今日はアドリア海にピョコンと飛び出した小さな半島のロヴィニィ(Rovinj)から1世紀の円形闘技場があるプーラ(Pula)に行きます。
途中にはこれといった見どころはありませんが、美しいアドリア海が堪能できると思います。暑くなったらビーチでジャボン!
港に出ると昨夜はボートで一杯だったのに、あらかたの船がいなくなっています。あの船はいったいどこへ消えたのでしょう。
港の向こうにはロヴィニィのシンボル、聖エウフェミア教会の塔がすくっと建っているのが見えます。ヴェネツィアのサン・マルコ寺院の鐘楼を元にデザインされたというこの塔は、どこからでもよく見えます。
ロヴィニィはかつては島でしたが、その島はこんもりした地形だったのでしょう。その一番てっぺんに聖エウフェミア教会は建てられたのです。
聖エウフェミア教会は比較的新しい18世紀の建築ですが、そこには7世紀にはすでに教会があったそうです。そしてその周囲に街ができていったわけです。
聖エウフェミア教会を眺めたらロヴィニィとはお別れです。
しばらく海沿いの道を南下すると、リゾートホテルの先で森に入ります。
この森の中の道はダートですが、表面に細かい砂が撒かれており、良く締まっているので走行には問題なし。
しかし、だいぶ内陸よりを通っていて、海はまったく見えなくなります。
15分ほど走ると再び海が見えました。クレント岬(Rt Kurent)に出たようです。
小さな埠頭では釣り人が糸を垂らしています。
そしてその先にはカヤックが数艇置かれています。ここの海はほとんど波がないのでカヤックには最高でしょう。
カヤックの向こう側の沖にはアンドリヤ島(Sveti Andrija)が浮かんでいます。このあたりにはこうした島がたくさんあります。
予定ではここから内陸部に向かい、地質公園 Monfiorenzo になっている石灰岩の石切り場と、石の壁で町が囲まれた紀元前2000年から紀元前1200年までの遺跡である Monkodonja を見学するつもりだったのですが、なんだか海沿いの方が気持ち良さそうなので予定を変更し、このまま海辺の道を行くことにします。
松林を抜けるとビーチに出ました。ここにはリゾートホテルが建ち、快適な遊歩道が設えられています。
リゾートホテルの先はポラリ(Polari)というキャンプ場で、残念ながらそこで海沿いの道はおしまいに。いえ、海沿いに道はないことはないのですが、これはとても自転車で行けるしろものではないのです。
仕方がないので一旦キャンプ場の外に出て、5175号線で再び海岸に向かいます。
5175号線はどこにでもあるような道なのですが、周囲のほとんどが森であるここは、何となく殺風景。しかしこのあたりが、穏やかながらもちょっとしたアップダウンのある地形であることが良くわかります。
5175号線の突き当たりはヴェシュタール(Veštar)・キャンプ場で、このキャンプ場の先に海があります。
海に出ればそこから海岸道が続いているだろうと思ったのですが、これは甘かった。キャンプ場の外周には柵があり、外に出られないのです。
仕方なくキャンプ場を出て、その外側を廻るようにして進んでいきます。
この道は砂利敷で、ちょっと走りにくい。
森が開いたと思ったらそこは海で、ごつごつした岩場とゴロタ石のビーチが続いています。
ここはチステルナ・ビーチ(Cisterna Beach)と言います。チステルナは水槽という意味で、水槽ビーチってなんか変な名前だな、と思ったら、
ここにはローマ時代の水槽が残っているのです。
水槽の壁は2つの層からなり、外側は粗い石でできていて、内側は石灰、砂、土煉瓦を混ぜたものだそうです。
で、ビーチの方はというと水はかなりきれいで岩場のため、小さな魚がたくさんいます。
日本では決められた場所でしか海水浴はできません。それ以外の所は波が高かったり、複雑な海流で危険なので、大抵遊泳禁止になっています。
しかしここクロアチアの少なくともイストリア半島のこのあたりは、どこでも泳ぐことができます。アドリア海そのものが内海なので、海流はあまりなく、波もほとんどないからでしょう。
ビーチには大きく分けて二つのタイプがあります。海水浴のための施設が整ったところと、何もないところです。当然ながら前者には多くの人が集まり、そこはいつも満杯です。
後者で泳ぐことは日本では地元の人を除けばちょっと考えにくいと思いますが、こちらではかなり多くの人がごく普通にそこで海に浸かっています。この何もないチステルナ・ビーチにも人々はやってきているのでした。
中にはこんなカートでやってくる人たちも。レンタルでしょうか。このあたりのビーチに続く道はほとんどがダートなので乗用車では走りにくいところもあるのですが、後ろの方は砂埃でゲホゲホになりそうですね。
