今日は、アドリア海に面するイタリアのトリエステ(Trieste)を散策し、港町のムッジャ(Muggia)に立ち寄ったあと、国境を越えてスロヴェニアのコペル(Koper)まで行きます。
トリエステを散策する前にその歴史をおさらいしておきます。この都市は多くの民族や国家の支配を受けてきました。共和政ローマ、東ローマ帝国、フランク王国、ヴェネツィア共和国、フランス帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリア、ユーゴスラビアなどです。
こうしたの中の建造物で目に付くのは、古くはローマ時代の遺構で、ヴェネツィア共和国時代のものも残っています。しかし実際に使われている建物としては、オーストリア=ハンガリー帝国時代、またはその時代の様式を引き継いだのものが多いようです。
ゴルドーニ広場(Piazza Carlo Goldoni)の近くにある宿を出発し、まず向かうはサン・ジュストの丘(Colle di San Giusto)。ゴルドーニ広場から南西に向かうとすぐ、トンネルと一体となった大きな階段(Scala Dei Giganti)が現れます。
この階段を上っていくとサン・ジュストの丘の上に出ます。
この丘は中世には街の中心だったようで、見どころがいくつかあります。周囲にはローマ時代の建造物や遺跡も残っています。
まずはサン・ジュスト大聖堂(Cattedrale di San Giusto)です。
ここに5世紀ごろ、古代ローマ時代の遺構の上に最初の教会が建てられました。それが破壊されたあと、11世紀に二つのロマネスク様式の教会が建てられます。14世紀の増築でこのふたつは一つの教会堂になり、現在見られる姿になりました。ファサードにはゴシック様式の大きなバラ窓とトリエステの守護聖人である聖ジュストの彫像が見えます。
教会の内部は五廊式になっています。これは二つの教会をくっつけたためでしょう。
中央廊が14世紀に増築された部分で、面白いことに左右の柱の間隔が異なります。この左右は元々は11世紀に建てられた別々の建物だったのです。これは左右が11右側の側廊は聖ジュストを祭る聖堂で、左側のそれは聖母マリアに捧げられた教会でした。
中央廊のアプシスは聖母の戴冠のモザイクで飾られています。
ここにはかつて同じテーマのフレスコ画がありましたが、20世紀に破壊されてしまったため、このモザイクに置き換えられました。
左側の廊には12世紀のヴェネト・ラヴェンナ派のモザイク職人によるものとされる聖母マリアのモザイクが残っています。
その下はキリストの12使徒。
右側の廊のモザイクは13世紀のもので、真ん中にキリスト、その横に聖ジュストと聖セルヴォロ。中央のキリストは、足で悪魔の使いを踏み潰しています。
この下には聖ジュストの殉教の物語が描かれた13世紀のフレスコ画が残っています。
右廊のさらに右隣には聖アポッリナーレの小さなアブシスがあります。このフレスコ画も13世紀のもので、下の祭壇の大理石のレリーフは8世紀ごろのものだそうです。
床には5世紀のモザイクが残っているそうですが、この時は見られませんでした。
サン・ジュスト大聖堂の横にはサン・ジュスト城(Castello di San Giusto)があります。
ここはローマ時代の要塞があった場所で、そこに15世紀後半、ハプスブルク家のフリードリヒ3世が城塞を建てました。その後増改築が施され、17世紀の前半に現在の形になったそうです。
サン・ジュスト城からはトリエステの街が良く見渡せるようですが、私たちは時間の関係で城をパスし、大聖堂の北側にある広場から街を眺めてみました。
しかし残念ながら、ここからだとあまり眺望は良くありません。
大聖堂の前の古い石畳の坂道を下って行くと、リッカルド門(Arco di Riccardo)があります。
この門はローマ時代の紀元前1世紀に、皇帝オクタビアヌス・アウグストゥスのもとに建てられた城壁の門です。名前の由来はいくつかあり、一つは古代ローマの都市の中心部を南北に貫く基幹道路カルド(Cardo)から。もう一つはイングランド王リチャード1世が、十字軍からの帰途にここを横切ったと信じられているからだそうです。リッカルドはリチャードのイタリア語名です。
