はあったようで、現在も僅かながら段差が見られます。江戸時代の海は現在よりもずっと内陸にあったことが先ほど紹介した今昔マップからも見て取れます。
このあたりの集落が昔からあったことは古い建物が残っていることからも推測できます。
これは旧濱野医院で1929年(昭和4年)築の浦安で最初の洋館。昔の待合室や診察室の様子を見ることができます。
旧大塚家住宅はこのあたりで唯一残る茅葺き屋根の家ではないでしょうか。周囲に家が建て込んできたからかその姿は通りからは見えず、境川の対岸からしか認識できません。生業が漁業だったことから船が往来した境川に沿って、ほぼ南面して建てられています。このあたりの民家は境川に近い方に土間、遠い方に客座敷が作られていたことが大きな特徴で、境川を挟んだ堀江地区と猫実地区とでは対称の間取りとなっていたらしいです。これは面白いですね。
この家には屋根裏2階があり、土間と玄関の天井から上がれるようになっているといいます。これは、たび重なる水害に悩まされてきた先人たちが生活の知恵として考えたものだそうです。
この時はコロナで、このあと伺う旧宇田川家住宅ともども内部の見学はできず。
その旧宇田川家住宅です。この住宅は1869年(明治2年)に建てられたもので、建築年代がはっきりとわかるものとしては浦安市で最古の民家とのこと。先ほどの旧大塚家住宅と異なりこちらは商家でした。
道路に面した店部分と裏の住宅部分からなります。店は、米屋、油屋、雑貨屋、呉服屋などとして使われてきたそうです。
面白いことにこの店部分の横には工場部分と考えられる部屋がありました。
その中央には突き臼が設置されており、片隅には脱穀機が置かれていました。脱穀機は展示されているだけで、実際はここではなく他のところで使われたものでしょう。
堀江・猫実地域の見学を終えたら、旧江戸川に出て市川方面を目指します。
旧江戸川には遊歩道が設えられているのですが、その入口に堀江ドックがありました。ドックと言ってもここは造船や船の修理を行うところではなく、船溜まりのようです。最近ここはあまり利用されていないように聞きましたが、この時はそれなりに船が停泊していたように思いました。
江戸川沿いには有名なサイクリングロードがあるので、ちょっとした自転車乗りの方なら一度くらいは走ったことがあるかもしれませんね。江戸川サイクリングロードと言った場合、下流域は江戸川(放水路)ではなくこの旧江戸川沿いの道を指すと思います。
これは東京側千葉県側ともにあるようですが、千葉県側のこのあたりの状況は写真のとおりです。
東西線の線路橋と私たちが今朝通ってきた浦安橋をくぐり抜けると、左手はあのコンクリート船の妙見島です。
この島のほとんどは産業廃棄物の処理やその中間処理のための施設となっていて、普通の人が立ち入れる雰囲気ではありませんが、当然公道が繋がっており、なんとラブホテルもあるからびっくりです。いったいこのホテルは誰が使うのでしょうか。わからん。。
それよりこの島の名の元となった妙見神社が依然として島の北部に残っています。いつごろここに妙見菩薩さんがおいでになられたかは知りませんが、おそらくその頃とは丸でこの島は様子が違っていることでしょう。妙見菩薩さんはどんなふうに見ているんでしょうね、この島を。
妙見島を過ぎ旧江戸川に新中川が流れ込むと、行く手は大きくカーブして東に向きを変えます。そのすぐ先にある今井橋あたりには、かつて家康が1631年(寛永8年)に設けた『今井の渡し』がありました。現在このあたりの対岸、江戸川区側はマリーナで、こちら側には漁船が停泊しているのが見えます。
ツール・ド・江戸川区 名所江戸百景3で紹介したように、この江戸川区側には名所江戸百景の『利根川ばらばらまつ』があったとする説があります。その『ばらばら松』があったらしいあたりには現在、江戸川区の清掃工場の大煙突が見えます。
本行徳までやって来ると、土手上に石灯籠が見えてきました。行徳は製塩業が盛んであったことから、徳川家康により天領と呼ばれる幕府の直轄地とされました。家康は『今井の渡し』を造った翌年の1632年(寛永9年)に、行徳で生産された塩を直接江戸へ運ぶために、江戸川から中川を経由し隅田川に至る運河を造らせました。この航路の独占権を得た本行徳村はここに河岸を設置し、毎日明け六ツ(午前6時ごろ)から暮れ六ツ(午後6時ごろ)まで運航していました。これが行徳船(ぎょうとくぶね)の始まりです。