あっ、ちなみに車だとすぐに真っ白けっけになってしまいます。こうしたダートの出口にはなんと洗車場があるところもあります。
ローマ時代の水槽を眺め、海に浸かって身体を冷やし、魚とちょっと戯れたらチステルナ・ビーチを後にします。
このあたりは海沿いに道がないので、しばらく内陸の砂利道を行きます。
ある程度走ると海へ向かう道との分岐に出たので、ここで路線を乗り換えます。
ところがこの道、海へ向かっているのに上り!(笑)
ちょっと砂利道のアップダウンできつかったですが、ツォロネ・ビーチ(Colone Beach)に到着です。
先ほどのチステルナ・ビーチには何もありませんでしたが、ここにはあらゆる設備が完備されています。この写真の左奥に見える建物はアクティビティ・センターとでも言うようなもので、カヤックやSUPなどの貸し出しを行っています。その奥にあったシャワーとトイレは現代的な洗練されたデザインで、一流ホテルを思わせるようなものでとてもびっくりしました。
しばらく海に浸かったらこのカフェで喉を潤し、しばしまったり。
身体を外と内から冷やしたら、ツォロネ・ビーチを出発。
ここからはちょっと丘を上ります。
その道というのが砂利道のこんなので、へこへこ。
しばらく自転車を押し上げて進み、なんとか乗れるようになった道がこれ。
ん〜〜ん、大丈夫かな、この道、行けるのかな〜 という感じです。
道の先にはフォルノ砦(Fort Forno)が建っています。この建物は1904年にオーストリア・ハンガリー帝国の海軍がこの湾岸を守るために建設したもので、一見石造に見えますが、コンクリート造のようです。このすぐ近くに二箇所の関連施設が建っています。
ここは近く観光施設として改装される予定だそうですが、この時は中には入れませんでした。
フォルノ要塞をちらっと覗いて、その関連施設の横をすり抜けると、ようやくアスファルト舗装の道に出ました。
ほっ!
この道をちょっと行くとバルバリガ(Barbariga)で、道脇にレストランが現れたのでここで昼食です。飲み物を頼んだらオリーブが出てきました。オリーブ大好きな私たちにはうれしいサービスです。
前菜はツナサラダ。これは日本のものとあまり変わらず安心して頂けます。メインはイワシ焼きをやってみました。イワシ焼きはどこで食べてもたいていおいしいですが、ここのは海辺だけに新鮮で、シンプルで飽きがこずにいくらでも食べられます。
バルバリガにはビーチがありますが、食後なのでこれはパスして先へ。
5kmほどのところにあるペロイ(Peroj)の街中を通り抜け、
5115号線で松林の中を下っていくと、ファジャナ(Fažana)のビーチに出ました。
イストリアの海岸はほとんどが岩場で、砂浜のビーチはあまりありません。ここは砂浜ではないものの小石のビーチなので比較的環境が良く(Myパラソルが立てられる!)、大勢の人々がやってきています。
この正面に浮かぶのはブリユニ群島(Brijuni)で、そのうちの最も大きな島であるヴェリ・ブリユニ島(Veli Brijuni)にはボートで15分で渡れます。
そこはかつて19世紀初頭には健康的なリゾート地として、裕福なオーストリア・ハンガリー人や、画家グスタフ・クリムト、作家トーマス・マン、アイルランドの小説家ジェイムス・ジョイス(1904-05年にプーラに住んでいた)などの芸術家に人気があったそうです。その後ユーゴスラビアになってからはチトー大統領が夏の邸宅を構えています。
『ここは良いビーチね、またひと泳ぎしようか』 と、サリーナ。
このビーチのあるファジャナの街は、教会の周囲にごく狭い旧市街があり、その外側を新しい住宅地が取り囲んでいます。
ここはかなり先までビーチが続いているようなので、適当なところを探しながら先へ進んでいきます。
ファジャナの中心部を過ぎてしばらく行くと、先に太鼓橋が見えてきました。次の街のヴァルバンドン(Valbandon)まで来たようです。この海辺はリブニャク(Ribnjak)というところのようです。
あまり先まで行ってしまうと、本日の終着地のプーラに着いてしまうので、ここでひと泳ぎすることにしました。
ここはファジャナ同様、小石のビーチなので浜から海へのアクセスがとても楽で、海に入っても怪我をする心配がありません。子供が泳ぐには安全でとてもいいところです。
しかし当然ながら岩場ではないので、魚はいません。私たちには岩場でアプローチが少し困難でも魚がいた方が楽しいかも。しかし、しっかり身体を冷やすことができてさっぱりしました。
太鼓橋を渡って先ほどのビーチを見返るとこんなです。
