梅雨もいよいよ本番といったところで、ここのところずっと天気が不安定でしたが、なんとこの日だけ天気予報欄に傘マークがありません。そして蓋を空けてみたら、あれれ、空に青い色が。ラッキー!
古代蓮を見ようとやってきたのはJR高崎線の北鴻巣駅。参加メンバーは左から、紅一点ミルミル、16inchダホンの新車に股がるユッキー、2回目参加のビジター・ジンちゃん、へぼカメラのサイダー。
東口から目的地の『古代蓮の里』へ向かいます。
アベリア通りを進むとすぐに武蔵水路を渡ります。
この水路沿いには『さきたま古墳公園』まで続くさきたま緑道が整備されているのでこれに入ります。
この時期の緑道は木蔭が涼しく快適です。さきたま緑道は歩行者ゾーンと自転車ゾーンが分かれています。もっともこうした道が少ないから、歩行者は自転車ゾーンを歩いていることもしばしば。こういう道がもっと増えて、ルールが確立されるといいですね。
しばらく緑道を進むと元荒川を渡ります。
元荒川はその名のとおり、かつては荒川の本流だった流れです。驚いたことにこの元荒川の現在の源流は、ポンプで汲み上げられた地下水だそうです。
元荒川を渡ってからもさきたま緑道は続きます。
その横は緑の田圃。若々しい稲が育つ姿はきれいです。
2015年にここにやって来た時は気が付かなかったのですが、豊臣秀吉の小田原征伐に際し、石田三成が忍城(おしじょう)を水攻めにした際の石田堤が残っているところがあることがわかったので、ちょっとだけさきたま緑道を離れ、行ってみることにします。
その前に石田堤史跡公園に寄ります。
石田堤史跡公園はいくつかのゾーンから成りますが、中央部のガード下にパネルや土嚢の展示がありました。この展示は体系的ではないのでちょっとわかりにくいですね。
この南には修復・再現された石田堤がありますが、これはきれいに整備しすぎていてちょっと違和感があります。
石田堤は忍川の東岸にも200mほど残っています。
川向こうに見える松並木はその堤の上に植えられているものです。
忍川には1933年(昭和8年)建造で土木遺産になっている堀切橋が架かっています。
ユッキーの感想は、『この時代の橋って、みんなちゃんとデザインされていますね〜』
この堀切橋から北に延びる土手が石田堤です。
石田堤は28kmほどあり、三成は一週間で完成させたと言われています。しかし実際には自然の堤防などを巧みにつなぎ合わせたものと考えられており、この堤も自然堤防の上に1〜2mほど盛土したものだそうです。
江戸時代はこの堤に沿って日光裏街道が通じていたそうなので、この道がそうでしょうか。
ここに植えられた松並木はおそらくその時代から伝わるものなのでしょう。
石田堤を眺めたらさきたま緑道に戻ります。さきたま緑道の西側に武蔵水路が続くようになったので、しばらく水路脇を進んでみます。武蔵水路は首都圏の水不足を解消するため、高度経済成長期の1967年(昭和42年)に完成したもので、利根川の水を荒川に運んでいます。つまり荒川だけでは首都圏の水はまかないきれなかったということですね。
ここは武蔵水路脇でも緑道内でも、また水路と反対側の田圃側でも、いずれを走ってもそれぞれに楽しめます。
さきたま緑道の終点付近には『さきたま古墳公園』があります。
ここには1300年から1500年くらい前に建造され古墳が9基あります。
二子山古墳はその中でも全長が138mもあり、武蔵の国で最も大きな前方後円墳といわれるものです。
ここはもう少しゆっくり巡りたいのですが、蓮は午前中しか咲かず、時間が遅くなると良い姿が見られなくなってしまうので、古墳見物はあとにして古代蓮の里に向かいます。
青々とした田圃の先に古代蓮の里の展望塔が見えてきました。
旧忍川に出るとその脇には遊歩道が延びています。
この遊歩道の終点近くに古代蓮の里はあります。
古代蓮の里にはたくさんの種類の蓮がありますが、売りは『行田蓮』と呼ばれている古代蓮です。
約2000年前のこのあたりは湿地帯で、そこには蓮の花が咲いていました。その蓮の実が地中深くに潜り、長い眠りについたのです。1971年(昭和46年)にある造成工事が始まると、掘削により水溜まりができそれがやがて池になりました。1973年(昭和48年)、そこに蓮の葉が浮いているのが発見されたのです。そしてその蓮はついに花を咲かせます。それが行田蓮です。
古代蓮といえば千葉市で発見された大賀蓮が有名です。大賀蓮は発掘された縄文時代の蓮の実3粒のうち1粒が開花して、その後古代蓮として各地で育てられるようになりました。
行田蓮の年代測定は、出土した縄文土器とこの大賀蓮の例を参考にしているそうです。
大賀蓮と比べると行田蓮の方が花が大きいような気がします。