行徳船はここから江戸川を下り、新川と小名木川を経由して日本橋の小網町まで、水行三里八町(約12.6km)というものでした。文化・文政期(1804年〜1830年)になると、この行徳船は成田山への参詣路として旅人の利用が多くなり、当初10隻だった船は幕末期には62隻にもなり、江戸との往来がますます盛んになったそうです。 この常夜灯は1812年(文化9年)に、成田山にお参りする江戸の講中が航路の安全を祈願して奉納したものです。
当時は灯台としての機能を受け持っただろう常夜灯を眺めたら、土手をさらに北へ向かいます。
この常夜灯付近は土手が高くなっており、眺めがいいです。土手全部がこうなるといいのですがね。
ここでちょっと川沿いを離れ、妙典で昼食です。
今日は珍しくもちゃんとしたおフレンチ。前菜はこれ。メインは若鶏もも肉のポアレ、デザート2種にコーヒーで1,690円は脅威のコストパフォーマンス。味は言うことなしで全員満足でした。
旧江戸川が江戸川から別れる地点が近づくと、先に篠崎水門が見えてきます。
篠崎水門は通称らしく、正式名称は江戸川水閘門のようです。これは旧江戸川を仕切る水門と、水位が異なる河川間で船を上下させるための装置である閘門からできています。右手に見える連続した塔が立つところが水門、左手に見える凱旋門のような形のものが閘門です。閘門はいわば船のエレベーターで、その仕掛けから2門で一組です。
江戸川水閘門は1936年(昭和11年)に着工、戦時中の1943年(昭和18年)に完成したもので、現在も現役です。
閘門を覗いてみましょう。この時はちょうど水上オートバイが入っていました。すでに両側のゲートが閉じられ水路内に水が満たされたところで、これから上流側のゲートが開きます。
警報音が鳴り、しばらくするとゆっくりゲートが開き始めました。そこを勢い良く先ほどの水上オートバイが通り抜けて行きました。
ここは何度も通っているのですが、実際に船が通り抜けるのを見たのは今回が初めてです。ラッキー!
旧江戸川の篠崎水門を見たら、江戸川の行徳橋を渡ります。
篠崎水門と行徳橋のそれぞれのすぐ上流で旧江戸川と江戸川は別れています。旧江戸川はかつては江戸川の本流でしたが、治水などのため江戸川放水路が整備され、これを江戸川と呼ぶようになったため、旧江戸川と名称変更されたものです。現在江戸川と呼ばれているのが人工的に開削された江戸川放水路です。
行徳橋は行徳可動堰と一体構造でそのすぐ下流側を通っていましたが、これは撤去工事中で、堰のすぐ上流側に新たな行徳橋が架けられました。
行徳可動堰は江戸川を仕切る堰で、治水、海水の溯上防止、上水道水源の確保、といった役目を、篠崎水門と連動して負っています。
さて、旧江戸川と江戸川の分流点を眺めたら江戸川左岸のサイクリングロードを一路上流へ進みます。
右手にタワーマンションが二本立っているのが見えます。あそこは市川の駅前です。
あっちにタワーマンションが立っていると思えば、こっちには意外なものがありました。ガチャガチャな工場! ここは製紙工場だそうです。
アポロの月着陸船もそうでしたが、こういうものに興味をそそられるのは、純粋に機能だけでできているからだろうと思います。かっこ良く造ろうとか、そういったものが一切ない。
総武線の鉄道橋、R14の市川橋、京成本線の鉄道橋をくぐり抜けると、先に国府台(こうのだい)の台地のこんもりとした森が見えてきました。
本日の名所江戸百景の残りの2点はあそこです。
国府台駅のすぐ北で、台地の下を流れる真間川(ままがわ)沿いの道に入ります。ある地方で「ママ」は古語で「小さな崖」を意味すると聞いたことがあります。この真間ももしかするとこれからきているのかもしれません。
またこの川は、万葉集に詠われた真間の手児奈伝説に登場する『真間の入江』の跡とされているようです。
その手児奈伝説を今日に伝えるのが、このすぐ先にある手児奈霊神堂(てこなれいじんどう)です。
真間川に架かる橋の一つを渡り北へ向かうと、正面は国府台の森で弘法寺(ぐほうじ)が立っています。この参道に赤い継橋(つぎはし)がありますが、ここに川は流れていないようです。