現在はこの門の片方の柱は建物に食い込んでいます。
リッカルド門付近には古い建物がたくさん残っています。
12世紀中頃にロマネスク様式で建てられサン・シルヴェストロ聖堂(Basilica di San Silvestro)は、トリエステでもっとも古い教会で、鐘楼は元は都市を囲む壁に造られた守備塔だったそうです。
この横には17世紀に建てられたサンタ・マリア・マッジョーレ(Santa Maria Maggiore)があります。
サン・シルヴェストロ聖堂の角を曲がり、トリエステの街を眺めながら坂道を下って行くと、
古代ローマ時代に造られたローマ劇場(Teatro Romano)があります。ここで発見された碑文が刻まれた石から、建設はトラヤヌス帝(在位 98年 - 117年)の時代と推定されています。
自然の斜面を利用して造られた客席部分は直径64m、高さ15mほどで、収容人数は6,000人ほど。基本的には石で造られていますが、客席の後部は木造だったと考えられています。
ローマ劇場からトリエステ湾へ向かうと、イタリア統一広場(Piazza dell'unita d'italiana)に出ます。
ここはトリエステの中心と言って良いところで、大きな四角形の整った広場です。一方はトリエステ湾に向かって開かれ、残りの三方には立派な建物が並んでいます。写真正面に見えるのは19世紀後半に建てられた市庁舎で、その前にはローマのナヴォーナ広場にあるベルニーニの代表作『四大陸の噴水』と同名の彫刻が置かれています。
イタリア統一広場の先でトリエステ湾を眺めると、先にうっすらと ミラマール城(Castello di Miramare)が見えます。
そこから湾に沿って北上すると大運河(Canal Grande)です。カナル・グランデと言えばヴェネツィアで、ここトリエステのものはそれより遥かに規模は小さく、湾から300mほどしかありません。
正面に見えるのは聖アントーニオ教会(Chiesa Parrocchiale Sant'Antonio Taumaturgo)、その少し手前のドームが載った建物はセルビア正教会聖堂(Tempio Serbo Ortodosso di San Spiridione)。
この運河は18世紀半ばに造られたものです。ここはかつて塩田だったそうですが、街の拡大のため埋め立てられました。その後ボートが街の中心に達することができる運河として考案され、聖アントーニオ教会まで開削されますが、20世紀の前半にこの教会前の最後の部分は埋め立てられました。
ざっとトリエステの街中の見どころを巡ったら、郊外にあるミラマール城に向かいます。
ミラマール城へは行く予定はなかったのですが、宿のお嬢さんがトリエステ観光のベストの一つとして推薦してくれたので、行ってみることにしたのです。
ミラマール城へは海岸道の一本道で、ビーチが連続しています。
海縁には遊歩道が設えられていますが、そこは日光浴をする人々でいっぱい。
このあたりのビーチは砂浜ではなく、人工的な護岸のすぐ先なのです。
ミラマール城はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の実弟であるマクシミリアン大公(のちのメキシコ皇帝)によって19世紀の後半に建てられました。
海縁をどんどこ行くと、小さな岬にその白亜の城が見えてきます。
マクシミリアンは、オーストリア海軍の司令官として世界各地を旅行していた時に立ち寄ったトリエステ(当時はオーストリア領)を大変気に入り、ここに自身と夫人のカルロッタのための愛の巣を造ることにしました。
マクシミリアンは大変冒険好きで、何にでも興味を持つ人だったようです。
庭には世界中から集められた植物が植えられており、
館内に入ると、階段室には様々な動物の頭部が飾られています。
そして部屋にはこれまた世界中の様々な様式が取り入れられており、中国、日本など東洋のモチーフもあります。
マクシミリアンはここでフランス皇帝ナポレオン3世からの申し出を受け、メキシコ皇帝となることを決意し、妻とともにメキシコに渡ります。しかしアメリカ合衆国をはじめとする多くの国々は彼の帝国を承認せず、結局1867年に捕虜となり処刑されました。