蓮の花はまだ咲き出したばかりのようで、6年前に来た時より数が少ないようです。
しかし数は少なくとも萎れた花がないのが咲きはじめのいいところです。
同じ行田蓮でも個体により色がずいぶん違います。
これは薄いピンク色。
これは上のものよりとても赤みが強いです。
もう少し閉じている方が好みなのですが、まあまあかな。
行田ではこの蓮の時期が一年でもっとも観光客が集まる時なのかも知れません。
鎧兜姿のボランティアさんが私たちに愛想を振りまいてくれました。暑いのに、お疲れさまです。
ゆっくり行田蓮を楽しんだら次は成就院へ向かいます。成就院にはちょっと珍しい三重塔があります。この塔は一間四面という造りです。一間とは柱間が一つであることで、四面とは方形の建物であるということ。つまり四角形の平面の四隅にしか柱がない建物ということになります。ちなみに今日一間といえばおおよそ1.8mという寸法を表しますが、ここでいう一間はあくまで柱と柱の間の数のことです。
三重塔には比較的小規模なものが多いですが、それでも三間四面ということが多く、一間四面はかなり珍しいと思いやってきたのですが、一間なのは初層の正面だけで、他三面は二間でした。芯柱は二層で止められており、内陣には須弥檀が設けられ、格天井が組まれています。
成就院からは八幡山古墳に向かいます。
周囲は相変わらずの田圃。
八幡山古墳は田圃から一歩入った工業団地の中にひっそりとあります。
この古墳は、7世紀中頃に築造された直径80mほどの巨大円墳と推定されています。
下から見ると入口の扉しか見えませんが、屋根に相当する部分にはこんな巨大な緑泥片岩が何枚も積まれています。この石室の一部は江戸時代より露出していたようですが、周囲の土が昭和時代の初期に土を取るために崩されてあらわになったのです。石室の露出した様子が飛鳥の石舞台古墳によく似ていることから『関東の石舞台』と形容されたといいます。
これ、古墳?
実はこれは八幡山古墳の中にあった石室なのです。かつてここは、あの丸い円墳の土の中でした。
この横穴式石室の構成は入口側から、羨道、方形の前室、胴張り形の中室、隅丸方形の奥室で、現在長は14.7m(推定長16.7m)。奥室の幅は4.8mあります。この石の積み方を見ると、古墳時代にこんなことができたのかとびっくりします。
この写真は奥室の出入口です。
ここからは乾漆棺などが出土しており、被葬者は宮廷ときわめて近い関係の人物と考えられています。教育委員会の資料には以下のようにあります。
この八幡山古墳の石室には、榛名山麓の角閃石安山岩、荒川上流域の緑泥片岩、 比企丘陵地域の砂質凝灰岩など広範囲に渡る複数の地域の石材が豊富に使用されており、八幡山古墳はそれら広範囲から石材を調達出来る権力者の墓と考えられています。そしてその有力候補とされているのが、平安時代に記された「聖徳太子伝暦」に登場する聖徳太子の舎人 (側近)物部連兄磨(もののべのむらじえまろ)です。兄麿は太子の影響を受け、 社会道徳を守って修行を積み、出家しない仏教信者の優婆塞となります。そして永年の功績が認められ、舒明天皇5年(633)武蔵国造となり、後に小仁の位を賜ったとのことです。
八幡山古墳からは先ほど通過したさきたま古墳公園に戻ります。
途中、こんもりした盛り土のようなところに神社があったのですが、その形からこれは古墳かもしれないと思ったら、案の定それは円墳でした。神社は白山姫神社、古墳は白山古墳と言うようです。
再びさきたま古墳公園にやってきました。まず見え出したのは稲荷山古墳です。
かつてこのあたりには40基ほどの古墳が点在していたそうですが、明治の末ごろから昭和の始めごろにかけて、農業用地拡大のため、その多くが削り取られたといいます。現在この公園には1基の円墳と8基の前方後円墳、合計9基の古墳があります。これらの築造は、おおむね5世紀末から7世紀初頭にかけてのようです。
稲荷山古墳は5世紀後半に築造されたと考えられる前方後円墳で、墳丘長は120m。前方部は土を取るための工事で消失してしまったため、現在見られるのは復原整備されたものです。
この稲荷山古墳からは、国宝の115文字の銘文を持つ金錯銘鉄剣が発掘されました。金錯とは金を使った象嵌のことで、なんとこの剣はここの博物館に保管・展示されているそうです。
稲荷山古墳のすぐ西には丸墓山古墳があります。この古墳は直径105m、高さ18.9mで、日本で最大規模の円墳だそうです。
登ってみましょう。
丸墓山古墳から北を望むと先ほど見た稲荷山古墳がよく見えます。
晴れていればこの方角には赤城山と日光の男体山、北西には榛名山、東には筑波山と、関東周辺の山々が一望にできるのですが、この日は残念。