真間の入江には砂洲がたくさんあり、その砂洲と砂洲とをつなぐために板橋が架けられていたことから、あるいは二つの橋をつなぐ小さな橋を指し、継橋と呼ばれるようになったようです。
手児奈霊神堂はこの継橋の北の東側に立っています。ここで無事、マージコとランデヴー成功。
さて、万葉集の手児奈伝説ですが、それは、2人の男に求婚され入水して果てた手児奈という美しい娘の話です。先ほどの継橋は、この求婚者が手児奈の元へ通った際に渡った橋でした。
奈良時代、この悲話を聞いた行基がここに寺を建立し、手児奈を手厚く弔ったそうです。平安時代になると空海がその境内を整備し、寺の名を弘法寺と改めたといいます。
これが今日の手児奈霊神堂と弘法寺の成り立ちです。
手児奈霊神堂の横にはきれいな白い睡蓮が咲く池があります。
でもこの池、よく覗いてみるとおっかなそうな生き物がいます。ちっちゃいときはかわいいのですが、大きくなるとちょっとグロテスクかも。ミドリガメことアカミミガメです。あ、おっかないのはカミツキガメでこれじゃあなかったか。
誰か放しちゃったのね。まあ、お寺さんには放生会というのがありますからね。ここなら退治されずに長生きできるかも。
弘法寺に行ってみましょう。弘法寺は手児奈霊神堂のすぐ北にあります。
石の門を通って石段を上って行くと、いつもそこだけ濡れているという涙石というものがあります。うっかり通り過ぎてしまって本当に濡れているかどうかは確認できませんでしたが。
この階段を上り切ったところに立つのが仁王門です。
仁王さまはそう古くはなさそうですが、かなり立派です。
仁王門から真っすぐ進むと祖師堂が立ちます。
このお堂は宗祖の日蓮を祀ったもので、この左に客殿、本殿と並んでいます。右手には樹齢400年の枝垂れ桜『伏姫桜』があります。
森の中に立つ鐘楼堂はこれまたものすごく立派です。
この東のゾーンは総じて桜の木が多いようです。
境内を西へ進んで行くと赤門があります。
この周囲は緑が美しいかえでの木です。秋の紅葉は見事でしょうね。
名所江戸百景の中で最も東の地がここです。画題の『真間の紅葉手古那の社継はし』は「ままのもみじ てこなのやしろ つぎはし」と読みます。
『真間の紅葉』は真間山弘法寺(ままやま ぐほうじ)の紅葉のこと。『手古那の社』は手児奈を祀った神社。『継はし』は先ほど述べた継橋のことです。『真間の継橋』は万葉集に度々登場し、歌枕として有名でした。つまりこの画題は、紅葉が見事な弘法寺から手古那神社と継橋を望む、という意味になります。
手前に二股に分かれたもみじ。その間から見えるのは、遠景に筑波山、中程に継橋、手前左手に手古那を祀った神社。ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、真間は遠隔の地ではあるものの紅葉を訪ねるだけの価値のある景勝地で、その昔は『真間のかえで』と称される大木があったそうです。この名跡を引き継いだのが弘法寺のかえでとのことですが、この絵に使われたかえでの色は残念なことに酸化してくすんでしまっていると。画題の神社と橋については、古の名所であるが、実際に訪れるというよりはむしろ文学の中に生き続けた場所、としています。
実景は弘法寺から手児奈霊神堂を見ると南を望むことになり、描かれている筑波山は反対の北に位置する矛盾についてスミス氏は、万葉集の手児奈に関する歌の少し前に筑波山に関する歌があるので、絵と文学上の距離の近さを示そうとしたのだと思うと述べています。
さて、弘法寺からは里美公園へ向かいます。和洋女子大学の間を抜けて進むと、公園というか空き地というかそんなところになり、道がなくなってしまいました。
しかしこの空き地の奥に『里美公園近道』の文字を発見。
その先は江戸川の川岸に下る細い道でした。
ここ、ちょっとワイルド。
ずずいと下って江戸川の岸辺を行きます。
ここはサイクリングロードになっていて車は通らず。
江戸川の岸辺からはひと上りして里美公園に入ります。この里見公園の名は、中世に活躍した地方豪族の里美氏から来ています。
この時期はバラ園がきれい。
この時の気温は27°Cと高く、湿度もあるらしくちょっと蒸し暑かったのですが、きれいなバラと噴水が目を楽しませてくれ、ちょっと涼しくなりました。
我らが美女軍団のミルミルとサリーナ。
バラよりきれい? うん、もちろん!