これが原因で妻のシャルロッテは精神の錯乱を引き起こし、死ぬまで夫の死を認めなかったそうです。
ミラマール城の見学を終えたらやってきた道を戻ります。
だいぶ気温が上がってきているので、このあたりのビーチでひと泳ぎしたいところですが、今日はコペルまで行かなければならないので、ここはぐっと我慢。
海辺にはビーチのほかにこんなヨットハーバーがあります。
イタリア統一広場のすぐ近くにある埠頭にやってきました。ここからムッジャまではボートに乗ります。宿のお嬢さんがムッジャまではボートが良いよと勧めてくれたのです。ボートがあることを知らなかったのでトリエステ-ムッジャ間は自転車で走るつもりにしていましたが、この間は交通量が多く景色も良くないので、とても魅力的な案内でした。
埠頭には大きな建物があり、その中に切符売り場がありそうなのですが、玄関はロックされていて中に入れません。同じ建物に入っている事務所でボート乗場と切符売り場を訊くと、乗場は埠頭の入口のところで、切符はボートで買うらしいことがわかりました。
この教えてもらった場所には一艇のボートが停泊していたのですが、そのボートは豪華クルーズ船のような姿だったので、まさかそれがムッジャ行きだとは思いませんでした。ここはイタリア! さすがです。
乗場と出発時刻が分かったところで昼食にします。本日のメニューは蛸サラダと魚介のリゾット。私たちは魚介好きです。
昼食が済んだらいよいよボートに乗り込みます。あまり大きくないボートですが、自転車はそのまま乗船できます。写真に写っているように自転車用ラックがたくさん用意されていて、係員がロープでしっかり固定してくれます。
席は室内とデッキにありますが、私たちは眺めの良い後者を選択。
デッキは直射日光を浴びてかなり暑いのですが、この航路は短いし、走り出せば風が吹いて涼しいのです。
ボートは定刻にトリエステを出航しました。
振り返れば、トリエステの街の向こう側に連続した台地が海岸近くまで落っこちてきているのが見えます。あれは石灰岩でできているカルスト台地です。
トリエステの街の外側をぐるりと廻るようにして進んで行くと、ほどなく遠方にムッジャが見えてきます。
その沖には小型のヨットがたくさん浮かんでいます。
トリエステから30分でムッジャに到着です。
このコムーネ(基礎自治体)は人口1.3万人で、中心部は13世紀に造られました。15世紀にヴェネツィア共和国の統治下に入り、18世紀末にハプスブルク領となったのはこのあたりの他の集落とほぼ同じです。
港に入ると、奥にはたくさんのヨットが停泊しています。
その向こうの高台には14世紀のお城(Castello di Muggia)が見えます。
旧市街は300m四方ほどととても小さく、そこへはこんなアーチをくぐって入ります。
おそらくここには、かつて城壁があったのでしょう。
トリエステはハプスブルク時代の建物が多いのに対し、ここはヴェネツィア共和国時代の建物が多いようです。
狭い路地を行くと、かわいらしい大聖堂(Duomo di Muggia)の前に出ます。(TOP写真) 13世紀にロマネスク様式で建てられ、聖ヨハネと聖パウロに捧げられたこの教会は、15世紀にヴェネツィアン・ゴシック様式で改修されています。
アーチをいくつもくぐり抜けて旧市街の中の路地を進みます。
この街は小さいけれどとてもいい感じで、時間があったらいつまでも過ごしていたいと思わせるところがあります。
この街の路地はどこも狭く、それはたいてい人が何とかすれ違えるくらいしかありません。
ムッジャを出るとすぐに隣村のサン・ロッコ(San Rocco)が見えてきます。ここはマリーナに面したリゾートホテルを中心とした新しい集落のように見えます。
ムッジャの旧市街の外側に新しい住宅が建てられ、街が拡大していき、それがここの開発に繋がったということかもしれません。
サン・ロッコを出て海沿いの道を進んで行きます。
うしろに見えるのは本日の出発地のトリエステ。
ビーチが出てきました。トリエステのビーチはどこまでも人工護岸が続いていましたが、このあたりには砂浜もあります。
気持ち良さそう!