南西を見れば富士山なのですが、これも今日は姿なし。その代わりということでもありませんが、北西にあの忍城(再建)が見えます。
石田堤を築いた石田三成は忍城を水攻めするためにここ丸墓山の頂上に陣を張り、攻撃の指揮をとったといいます。堤の中に利根川や荒川の水を引き入れますが、城の周りに水はあまり溜まらなかったようで、逆に増水により堤が決壊し、石田方に多くの被害が出てこの水攻めは失敗に終わります。
丸墓山古墳からは忍城に向かいましょう。
その途中、行田市の中心部に水城公園(すいじょうこうえん)があります。この水城公園は忍城の外濠跡を利用してつくられたもので、なかなか涼しげで気持ちいいです。本物の忍城はもの凄く広い敷地を持ち、これまた広大なお濠があったのです。
行田市役所の南東には冠木門がある気持ちのいい遊歩道があり、忍城まで延びています。
この遊歩道を行くと正面に忍城が見えます。この城はもちろん再建されたもので、その周囲の一部には狭いながらも濠が巡らされていて、なんとなくそれらしく見えるようになっています。
橋を渡り門をくぐると遊歩道が郷土博物館まで続いており、一周できるようになっています。博物館には水攻めの様子がわかる展示などがあります。
忍城を眺めその周囲をぐるりと一周したら行田の街中はおしまい。ここからは利根川に向かいます。
忍城の前を通るR125熊谷羽生線の市役所から東には、櫓に載っかったわらべ人形があります。これは全部で53基あったそうですが、壊れてしまったのか、櫓だけになっているものもありました。
熊谷羽生線を渡ると、あとは田んぼの中をまっしぐら。
行く手に利根川の土手が現れました。
前回はこの正面の土手をよじ登ったのですが、今回は草茫茫で断念。
ちょっと戻って、利根大堰のすぐ近くまで進んで土手上に出ました。
利根川は、長さは信濃川に次いで日本で二番目に長く、流域面積は日本一です。
利根大堰は高度経済成長期に水不足に陥った首都圏の水需要に応えるために造られたもので、12門のゲートで利根川の水位を調整しています。群馬県と埼玉県を繋ぐ武蔵大橋にもなっています。
ここで取水された水が辿るルートはいくつかありますが、その一つが今日の序盤に見た武蔵水路で、もう一つはサイクリストにはおなじみの見沼代用水です。
利根大堰にはいくつも魚道が設けられています。埼玉県側の袂には『大堰自然の観察室』があり、1号魚道を上る魚が観察できます。特に秋の鮭の遡上は見物です。
残念ながらこの時は観察室はコロナ休業。
利根大堰付近から北を見れば、いつもなら足利から日光の男体山に繋がる山々がきれいに見えるのですが、この日は手前の山が薄ぼんやりと見えるだけでした。
利根大堰からは利根川サイクリングロードをどんどこ行くだけです。今日はどうかなと思ったものの、案の定いつものことながらここの午後は向かい風。
その風に負けずにビュンビュン行くのはビジターのジンちゃん。ロードバイクに乗りテニスもやるスポーツマンです。
横を流れる利根川はここのところの雨でかなり水かさを増しています。
R122の昭和橋を渡るとすぐ、『道の駅はにゅう』があるのでここで一服。
レストランなど施設の一部はコロナ休業でしたが、売店は営業していました。午後になって気温が上がり、湿度も上がってきたので、各自適当なもので水分補給します。
ひと呼吸付いたら再びサイクリングロードを行きます。風が強くなってきたのでユッキーが先頭で牽き、ジンちゃん、ミルミルと続きます。
東北自動車道までやってくると、土手の工事をしているらしくサイクリングロードに迂回路が示されるようになります。この迂回路は土手に付かず離れずで進んで行きます。
道の駅はにゅう同様、このサイクリングロードでは重要な施設となる『加須未来館』までやってきました。
ここに土手の下からアプローチしたのは初めてですが、下にもちょっとした施設があり自動販売機があったので、ここで小休止。
そのあと土手を上り加須未来館を覗いてみましたが、建物内には手続きをすれば一応入れますが、イベント等はみな中止になっており、内部に人は誰もいませんでした。
加須未来館から先も土手上は通行できず、下の迂回路を行きます。
もっとも徐々に風は強まってきているようなので、眺めはないものの、下の道は下の道で風を受けずに快適だったかもしれません。
栗橋駅に予定よりだいぶ早く到着しました。今回は終盤の向かい風がそうきつくなく、参加者も少なかったですからね。
今日のコースは完全フラットでサイクリングロードとカントリーロードが中心なので、初級者でも安心して走れます。前半は文化的な見どころを巡るポタリング、後半はスピードを出して走れるサイクリングといった趣でした。