この日は甲府盆地に桃の花を観に行くつもりにしていましたが、今年の桃の花は桜同様に早く、もうおしまいらしいので予定を変更し、コテッチャンが『このあたりを走りたい』と指差した辺りをコースにしました。
出発地は石岡駅で終着地は牛久駅。その間で具体的に示されたポイントはたった一つで、それは牛久大仏でした。どうやらコテッチャンは巨大な牛久大仏を見たいらしい。
初々しい新緑が出始めたので序盤は筑波山の周辺の山を眺め、中盤に霞ヶ浦の湖畔を走り、後半に牛久大仏を眺め、最後におまけで日本初の本格的ワイン醸造場の牛久シャトーを組み込んでみました。
まずはJR常磐線の石岡駅からまっすぐ西へ延びる通りを行きます。住居表示を見ると、この通りの北側のブロックには『府中』、南側のブロックには『国府』とあります。実は石岡は7世紀に成立した常陸国(ひたちのくに)の国府が置かれたところなのです。そして江戸時代には水戸街道の府中宿が置かれたところでもあります。
駅前の通りが突き当たるとそこは旧水戸街道のR355です。石岡はたびたび大火に見舞われたため江戸時代の建物こそ残っていませんが、1929年(昭和4年)の石岡大火のあとの復興で建てられた看板建築などが数軒見られます。
この三軒、一番手前は福島屋砂糖店で、一見伝統的な土蔵造りの見世蔵に見えますが、外壁は漆喰ではなくコンクリート。真ん中は久松商店で、外壁は銅板貼り。銅板は戦時中に供出されたそうですが復元されました。一番向こう側は十七屋履物店で洋風の外壁は左官仕上げ。
旧水戸街道を離れ石岡小学校の前を通ると立派な門があり、その横に『石岡の陣屋門』の案内板が立っています。石岡は1700年(元禄13年)に松平頼隆(水戸徳川家初代藩主の5男)が入封し、水戸藩の支藩となり陣屋が置かれたところでもあるのです。その陣屋があったのがこの小学校のところなのです。そしてそこはまた常陸国府跡でもあります。
そんな石岡小学校のすぐ南には常陸國總社宮があります。
総社は地域内の祭神を集めて祀った神社のことです。古代では国司はその国にある神社を一宮から順に全て巡拝していたのですが、これは大変なので全部の神社を纏めてしまえ、となったわけですね。面倒くさいからではなく、合理化と言います。(笑) 常陸國總社宮は常陸国の神社を全部集めた神社と言えるのでしょう。
というわけで、茅葺きの神門をくぐった先には小さな社がいくつも並んで立っています。
順番が逆になりますが、神門の外には土俵があります。ここでは常陸國總社宮大祭(関東三大祭りの一つとされる石岡のお祭り)に合わせて相撲大会が行われます。江戸時代には現在の祭と異なり、相撲大会のみが神事として行なわれていたそうです。歴史を辿れば相撲はその年の農作物の収穫を占う祭りの儀式として行われてきたものなので、神社に土俵があることはそう珍しくありません。
拝殿は焼失したため比較的最近のものですが、その奥に立つ本殿は1627年(寛永4年)ごろの建築です。
境内はそう広くはありませんが神楽殿があり、拝殿前には日本武尊腰掛石という神話の世界的なものもあります。
そして拝殿の先には樹齢600年とされる楠が立っています。このご神木は昭和時代に火災によって大きなダメージを受けましたが、幹の周囲から蘇生し、現在も立ち続けています。
常陸國總社宮にお詣りを済ませたら筑波山方面へ向かいます。筑波山は決して高い山ではないのですが、関東平野の中に悠然と鎮座する姿はいつ見ても良いです。
筑波山は双耳峰で二つ並んだ頂は、左が男体山(871m)、右が女体山(877m)。見る角度により、この二つの頂の関係が微妙に変化するのも楽しいです。
その筑波山目掛けて田んぼの中をどんどこ。
土手に出るとそこに流れるのは恋瀬川で、土手上には狭いながらも気持ちのよい自転車道が通っているので、しばらくこの恋瀬川自転車道を行きます。
今日は快晴で風もなく、とても快適なサイクリング日和となりました。午後には上着は不要になりそうな天気です。
恋瀬川は小さな川で土手上からはあまり川面が見えませんが、これがその流れです。
恋瀬川を遡っていくと筑波山の東を通り石岡市北部の吾国山に辿り着くのですが、今日は筑波山の南にある低い山を上るのでこの川とはここでお別れ。
橋を渡るといつの間にか道は石岡市からかすみがうら市に入っています。
先に小高い山(丘?)が見えてきました。
