朝、湖の畔に建つ宿の窓から外を見ると、空はどんよりとした雲に覆われている。
その雲の下はスコットランド一長いというオー湖(Loch Awe)で、その長さは今見えている三倍ほどある。
さて、朝食だ。スコットランドの朝食の定番はスコティッシュ・フル・ブレックファストと呼ばれるもので、これはかなり豪華なものだ。
まずポーリッジ(Porridge)。これはカラスムギのお粥で、牛乳や砂糖、あるいは塩を加えて食べられる。さらに、ベーコン、ソーセージ、ブラック・プディング、ハギス、焼きトマト、マッシュルーム、豆、ポテト・スコーン、卵、そしてトースト。ヨーグルトやフルーツはたいてい好きなだけどうぞだ。これはここまで紹介しそこなったが、ほぼ毎日食べていた。
だがそれは量が多く少々ごついので、今日は別のものにした。スコットランドでは朝食に魚を食べることもある。
その中でもっともポピュラーなのは、キッパー(Kipper)と呼ばれるニシンのひらきの燻製だ。これは塩味が効いており、骨付きで焼かれて出てくる。
この写真はハドック(Haddock、コダラ)の薫製で、これらの他に温冷二種類のスモークサーモンなどがある。
自転車の旅では、宿でどんなところに自転車が置かれるかは心配事の一つだが、一番多いのは倉庫やガレージの片隅で、この場合はほとんど問題ない。そういったものがない街中のB&Bなどでは、屋外の軒下ということもある。こうした場合でも、雨に備えてシートを被せてくれたり、いろいろと世話を焼いてくれるので、大きな不安は感じずに済む。この宿では玄関の中に置かせてくれたので、まったく問題なし。
私たちの自転車の横にある長靴だが、これはハイキング用のもので、ちょっとした宿では宿泊客用に用意してあるようだ。これまで紹介してきたように、ここはボグ(泥炭地)が非常に多いので、普通の靴では本格的なハイキングはできないのだ。
天気予報によれば、今日はいよいよ雨のようだ。この日の行程はここテイクレガンからローン湾(Firth of Lorn)の港町オーバン(Oban)までで、距離は30km少々と極めて短い。うまくすれば雨が降り出す前にオーバンに着けるかもしれない。
身支度を整えて外へ出、オー湖を眺めると、湖面のすぐ上に朝靄とも雲ともつかぬものがたなびいている。ちょっと幻想的な景色だ。
『雨が降り出す前にオーバンに着けるといいな〜』 といいながら自転車を漕ぎだすサリーナ。
走り出すとすぐ、右手に牧草地が現れる。その中にいるのはもちろん羊だ。
スコットランドには、人より羊の方が何倍も多く住んでいる。
そこを行く道はこんなシングルトラックだ。
昨日フォード(Ford)からやってきた道の分岐点に出た。この分岐点から先は幾分道幅が広がるが、上りになる。ハイランドではどこへ行くにも必ず上りがあるのだ。
道脇の小高いところにはケルト十字の石碑が建っている。古くは、スコットランド西部にはケルト系民族のゲール人が住んでいたのだ。今日のスコットランドの公用語は英語とスコットランド・ゲール語だが、この二つはまったく異なるもので、スコットランド・ゲール語で話しているのを聞いても、まったくチンプンカンプンだ。
T字路にぶつかるとキルクレナン(Kilchrenan)だ。ここには学校と教会そしてB&Bが数軒あるのだが、想像していた村とは違い、通りに数軒パラパラと民家が建っているだけだった。
キルクレナンからさらに上って行くと、さっきまで上にあった雲が手が届きそうなところに見える。
周囲はいつもの丘と荒野になった。丘と荒野と湖だけの世界、それがハイランドだと言っていいかもしれない。
その荒野の中の鈍色の光は、トロムリー湖(Lock Tromlee)だ。この湖がうしろに見えるようになる頃、道は、僅か標高160mほどの本日の最高地点を迎える。
