草原の朝はこの時期でも寒い。目覚めはどこかで動物が鳴く声。しかしどこを見渡してもそれらしい姿は見当たりません。
ボロルマによればその鳴き声はあの丘の麓、何キロメ−トルも先からのものなのだそうです。騒音がなく平坦で遮るもののないここモンゴルでは、何キロメ−トルも先の音が聞こえるのは当たり前のことなのだそうです。朝の目覚まし時計はこの牛さんの鳴き声だったのかも。
今日はいよいよ、かつてモンゴル帝国の首都があったハラホリンへ向かいます。
写真は前日のもので快晴ですが、この日はどんよりとした曇り空です。
バヤン・ゴビを出ると、草原に馬の群れが放たれているのが見えます。
この群れを取り締まっているのは馬に乗る小学生くらいの少年でした。写真の左端にちらっと写っている子です。
モンゴルの遊牧民はかなり幼い時から馬に乗って、家畜の面倒を見ているようです。
草原を遊牧民の家族が歩いています。馬の荷車には大きな荷が積まれています。
遊牧民は季節により家畜の食料となる牧草を求めて移動しますが、これは気分次第の適当な場所というわけではなく、ほぼ決った場所があるそうで、土地の使用権は国から与えられているそうです。
この移動はそのためのものでしょうか。
ちょうどこの時、空からパラパラと雨が降ってきました。雨が降り出すや否や荷車の荷が下ろされたかと思うと、見る見るうちにそれはゲルになっていきます。これは雨避けのための簡易組み立てだそうで、本格的な設置とは少し違うらしいのですが、ものの10分ほどでゲルの形が出来上がりました。きちんとした組み立てでも1時間ほどで完成するそうです。
- 出入口の戸を南向き(必ず)に立てる。
- ハナという壁になる折り畳み式の格子状の骨組みを円形に立てる。ハナは巾2~3mで1ユニットなので相互に縄で縛る。
- 出入口の戸とハナを縄で縛る。
- 円形の天窓トーノを柱で支える。
- オニという垂木をトーノとハナに架け渡たし、ハナとは縄で縛る。
- 部屋内壁に装飾布を被せる。(ここでは省略)
- フェルトを屋根と壁に被せる。
- その上に覆いの白い布を被せる。
- 覆いの白い布の上から、ハナの上下と屋根を縄で縛る。おしまい!
バヤン・ゴビから80kmほど走ると、いよいよハラホリンに着いたようです。ここにはかつてカラコルムというモンゴル帝国の首都がありました。カラコルムはモンゴル語で『黒い砂礫』を意味すると云い、その名はこの近くにある黒い石が取れるカラコルム山に由来していると伝えられています。 ちなみにハラホリンはカラコルムの現代語表記だそうです。
ここには私たちを歓迎するかのようにオボーがありました。白く見えるものは動物の頭蓋骨ですね。このオボーの周りを三回廻ってと。
オボーの向こう側には、草原の海に浮かぶ白いヨットのようなチベット仏教寺院エルデニ・ゾー(1585年建立)が見えます。
正方形を成す外側の塀には各辺中央に一つずつ計4つの門があり、全部で108の仏塔があるそうです。ヨットの帆に見えるのはこの仏塔です。この中にいくつかのお寺が配置されています。
カラコルムの歴史は、チンギス・ハーンが大西征の兵站基地をこの地に造り、第2代大ハーンであるオゴデイが1235年に宮殿と城壁とを築いてモンゴル帝国の首都に定めたところから始まります。
かのマルコ・ポーロも記しているようですが、当時のカラコルムは壮麗な宮殿が並び、世界中から人々がやってくる国際都市だったそうです。しかし第5代大ハーンのクビライが1267年に大都(北京)に遷都すると、徐々に衰えていったようです。
皮肉なことにカラコルムの多くの建造物は、このエルデニ・ゾー建設のための資材として使われたため、カラコルムは荒廃し、しばらくはそれがどこにあったのかさえ分からなくなっていました。
しかしようやく20世紀半ばに、エルデニ・ゾーの北側外壁に接するところでオゴデイの宮殿跡が確認され、その位置が明らかになったそうです。
つまり今私たちがいるこのあたりが、かつてのモンゴル帝国の首都カラコルムの中心だったわけです。
さて、そんなところに建てられたエルデニ・ゾーですが、ここでちょっと面白いのはまず建物の向きです。
モンゴルのゲルは玄関を必ず南向きにするのですが、ここの寺は全部東向きです。
そしてそれらには、中国風、インド風、チベット風と様々な建築様式が取り入れられていること。
ゴルバン・ゾー(三寺)はその名の通り、東寺、中央寺、西寺と三つの寺院が並ぶものですが、これはほとんど漢民族様式といっていいでしょう。
ゴルバン・ゾーの門にあったひょうきんな獅子飾り。
これはチベット様式のラブラン寺(ラブラン・ゾー)。
こちらはソブラカという、様式はチベットだけれどインド仏教伝来の大きなストゥーパ。