これからはあの山裾を行き、稜線が続く先にある朝日峠展望公園まで上ります。
『今日の上りは一つだけなので、なんとかなるかな〜』 とE-bikeのレイナ。
この辺りの集落にはそう古くはないものの伝統的な造りの民家がいくらか残っています。
この民家の門の上では立派でおっかない鬼がこっちを睨んでいます。
集落を抜け果樹園の中を通り谷戸に出ると、また少し先の山が見えてきました。
ルートは山裾すぐのところを廻って行くので、どんどん山が変化していきます。私たちが上ろうとしているのは、先に見える山のようです。
入り組んだ尾根の間を行くと、ぐるりと山に囲まれます。
その山々が新緑に包まれ始めています。まだ弱々しい緑ですが、それがまた何とも言えない味わいです。
上佐谷の太子堂を過ぎたところの民家の庭先で何かが暴れています。最初は大きな犬でもいるのかなと思ったのですが、その暴れ方が尋常ではないので良く見てみると、なんとそれは巨大なイノシシでした。足に鉄の環と鎖が付いています。どうやらこの家の方が仕掛けた罠にかかったようです。
しばらくすると近所のおばさんがやってきて、危ないから近づかないでと言います。この方によると、このあたりにはしょっちゅうイノシシが出るそうです。市役所に連絡すれば猟友会の方が引き取りに来てくれるそうですが、罠を仕掛けた家の方は外出中で不在らしく、このおばさんもどうしたものか思案顔です。
あ〜、それにしてもびっくりしたぁ〜
ぼたん鍋、食べたいね〜などと冗談を言いつつイノシシ民家を離れ北上していくと、雪入(ゆきいり)という集落に入ります。温暖化で最近はあまり雪は降らなくなりましたが、集落名からするとこのあたりはかつてはそれなりに雪が降ったのでしょう。
正面の山は雪入山で、私たちはこれからあの稜線を左に行ったところにある朝日峠展望公園に上ります。
日本の地方にはかなり立派な構えの民家があることがありますが、このあたりにもそうしたものがいくつか見られます。先ほどはお城か御殿かという家がありましたが、この民家も立派です。
奥の住宅を見ると農家の造りですが、入口には立派な冠木門が立っていて、大きな表札が下げられています。その表札の名を見ると名跡なのか、かなり伝統的な名が記されています。
『この家はいったいなんなんだ〜』 と驚くコテッチャン。
このあたりにはかつて金山があったようなので、この家はそれと何らかの係わりがあったのかもしれません。
雪入の集落を抜けるとその先は雪入沢林道です。
距離1.4km、標高差120m、平均勾配8.5%で、距離は短いもののほぼ10%の激坂が続きます。
ここはのっけからアヘアヘ。一人、E-bikeのレイナだけはなんとこの坂道をスイスイ上って行き、あっという間に見えなくなってしまいました。ちっきしょー!
なんとか雪入沢林道を上り切ると、今度はダートが待っていました。
『え〜、これ行くんですか〜』と、ちょっとむくれ顔のレイナ。
この道、なんと表筑波スカイラインの続きの県道だというから驚きです。ダートの県道というのはちょっと珍しいのではないでしょうか。勾配は雪入沢林道よりだいぶ穏やかになったので、なんとか乗って上って行きます。
路面がアスファルト舗装に変わると、そこにホテルと温泉施設のいやしの里があります。ここで一服しようと思ったのですが、施設利用者以外進入禁止の表示があったので、うろうろ。ホテルでこういう表示があるのは珍しいですね。
ということでここはスルーして、前半の目的地である朝日峠展望公園へ向かいます。
いやしの里を出るとすぐにr236フルーツラインに入ります。
このフルーツラインの標高はそう高くはないのですが、南側が開けているので時々気持ちのよい眺望に出会います。
この写真の右から突き出ている滑り台はハンググライダーの滑空用のものです。こんなところから飛び降りるなんて、みなさん勇気ありますね〜
表筑波スカイラインの入口までやってきました。
ここから北を見ると樹間からなんとか筑波山を見ることができました。筑波山は遠目には単独峰に見えますが、その周辺には低い山がたくさんあることがこの写真からもわかるでしょう。
表筑波スカイラインに入ってちょっと行くと、本日前半の目的地の朝日峠展望公園に到着。
この公園は標高300mにあり、霞ヶ浦がきれいに見えます。目を凝らすとこの右の方に今日の後半に行く牛久大仏が見えます。
こんな景色のいいところではお決まりのジオポタ・ジャンプ!