道が下りになると、左手は落ち込んだ谷になり川が流れ出す。この川の流れは木立に隠れほとんど見えないが、その気配は感じられ、気分がいい道だ。この川沿いをゆっくり下っていると、ここでついに空から冷たいものが落ち出した。
まだ走り始めて間もない。オーバンまで持つことを期待した天気だが、これははかない夢となりつつある。
テインイルト(Taynuilt)まで下ってきた。このすぐ北にはエティーブ湖(Loch Etive)のエアーズ湾(Airds Bay)があるので、天気だったら寄って見ようと思っていたのだが、雨とあっては先を急いだ方が良い。
テインイルトからオーバンまではA85が近道だが、これは車の道だ。
自転車には 'The Road of the Kings' と呼ばれる良い道がある。
この道は言い伝えでは、スコットランドの君主たちのアイオナ島(isle of Iona)への葬送のために使われた道で、9世紀から11世紀にかけてのスコットランドの王(ケネス・マカルピン(Kenneth MacAlpin)、コンスタンティヌス I世(Constantine I )およびその後の後継者たち)はすべて、聖コルンバ(Saint Columba)の神聖な島に埋葬されたと言われている。
テインイルトから入った 'The Road of the Kings' はまず激坂上りで、すぐに北にあるエティーブ湖が見え出す。出発地のオー湖は湖だが、このエティーブ湖は入り込んだ湾、つまり海だ。
勾配が穏やかになった 'The Road of the Kings' はグレン・ロナン(Glen Lonan)を抜けていく。
このあたり一帯がそのグレン・ロナンのはずだが、谷(glen)らしきものはどこにも見当たらない。スコットランドはそもそも山が低いので、高い山に囲まれた深い渓谷が身近な私たちには、こちらで谷と名が付く土地に入っても、なんだかピンと来ないことがしばしばあるのだ。
ぼさぼさした荒野のあとは森に入る。
だがスコットランドの森は大抵浅いので、すぐに抜け出る。
森を抜ければ、そこにもまた穏やかな上りの荒野が続く。
そして本日第二のピークに達したようだ。
だが、この第二のピークからもアップダウンは続く。
細かい起伏に合わせるように、道は小さなカーブを繰り返して行く。
空からはポツポツとごく僅かに雨粒が落ちているものの、これは不快なほどではなく、まずまず順調に進んで行く。
だが周囲には濡れた草地しかないので、纏まった休憩はまったくできず、せいぜい立ち止まってひと息付くくらいだ。
ぼさぼさの荒野の中に所々牧草地が現れるようになる。
ここで寝そべっているのは羊ではなく牛だ。このあたりにはハイランド牛(Highland cattle)という独特の牛がいるというが、これじゃあなさそうだ。
道沿いに一軒の農家が現れた。その小屋からは羊がぞろぞろ。
彼らは自分の行くべき牧草地を知っているようで、道一杯に広がってこちらへやって来る。この群れに掴まるとしばらく身動きが取れなくなるので、あわてて走り出す。
牧草地と牧草地の間には小川が流れている。
ロッホ(Loch)と呼ばれる湖があちこちにあるように、この地には川も多く、その水もまたロッホと同じように黒い。
両側から丘が迫って来た。
私たちにとってはここもまだ谷と呼ぶには違和感があるが、このあたりからがロナン谷なのかもしれない。
相変わらず降っているような、降っていないような雨だ。
そんな中で、ボーっと霞む平原の中に茶色い動物が立っている。がっしりした体型で足が短い。
一本の木の向こうの道端には、同じ動物がたくさんいるようだ。
これがハイランド牛だろう。
モジャモジャの長い毛が生えており、そのせいでなんだか牛らしく見えないが、これはまちがいなく牛だ。
雄は水牛のような大きな角を持ち、
雌はそれがないので、なんだかかわいらしく見える。