エルデニ・ゾーの周辺で3つ発見されている花崗岩の亀趺(亀石)は人の腰くらいの高さがありますが、これはカラコルム王宮の遺構で、碑文の台座だったと伝えられています。構造物を支える亀。これは亀が世界を支えているという神話的宇宙感から来たものだそうです。
そう言えばいろいろな民族の宇宙感を現した図の中に、地球を亀が支えているものがありました。
男根石。これはもっと民衆的なものなのかモンゴルでも結構あるそうですが、その本来の意味は良く分かっていないとのこと。
周りには柵が施されその頂部には青い布が巻かれていました。青はモンゴルでは神聖な色とされているので、ここでは神聖なものとして扱われているようです。
亀石も男根石も、両方とも似たものが日本にもありますね。
エルデニ・ゾーを一回りしたら丘の上登ります。ここにはエルデニ・ゾーをお参りしたモンゴルの人たちも登ってきます。そのなかのおじさんが、『お〜い、こっちへきて一杯やれよ。』
なんと出てきたのはアルヒというモンゴルのウォッカ。『ではでは、いただっきま〜す。』 昼間でも寒いこの日にはアルヒはちょうど良く、体の中からポッカポカに。
アルヒでいい気分になったら丘を下り、エルデニ・ゾーをあとにします。
ハラホリンにはモンゴルで最も長い川であるオルホン川が流れています。
そのためかこの地区はモンゴルの中でも特に水と緑豊かなところとなっているそうです。
川の畔にゲルがいくつかぽつんぽつんと置かれているのが見えます。
近づいてみれば、その周囲ではたくさんの家畜が草を食んでいます。
きれいな馬たち。
こちらは角が立派な牛さん。角があるのでちょっとおっかないですが、実はとてもおとなしいです。
ここで遊牧民を訪ねてみることにしました。
小川の向こうに見えるこのゲルの煙突からは、ほのかに白い煙が立ち上っているのが見えます。
ゲルの最小単位はもちろん一つですが、多くの場合、家族や親類のゲルと寄り添うように数軒単位となることが多く、ゲル以外にも家畜のための施設を伴います。ここには二つのゲルがありました。
『サェン バェ ノー(こんにちは)、お邪魔していいですか。』 と訊ねると、おかあさんが快く迎え入れてくれました。ゲルの中には決った席があり、南向きの出入口から見て、正面が主人席、左手が客と男、右手が女と子供。それぞれの近くには、飾り棚、馬具、調理用具といったものが置かれます。
私たちは客席に座らせてもらいました。おかあさんはうしろの瓶からスーテイ(乳茶)とアイラック(馬乳酒)を出してごちそうしてくれました。
まん中のストーブの横にあるのは燃料となる家畜の糞を乾燥させたもので、動物の種類により呼び名が違うと言います。この糞を冬は床のカーペットの下に敷き断熱材の代わりにするそうです。乾燥しているのでほとんど匂いはなく、燃やすとほんのり草の匂いがします。
『そうそう、ごはんを食べて行きなさい。』 とおかあさん。
外では食事の準備が始まっているようでした。竪に長いステンレスの容器はおそらく家畜の乳を入れるもので、横の鍋でそれを温めているようです。これは確かチーズを造っているところだったと思います。
こちらはなにか煮込み料理のようで、鍋がぐつぐつと音をたてていて、いい匂いがします。
お母さんの言葉には牽かれるものがあったのですが、さすがに食事は遠慮して、お礼を言っておいとまします。
ふと見上げるとゲルの上になにか白っぽいものが載っています。
『ああ、これはヤギのチーズですよ。どうぞ。』 フレッシュなチーズをごちそうになり、このゲルをあとにしました。
私たちのジープはブルドのバヤン・ゴビに向かっています。途中にこのあたりの遊牧民の拠点となる村があるというので立ち寄ってみました。
遊牧民といえど、子供は学校に行かなければならず、病気になれば病院に行かなければなりません。ここはそうした公共の施設がある村で、ここに定住している人々もいるそうです。
写真のかっこいいおじさんは、ナーダム(祭り)用の馬の調教師らしいです。
バヤン・ゴビに戻る途中、草原に大型の鳥がたくさんいるところがありました。
この鳥は日本ではほとんど見かけなくなった鶴です。写真の下に写っている白っぽい点も鶴です。鶴が優雅に飛ぶ姿を見たのは子供の時以来で、ちょと感動。
一日たっぷりハラホリン近くを楽しんで、バヤン・ゴビに戻ってきました。
そこにやってきたのはふた瘤ラクダ。
ラクダに乗ったことのない私たちはここで初乗駱駝を。
ラクダって大きくて、股がってから起き上がる時、もの凄い角度の変化があって、かなり怖いです。起き上がってからも歩く時にゆっさゆっさするので、このリズムに慣れるまでちょっと時間がかかりましたが、とにかく視点が高いのでかなり気持ちいいです。
今日はゲルの組み立ても見られ、遊牧民のお宅も見学させてもらえて、楽しかったです。さて、明日はここブルドからいったん首都のウランバートルに戻るのですが、面白そうなところがあったら寄り道したいと思います。