こら〜、コテツ! 遅れとるじゃろが〜(怒)
霞ヶ浦の反対側、西にはハイカーに人気な宝篋山(ほうきょうさん)が見えます。
朝日峠展望公園からはやって来たフルーツラインを戻り、土浦市の大志戸へ下ります。
ところがこのフルーツラインはいけません。路面のあちこちに凸が大きな金属製の反射鏡が設置されており、さらに事前予告がないハンプが急な下りの中に度々でてくるので、何度も転倒しそうになりました。自転車に乗ったことがない方が道路を設計するとこうなるのでしょう。車の運転ができない方に道路を設計させることが考えられないように、自転車に乗ったことがない方にもまた、道路は設計させるべきではないですね。本来は安全に通行させるための仕掛けが、逆に凶器になっている例です。
大志戸の蕎麦屋で昼食をいただいたあとは午後の部開始。ここからは土浦の霞ヶ浦へ向かいます。
うしろには先ほど霞ヶ浦を眺めた朝日峠展望公園から続く小高い山の稜線が見えています。
土手に黄色い菜の花が咲いていたかと思えば、ここは真っ赤なポピー。
そのうしろには奇妙な構造物があります。ここはかつては農作物を作る畑だったと思われますが、今は電気を作る畑になっているようです。おらが畑でも電気を作っているだ、という方は結構いるでしょう。日本の農村風景は田んぼから畑にかわり、それも電気を作るためのものに変化してきました。
筑波山から遠ざかるにつれ、その前山の全貌が見えてきました。
左端に宝篋山、真ん中辺りに朝日峠展望公園、右の固まりのピーク辺りが雪入山です。筑波山はあの向こう側でここからは見えません。
先ほどフルーツラインという名の道路を通りましたが、この辺りでは様々なフルーツが作られています。
この白い花はりんごです。りんごはバラ科なので桜の花に似ていますね。
r199小野土浦線に出ると、その横を『つくば霞ヶ浦りんりんロード』の旧筑波鉄道コースが通っています。
この旧筑波鉄道コースは旧筑波鉄道筑波線の廃線跡を利用したもので、JR土浦駅からJR岩瀬駅まで続く40kmの自転車道です。かつては『つくばりんりんロード』と呼ばれていましたが、現在はこれに霞ヶ浦一周などのコースが加わり、全長180kmの『つくば霞ヶ浦りんりんロード』となりました。
今回は旧筑波鉄道コースはかすめるだけですが、このあと、霞ヶ浦一周コースの一部を走ります。
桜川の土手に出ました。うしろには宝篋山と筑波山の山頂部分が見えます。
桜川の土手上は常磐自動車道以南はアスファルト舗装になるので、土手上を行きます。
ここは自転車道ではありませんが、交通少なし。
桜川は桜川市山口の鏡が池に源を発し、筑波山の西を南下して土浦で霞ヶ浦に流れ込んでいます。
この川沿いを行けば自動的に霞ヶ浦に辿り着きます。
橋を渡って桜川の右岸に出ました。
先に見える高層ビルが見える辺りが土浦の中心市街地です。土浦は茨城県南部の中核都市でしたが、筑波研究学園都市ができて以降、少し様子が変わったかもしれません。しかしつい先日、つくばエクスプレスの延伸計画で土浦方面が提言されたので、今後も発展していく可能性があります。
桜川の河口が近づいてきました。すると川面に白いものが浮かんでいます。小型のヨットのようです。
あまり知られていませんが、霞ヶ浦では昭和時代の始めごろからヨット・セーリングが行われていたようです。昭和40年代の国体開催をきっかけに土浦にヨット・ハーバーが整備され、現在は700隻ものヨットが係留されているといいます。
霞ヶ浦に出ました。
ひろ〜い!(笑)
岸は左右に続いて見えますが、一ヶ所だけ口が開いているように陸地がないところがあります。あそこはここから見えないくらい岸が遠いということですね。