ビーチと海水浴にやってきている人々を眺めながら進んで行きます。
トリエステがだいぶ遠くなってきました。
ラザレット(Lazzaretto)を過ぎると、イタリアとスロヴェニアの国境です。
両国はシェンゲン協定を結んでいるので自由に行き来できます。ですから国境とは言ってもパスポート・コントロールはなく、日本の県境のようにただ、ここからスロヴェニアであることを示す標識が立っているだけです。
スロヴェニアに入り小さな半島状の出っ張りを廻っていくと、周辺はぶどう畑になります。
日本ではあまり知られていませんが、実はスロヴェニアはワインの産地なのです。ここのワイン作りの歴史は古く、少なくとも紀元前6世紀まで遡るそうです。またハプスブルク家から始まるオーストリア=ハンガリー帝国による長い支配下で、それはより洗練されたものとなっていきました。
スロヴェニアのワインの産地は三つの地域に分けられますが、ここはスロヴェニアの伝統的な地方区分の一つ、海側という意味を持つプリモルスカ地方(Primorska)です。
アンカラン(Ankaran)までやってきました。炎天下の気温は38°C! 暑いです。ちょうどカフェが現れたのでここで一休み。ラドラー(Radler)をいただきます。
ラドラーは独語で、元々は自転車乗りという意味だそうです。サイクリストに愛飲されたことから付けられた名だとか。あるものをレモネードで割ったもので、実際、ヨーロッパではサイクリストが飲んでいるのを良く見掛けます。これはフランスではパナシェ (Panaché)と呼ばれています。
さっぱりしていておいしく、程よい糖分も摂取できることがサイクリストが好む理由でしょう。
一休みしたらコペルに向かいます。
山側の景色はこんなふうでどこまでも低い山並みが続きますが、コペルは海沿いにあります。
山に向かう道を離れると景色は一変し、海側には広大な港湾施設が並ぶようになります。スロヴェニアが海に面しているところはごく短く、コペルはその中で唯一の商業港、つまりスロヴェニア唯一の商業港なのです。
そんなわけでこの道は大型車輛も通るのですが、歩道に自転車レーンが整備されているので安心して走れます。
この自転車レーンを辿ってコペルの街に入りました。ここはイタリア語も町の公用語となっているほど、イタリアとの繋がりが大きいところです。
私たちの宿は旧市街と道路を隔てたすぐのところにあり、ごく最近建てられたものでした。しばらく休憩したのち、コペルの散策に出かけます。
コペルの歴史は、13世紀にヴェネツィア共和国領、18世紀末にオーストリア帝国領、第一次世界大戦後にイタリア領、第二次世界大戦後にユーゴスラビアという変遷を辿ります。この中で街の雰囲気を支配しているのは、ベネツィア共和国時代の建物です。
街の中心にあるバルロ広場(Trg Brolo)は歴史的、建築的に重要な建物に囲まれています。そのうちの1つであるフォンティコ(Fontico)は町の穀物倉として使われた建物で、14世紀後半に建てられ15世紀半ばに完成しました。 そのファサードはルネッサンス様式とゴシック様式の窓と、市長の紋章(コペルで最古の紋章)などの豪華な彫刻で飾られています。
バルロ広場のすぐ先にはもう一つの広場、チトー広場(Titov trg)があります。この広場の名になっているチトーとは、年配の方なら誰でも知っているであろう、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の大統領だったヨシップ・ブロズ・チトー(Josip Broz Tito)のことです。ナチに抵抗し、ユーゴを作り、独裁者でもあった、あのチトーです。