雄と雌が並んでいるところを見ると、雌の方が少し身体が小さいように思うが、これは個体差かもしれない。
どちらも大地を踏ん張る短い足が、力強い印象を与える。
このあたりの島が原産のこの牛は肉牛のようだが、そのミルクは高いバター脂肪含有量があり、6世紀にはその存在が知られている。
ちなみにモジャモジャの長い毛は、ここの寒い冬を越すためだと考えられている。
さて、ハイランド牛に面会したところで、雨が少し強くなってきた。
ポツポツからパラパラに変わった、といったところか。
道は徐々に小高い丘の間に入って行く。私たちの感覚ではこれでもまだここを谷とは呼ばないが、こちらでは谷と呼ぶに違いない。
その谷の中の野っパラにいるのは羊だ。この羊の顔は黒い。黒い顔の羊は珍しいと思ったが、実は英国ではこの Scottish Blackface という種類はもっとも一般的なものだそうで、雌雄ともに角があるという。
放牧というのは、元々は自然の中でその動物の餌となる植物が生えているところに家畜を放ち、人の手で餌をやらずに済ませる効率的な飼育方法だった。その後より効率を高めるため、その餌場として適した土地には、飼料となる植物がよりよく育つように人の手が加えられる。だから今日見る牧草地の多くは、人の手が入ったきれいなものになっている。
スコットランドでも事情は同じで、ある程度手の入った牧草地もあるが、ここにはボグ(泥炭地)が多く、こうしたところは人の手を加えにくい。
ボグはズブズブなとことが多いため人が立ち入りにくく、それに加え大抵、ここに見るようなバサバサの植物が生えているからだ。
だがその間にも家畜の餌となるような草が生えるので、今でもこうしたところは、ほぼ自然の状態の放牧地となっている。
そうした自然の牧草地の中を行く道には、そこら中から羊がはみ出してきて、あちこちでとおせんぼをしている。その上困ったことに羊というのはあまり賢くないようで、私たちが近付くと必ずといっていいほどその進行方向に向かって駆け出すのだ。
そんな調子なので私たちはずっと羊を追い掛ける格好になり、一方の羊はずっと私たちから逃げ、道を走り続けることになるのだ。
ここは芝生のようなきれいな牧草地。もしかしたらこうしたきれいな牧草地も、人の手が入ったものではなく、偶然きれいなだけかもしれない。どうなんだろう。
この向こうにネル湖(Loch Nell)があるはずだが、それはここからは見えない。王の葬列はここからネル湖へ向かい、その先にある Loch Feochan の死者の岩(the Rock of the Dead)から海に出て、ローン湾を渡り、マル島(isle of Mull)の南岸を伝ってアイオナ島に辿り着いたと考えられている。
ネル湖のあたりでかなり標高を落とした道は、その後再び上りになる。
このあたりになると左右の丘はすっかりなくなる。やはりハイランド牛や羊を見たあたりがグレン・ロナンなのだろう。
ここにきて雨脚が強くなってきた。
パラパラからしとしとといったところだ。いよいよ本降りになったようだ。
西へ向かっていた道がネル湖からやってくる道と合流し、北へ進路を変えると、そこからはこれまでやって来たグレン・ロナンの北に広がる丘が見える。
ウェスト・ハイランドの風景はいつでもどこでも、大抵こんな感じだ。
道はオーバンのちょっと内陸にあるグレンクルイットン(Glencruitten) へ向かうGlencruitten Rd に入った。
だからといって特別何かが変わるわけでもなく、相変わらず周囲は牧草地で、その向こうには丘が広がっているだけだ。
右手にルアックラック湖(Luachrach Loch)が見えると、そこから道は下りになり建物が現れ出す。グレンクルイットンに入ったらしい。
しかしここでさらに雨脚が強まったので、一気にオーバンにかけ下った。