太鼓橋から先にもビーチは続いています。
そのビーチに沿って遊歩道もしっかり延びていて、これは快適です。
だいぶ長く続いたビーチが終わると海沿いの道はなくなり、プロシュティーナ岬 (Rt Proština) への上りになります。
この岬にはフォルノ砦と同様な、19世紀末にオーストリア・ハンガリー帝国が主要な海軍港だったプーラを守るために建てたツィリスト岬砦(Fort Punta Christo)があります。
この要塞の中には3つの中庭と 270以上の部屋があり、面積はなんと1万平方メートル以上あるそうです。
オーストリア・ハンガリー帝国はこのあたりに全部で31の構造物を造ったそうですが、伝説によると、すべての砦は地下トンネルと水中トンネルで繋がっているとか。
ここは現在、コンサートや展覧会などの文化イベントスペースになっているようですが、この時は開いておらず、中には入れませんでした。
ツィリスト岬砦からはやってきた道を戻っても良かったのですが、南東のビーチに出る道があったのでついついそちらに。
そうしたらその道がぼこぼこの砂利道の上に強烈な下りで、アチャ〜。。
その下りというのがこれ。前転しないように慎重に下って行きます。
プロシュティーナ岬を廻り込んだ南側のビーチに出ました。
こちらの人たちはみんな気ままに、好きなところに陣取り、好きな格好で過ごします。
ビーチでくつろぐ人々を横目に、入り江の奥まで進んで、
シュティニャン(Štinjan)に上ります。
ここはかなり新しい街のようで、この小さな礼拝堂には2010の文字が見えます。
シュティニャンからは本日の終着地のプーラに下って行きますが、右手にあるはずの湾もプーラの街もほとんど見えません。
D75号線に入って鉄道の線路を跨ぎ、ロータリーを廻って方向を変えて進んで行くと、ようやく松林の下にプーラの駅が見えてきます。
プーラはクロアチアのイストラ半島最大の都市で、古代ローマ時代から行政の中心地でした。このあたりに人が暮らしだしたのは少なくとも紀元前1万年まで遡り、紀元前10世紀にはイリュリア人らによって都市が築かれています。
イストリア半島は紀元前177年に古代ローマに征服されます。プーラは紀元前46年から45年にかけてコロニアに昇格し、すでに3万人の人口を持つ都市になっていました。ここにはそのころの建築がいくつも残っています。
これはアレーナ(Arena)と呼ばれる円形闘技場で、かつては剣闘士の戦いの場でした。紀元1世紀、9代皇帝ウェスパシアヌス(在位 69年 - 79年)の統治時代に、有名なローマのコロシアムと同時に建てられたそうです。平面形は楕円形で、長軸は約130m、短軸は約100mで地元の石灰岩が使用されています。
剣闘士の戦いはアレーナと呼ばれる中央の平坦なエリアで行われ、それを取り囲む石段やギャラリーには約2万人の観客を収容することができたと考えられています。ここは中世には、騎士のトーナメントやフェアが開催されたそうです。
宿に向かう前にカテドラルを覗いてみようとやってきました。
カテドラルは初期キリスト教の建物で、4世紀に建築が始まり5世紀に現在の形になったそうですが、ファサードは16世紀にルネサンス様式で造り替えられています。
教会の前に建つ鐘楼は17世紀後半のもので、この建設には何と円形闘技場の石が使用されたとのこと。そのころはすでに、円形闘技場は価値のないものになっていたということですね。
このカテドラルは内部を見なければならないのですが、この時は開いていませんでした。14時から17時までは昼休みのようです。仕方がないのでここには明日また来ることにして、宿に向かいます。
本日の宿は名前に Rooms とあるようにホテルではなく、もっとずっとこじんまりしたところでフロントはなく、人は常駐していません。着く10分前に電話してね、ということだったのですが、ケータイがない私たちに電話は難易度が高いので、メイルにさせてもらいました。宿の下でWiFiが拾えるというのです。
ところが電波の具合が悪いのかこのWiFiは拾えず、教えてもらっていた別のフリーWiFiの電波のあるところまで行って、なんとかメイルしました。10分後にやってきたお姉さんは、白ワイン一本と水一本をくれました。ここは若干宿代は高いのですが、それでも結構気前がいいですね。
宿には共用キッチンがあるしここには連泊するので、夕食は自炊することに。トマト、きゅうり、玉葱、ルッコラのサラダとポークハム、それに蝶々パスタを。ポークハムに掛かっているのはキッチンに置いてあったディルで、これがなかなか良かったです。デザートにはこれもここでもらったりんごを。ん〜ん、かなり手抜きですが、まあまあな食事になりました。