この広場も素晴らしい建築に囲まれています。東側に建つのは15世紀半ばに建てられた後期ルネッサンス様式のファサードを持つプレトリア宮殿(Pretorskapalača)。
現在この建物には、観光情報センター、結婚式場、 市議会会議場などが入っています。
この日、チトー広場ではお祭りか何かそんなものがおこなわれて、大賑わいでした。
プレトリア宮殿のバルコニーからの眺め。
北側には、15世紀半ばに建てられたアーチ型のヴェネチアン・ゴシック様式のロッジアがあります。現在その一階部分はカフェになっています。
西側の玄関の上に旗が掲げられている建物は、かつては武器庫だったそうです。
南側には大聖堂(Stolnica Marijinega vnebovzetja)が建っています。
鐘楼は12世紀に、ローマ時代のバシリカがあった場所にロマネスク様式で町の塔として独立して建てられました。現在の高さは53m。
教会堂は15世紀に建築され、16世紀に改築されています。下層がゴシック様式(15世紀)、上層がルネッサンス様式(16世紀)です。
大聖堂内部は18世紀の改修によって古典主義的な要素が強いものになっています。
ここではヴェネツィア派の画家たちによる絵画が見どころの一つ。
鐘楼の204段の階段を上ると展望台に出ます。
そこからチトー広場を見下ろすと、こんな。高くて結構怖い。
北の景色です。ここで左端に写っている巨大クレーンのあたりが港です。
チトー広場から西へ下ってマリーナに出ると、カルパッチョ広場(Carpacciov trg)があります。このカルパッチョは料理のそれではなく、大聖堂の祭壇画も描いている15-16世紀に活躍した画家、ヴィットーレ・カルパッチョ(Vittore Carpaccio)のこと。
広場の中央に立つのは聖ユスティナの列柱で、これは1571年のレパントの海戦に参加したコペルの人々に捧げられたものです。その北にはローマ時代のものと思われる噴水があります。
広場の横、写真の右手に写っているのはタベルナ(Taverna)です。このタベルナがまたギリシア料理屋のことではないから、ちょっとややこしい。これは15世紀のヴェネツィア共和国時代の塩の倉庫です。
タベルナの先のマリーナです。
このマリーナの先はビーチになっているので行ってみました。
そこは港に隣接して無理矢理に整備されたようなところで、泳ぐにはあまりいい環境ではありませんでしたが、ここから少し離れれば快適なビーチがあるそうなので、明日はそんなところを覗いてみたいと思います。
日は落ちましたが沖にはまだヨットが航行しています。
さて、コペルの散策はこれにて終了。夕食です。
昼しっかり食べているので、ここは軽めに済ませます。野菜スープと魚介のスープ、そしてイカのマリネサラダを。私たちは魚介類が好きです。特に介類が。(笑)
海辺なので魚介類はとてもおいしく、単なる野菜スープも絶妙です。ここはスロヴェニアですが、料理もほとんどイタリアなのです。
宿に戻る途中に移動式遊園地がありました。普段、遊園地に行くことはないのですが、行くなら夜の移動式遊園地が最高ですね。このグルグル回る乗り物、まるで制御装置が壊れてしまったかのような猛スピードで回っていました。怖くてよさそう!(笑)
イストリア半島の走り初めはこんなでしたが、やっぱり暑いです。どこもかしこもこの夏は異常気象ですね。
さて、明日はここコペルからイストリア半島を南下し、アドリア海にちょんと飛び出したイゾラ(Izola)、港町のピラン(Piran)、セチョヴリエ塩田(Sečoveljske soline)と巡って、クロアチアに入ります。