オーバンはローン湾に面する港町で、人口はわずか八千人と少ないが、このあたりでは最大の街で、インナー・ヘブリーディズ諸島への玄関口にもなっており、観光客も大勢やってくる。
グレンクルイットンから下りて来ると否応なく、オーバンの中心である港の広場に出る。オーバンはゲール語で『小さな港』を意味するそうだ。
雨にも関わらず、この広場周辺は観光客で賑わっている。
雨は結局本降りになってそのままなので、とにかく今宵の宿へ向かう。
港沿いの道を行き、
自転車を押し上げるのもきついほどの激坂を上った東の丘の上に、私たちの宿はあった。
時は12時45分でチェックインには早すぎ部屋には入れなかったが、ここに荷を解き自転車も置いて、まずは昼食に出かける。
自転車を押し上げた激坂を今度は歩いて下り、下の道の近くにあったレストランに入る。私たちの食事は、二人で1〜1.5人前が標準だ。前菜やスープを一人前か一人づつ、メインを一人前といったところだ。
この日は少し寒いのでまずスープ二種を。セロリのスープとカレン・スキンク(Cullen skink)。カレン・スキンクは、スモークしたハドック(コダラ)にジャガイモ、タマネギなどが入ったクリームスープで、これは結構いける。元々はスコットランド北東沿岸部の料理だったらしいが、今ではどこでも食べられるようだ。
ここは港町なので魚介類は豊富だ。メインはムール貝にしてみた。ムール貝は貝の中ではあまり美味しい方ではないが、ポピュラーでどこにでもあり、安いから手が出しやすい。
ここのはちょっと珍しくクリームソース和えで、これはちゃんとした料理になっていて、結構美味しい。
オーバンの観光名所はオーバン蒸留所(Oban distillery)とマッケイグス・タワー(McCaig's Tower)だろう。
今でこそ観光客で賑わうこの街は、19世紀以前にはほとんど家がなかったらしい。ここの発展は18世紀末に作られたオーバン蒸留所から始まるのだ。もちろん私たちもこの蒸留所のウィスキーを購入した。
そのオーバン蒸留所のうしろの高台に見えるのが、コロッセオのような円形の、19世紀末から20世紀初頭にかけて建てられたマッケイグス・タワーだ。
明日はここオーバンにもう一泊し、インナー・ヘブリーディーズの三つの島を巡るツアーに参加する予定だ。
しかし同じような内容のツアーがいくつかの会社から売り出されている。そこで観光案内所で聞いてみると、このツアーはフェリー会社、バス会社、ボート会社による合同ツアーで、まったく同じツアーを各社の窓口で販売しているにすぎないことがわかった。ということで、一番近くにある港の広場の角にある West Coast Tours で明日の予約をすることにした。
しかし明日も天候が悪く、ツアーそのものがキャンセルになるかもしれないとのことだ。出航一時間前にならないとはっきりしないので、明朝9時に確認せよとのことだが、予約は受けてくれた。
このツアーのフェリー乗場の確認も含め、港をちょっと覗いてみた。
港の周りには人だかりがある店があちこちにあるが、中でもここは人気の魚介類のテイクアウト店ともいうべき Oban Seafood Hut で大変賑やかだ。買ったものを持ち帰るも良し、店先の簡単なテーブルでつまむのも良し。
すべてローカル --- ホタテ、ロブスター、ムール貝、カニ、海老、牡蠣。
みんなおいしそうだ。
オーバン湾の北の端に建つのは、赤い花崗岩の外壁の Saint Columba Cathedral。
このネオゴシックスタイルの大聖堂を設計したのは、英国のあの誰でも知っている赤い電話ボックスをデザインした人だという。
そしてこの大聖堂の名に冠せられた聖コルンバは、スコットランドや北部イングランドへの布教の中心となったアイオナ修道院を創設した、アイルランド出身の修道僧だ。
明日はそのアイオナ修道院も訪ねる予定だが、さてどうなるか。