本日最後の名所江戸百景は、この里美公園付近から描かれたものです。ここは下総台地の西端で江戸川に面して長い崖が続いています。
画題の利根川は現在の江戸川のことで、ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、『鴻の台』は国府の台が約ったものと思われるとのこと。このあたりは古代に下総国の国府が置かれていたところで、現在の地名は市川市国府台(いちかわし こうのだい)です。また伝説では、日本武尊が東夷を征伐した帰路、このあたりで対岸へ渡るため浅瀬を探していたところ、一羽の白鳥が降り立ちそれを示し、丘で翼を休めたのを見て大変喜び、その丘を『鵠の台』と名付けたとされます。『鵠(くぐい)』は『白鳥』の古名です。国府神社の祭神は日本武尊で、ご神体はコウノトリのくちばしだそうです。
川を前にした崖は天然の要害で早くから軍事的な拠点になっていました。里見氏はこのあたりに居城を構えていましたが、16世紀にこの地で北条氏と戦って破れます。これはのちに曲亭馬琴が書いた、八犬士が房総の戦国大名・里見氏の危機を救う南総里見八犬伝に素材を提供することになります。この南総里見八犬伝により『鴻の台』は人々に知られた地となりました。里美公園の内には太田道灌が築いたものとされる国府台城の城跡があります。
遠景に富士山。ここからは現在も富士山が見えるそうですが、この日は残念。そして東京へ向かって続く延々10kmに及ぶデルタ地帯も見渡せると。実際ここからは東京都庁舎が見えました。白い帆をいっぱいに膨らませた船が川を下って行きます。江戸幕府が行った利根川の東遷事業の結果、広重の時代には、銚子で大型船から小型船に積み替えられた物資が利根川を遡って関宿から江戸川へ入り、行徳から新川、小名木川と辿って江戸に運ばれるようになっていました。
ここは行き交う船を眺めながら富士山まで一望できる景勝地であり、歴史ある地でもあることから、江戸近郊の行楽地の一つとなっていたのでしょう。
バラを眺め、南総里見八犬伝のおどろおどろしい物語を思い出したら、里美公園から下ります。
再び江戸川サイクリングロードに戻り、これをどんどこ北上します。
京成電鉄の成田空港線と北総線の橋梁をくぐり抜けるとほどなく江戸川の『矢切の渡し』です。『渡し』は渡し船のことで、矢切はこのあたりの江戸川の千葉県側の地名です。矢切の読みは本来は『やきり』と静音でしたが、某歌や駅、バス停留所名が『やぎり』と濁音としたため、最近は『やぎり』が一般的になりつつあるように思います。対岸の東京側は柴又。
この渡しは江戸幕府が地元民のために利根川水系河川の15ヶ所に設けた渡し場のうちの一つであり、いわゆる農民渡しの一つでした。現在まで続く数少ない渡しの一つで、誰でも200円で乗船できます。
矢切の渡しを眺めたら本日の最終チェックポイントの水元公園へ向かいます。
ところがなにやらちょっと雲行きが怪しくなってきました。風が強い。南から湿った風が吹いています。マージコによれば前線がやってきていて、もしかするとこのまま梅雨入りしちゃうかも、ということです。えっ、まだ5月だよ。。。
それはともかく、新葛飾橋で江戸川の右岸、東京側へ渡ると、
金町浄水場の二つの取水塔があります。とんがり帽子と丸い帽子。『こちら葛飾区亀有公園前派出所』にしばしば登場した、あれです。
下流の篠崎水門と行徳可動堰ができたため、ここまで海水が進入しなくなり水量も豊富になったために、ここで安定した取水が可能になったのです。
取水塔からさらに江戸川沿いを北上すると水元公園で、その中には小合溜という大きな水面があります。
小合溜は古利根川の河川敷でしたが、江戸時代の河川改修事業により水害対策用及び灌漑用の貯水池として古利根川を塞き止めて造られたもので、小合溜井と呼ばれていました。これが村々を潤す水源、水の元となったため、このあたりに『水元』の名が付いたそうです。
広大な水面を横目に進むマージコとサリーナ。
水元公園は花菖蒲で有名ですが、この時期はまだちょっとしか咲いていません。
しかしバラは満開でした。
今日は時間に余裕があるので、バードサンクチュアリーを覗いてみました。
水元公園では時々カワセミが見られるのですが、今日は残念。しかし、鴨にカワウ、そしてダイサギが見られました。
バードウォッチングを楽しんだらミルミルとはここで分かれ、マージコ、サリーナ、サイダーの三人は中川に出て、荒川へ向かうことにしました。
水元公園の小合溜の西は大場川と呼ばれます。ここにはたくさんレジャーボートが係留されているのですが、幾隻も半分沈んだままになっていました。数年前からの台風の影響でしょうか。
大場川から中川に出て、花畑運河に入りました。
このあたりはとにかく川と運河だらけです。花畑運河は護岸がコンクリートで固められているだけなので、あまり楽しくないのが残念ですね。
千住新橋付近で荒川サイクリングロードに出ました。
さすが荒川サイクリングロードだけあり、ここはひろ〜い!
尾竹橋通りの西新井橋が見えてきました。あの西新井橋で荒川を渡り、さらにそのすぐ先で隅田川を渡って帰るとしましょう。風、強!!!
今日は歌川広重の名所江戸百景から、その中でもっとも東を描いたものを含め、江戸川付近の3景を巡りました。広重の中ではここまでが江戸という認識だったわけですが、これはやはり物流の大動脈だった江戸川の存在が大きかったと思います。
これで東西南北で言えば、江戸からもっとも遠い地点を描いたところで残すは、南端の『はねたのわたし弁天の社』だけとなりました。また百景巡りで残す地点もこの南端付近の4景だけで、あと1回で名所江戸百景巡りシリーズも終了となるでしょう。