霞ヶ浦は琵琶湖に次ぐ日本第二の面積を誇る湖です。
そんな霞ヶ浦の畔に風車が立っています。その足下ではチューリップが満開! ここはオランダの霞ヶ浦総合公園です。(笑) 風車の羽根は一定の速度で回り続けています。おそらくモーターで回っているんでしょう。本物の風車の羽根はもっとずっと大きいですし。それにしてもなぜここに風車が。オランダでは干拓地を排水するために風車が使われることが多いですが、この周辺も江戸時代以降に干拓が進みました。これと何か関係があるのでしょうか。
今日はいいお天気なので、ここには家族連れなど大勢が遊びにやってきていました。新型コロナウイルス感染症もすっかり終わった感があります。
常陸国の地誌で奈良時代に編纂された常陸国風土記によると、当時の霞ヶ浦は海水魚が生息す内海で、製塩も行われていたようです。
江戸時代の利根川東遷事業の結果、霞ヶ浦や利根川は東北地方からの物産を運ぶルートになり、その後周辺の新田開発がさかんに行なわれました。ところが1783年の浅間山の大噴火により利根川の河床に堆積物がたまり水害が激化、当時の海水面が低かったことも影響して、霞ヶ浦は汽水・淡水化していきます。
明治時代になると帆曳き網漁が考案され隆盛を極めますが、これは昭和42年(1967年)で姿を消し、現在は観光用として操業されています。現在霞ヶ浦の漁業は、ワカサギ、シラウオ、エビなどが中心だそうです。
阿見町に入り、かつての海軍の予科練の跡の公園をかすめたら霞ヶ浦を離れ、牛久へ向かいます。
畑の中をどんどこ。
田んぼの縁をどんどこ行けば、
『おっ、あれはなんだ〜』
『でかい=』
これが噂の牛久大仏だ〜
コテッチャンは20年ほど前に一度ここを訪れているそうで、その時は大仏の中に入り、鼻の穴から下界を覗いたそうです。
牛久大仏は世界一高い青銅製立像だそうです。その高さはなんと120m! 自由の女神の3倍、レイナの75倍!!(笑)
この大仏は浄土真宗東本願寺派本山東本願寺というお寺さんが造られたものです。これってあの西浅草にあるやつですよね、由緒正しそうな・・・ 知らんかった〜
牛久大仏、とにかく大きいです!
コテッチャンは牛久大仏を見て20年前の感動が再び蘇ったそうです。よかったね〜
とにかくでかい牛久大仏にびっくりしたら、おまけで牛久シャトーを覗いてみましょう。
JR常磐線の牛久駅のほど近くに立つ牛久シャトーは、少し前まではシャトーカミヤと呼ばれていました。ここは神谷傳兵衛なる実業家が1903年(明治36年)に開設した日本初の本格的ワイン醸造場でした。写真は事務室として使われていた建物で、この他に醗酵室や貯蔵庫があります。いずれも明治中期の煉瓦造建築で、国の重要文化財に指定されています。
神谷は若い時に横浜外国人居留地でフランス人が経営する商会に労働者として入り、洋酒製造法を修めます。そして自らワインを造ることを考え出します。独立した神谷は浅草に酒の一杯売を開業。この店は西洋風に改装され神谷バーとなり、1921年(大正10年)に現在まで使われ続けている建物が建てられました。神谷バーは日本で一番古いバーとして今日まで健在です。その後、輸入葡萄酒を原料とした葡萄酒や電気ブランを製造・販売します。養子をフランスに留学させボルドーでワイン醸造を学ばせ、帰国後に東京の大久保でフランス産の葡萄苗の試作を開始し、その苗を牛久に移植しました。これが神谷葡萄園の始まりです。そして1903年に牛久醸造所(現牛久シャトー)が完成しました。神谷葡萄園のブドウは1920年頃には13万本あったそうですが、現在はシャトー内に1000本ほどあるだけのようです。
このコース、あとひと月ほど経つと谷戸の田んぼに水が張られ、より一層きれいな景色が見られそうです。