マンボウが泳ぎ出したと思ったらあっという間にもっと強烈なキンジに食べられちゃった。(笑) キンジが暴れそうなので今日は予定していた宿泊企画を取りやめ、近場のランデヴー・プロジェクトに変更です。
今回も歌川広重ドンにお世話になります。名所江戸百景シリーズの12回目は隅田川(広重の時代には大川と呼ばれた)と荒川に囲まれたゾーンをメインにご紹介します。出発地はいつもの文京区小石川は播磨坂。桜の葉っぱは新緑を過ぎ、夏の色になりつつあります。
まず向かうは隅田川ですが、その途中にドン広重が描いた湯島天神があるので、立ち寄ってから行くことにします。
小石川から湯島天神までの間には菊坂という穏やかなカーブを描く坂があります。文京区にはかつて様々な文豪が住んでいましたが、宮沢賢治、樋口一葉、坪内逍遥は特にこの坂の近辺に住んでいました。写真の白壁土蔵とその隣の木造の建物は一葉がしばしば通ったという伊勢屋質店でした。
湯島天神に到着です。
ここでユッキーとランデヴー。本船と無事ドッキング成功です。
湯島天神は学問の神様である菅原道真を祀っていることから、この時期は例年だとお礼参りの人々が多くやってくるのですが、それももう終わったのか、あるいはキンジの影響でか、この日はほとんど人気はありません。
この造りは拝殿・幣殿・本殿と並ぶ権現造です。その多くの例は拝殿から奥には進めないようになっているのですが、ここは本殿のうしろも見られるのがちょっと珍しいです。周囲に植えられているのは梅の木で、実が大きくなっていました。
さて、本日の名所江戸百景の初めはこの『湯しま天神坂上眺望』です。向こうに見えるのは不忍池で、中之島の辨天堂もよく見えます。
湯島天神の正面の入口は私たちが入った南側の鳥居ですが、広重の時代は南側からではなく東側、もしくは北側からのアプローチの方が一般的だったかもしれません。絵の鳥居は境内の東にあるもので、私たちがくぐったものとは異なります。この鳥居の正面となる東側には男坂と呼ばれる急な階段があり、それと直行するように北側から登ってくる女坂というやや緩い階段があります。広重は鳥居の外から女坂を見、さらにその向こうに広がる不忍池を描きました。遠方に見えるのは上野のお山に立つ寛永寺でしょう。残念ながら現在は上野のお山も不忍池もここからは見ることができません。
雪景色です。広重の雪は独特で、どうしたらこんな雪の表現ができるのかといつも感心させられるばかりです。写真ではわかりませんが、この近景の雪は『きめ出し』と呼ばれる技法により凸面で表現されています。
茶屋の赤い提灯を見てもわかるように、当時このあたりは他の多くの寺社の例に漏れず、行楽地になっていたとヘンリー・スミス(広重 名所江戸百景/岩波書店)は述べています。また、湯島は特に陰間茶屋で有名だったことから、描かれた人物はもしかすると男娼かも知れないと述べたある美術家の言を引いています。描かれている人物がみんな頭巾を被っているのはそういうことを暗示しているのかもしれません。
湯島天神の境内で『やげん堀』の名を発見。七味唐辛子やさんです。薬研堀は東日本橋にかつてあった堀の名で、実はこのあと紹介する広重の絵に登場します。
薬研堀には医者や薬問屋がたくさん集まっており、1625年(寛永2年)に中島徳右衛門なる人物が漢方薬を基に生薬を組み合わせて七味唐辛子を売り出したことによって、薬研堀は七味唐辛子の発祥の地となり、また七味唐辛子のことを薬研堀とも呼ぶようになったのです。
これもなにかの縁かと、ここで七味唐辛子を購入。スーパーではやってくれませんが、七味唐辛子の専門店では好みに応じてブレンドしてもらえます。ここの七味は、唐辛子、陳皮、山椒、青海苔、芥子(けし)の実、麻の実、黒胡麻ですが、これは店によって違います。
湯島天神にお参りして七味唐辛子をゲットしたら隅田川へ向かいます。
天神様はちょと高台にあるので、坂道をびゅーんと下って行きます。
やってきたのは隅田川の厩橋(うまやばし)のちょっと南で、江戸時代に『御厩河岸の渡し』があったところです。かつてこのあたりには幕府の米蔵があり、その荷駄馬用の厩があったので御厩河岸と呼ばれていました。
広重は御厩河岸そのものを描かず、岸に生える常磐樫の木と舟でやってくる赤い帯に藍染めの手ぬぐいを被る白い顔の女たちを描いています。全体に暗い色調のこの絵はちょっと薄気味悪く感じます。ヘンリー・スミス(前掲書)によると、女たちは夜鷹で、そのうしろの男は妓夫(ぎゅう=客引きや護衛をしながら夜鷹などについて歩く男)だそうです。夜鷹とは江戸でも一番格の低い娼婦で、それ用のござを抱えており、路地裏などの適当なところへ入り込んで商売をしていたようです。
最下層の遊女には病気のせいで顔が醜くなった者が多かったので、この絵の女たちのように厚化粧で顔を隠さざるをえなかったようです。彼女たちは川向こうに見える本所の堀の裏手にある掘立小屋に住み、悲惨な生活を送っていました。
御厩河岸の渡しは明治時代に厩橋にとって替わられました。
厩橋の下を行くのは東京クルーズの定期船で松本零士がデザインを手掛けたもの。その向こうに浮かぶのは現代の屋形船。
厩橋からはその一本下流に架かる蔵前橋に向かいます。
隅田川の防潮堤は人の背丈より高いコンクリートの壁で、川面が見えないのが残念。
蔵前の名は先ほど申し上げたように幕府の米蔵がこの一帯にあったことに由来しています。蔵前橋はかつては稲の籾殻を連想さす?というかなりどぎつい黄色がアイコンでしたが、現在その色は少し薄く塗り直され上品になりました。
この橋の西詰には1984年(昭和59年)まで蔵前国技館がありました。そのため、橋の高欄には力士などのレリーフが施されています。またここには『首尾の松』があり、その石碑が立っています。
広重はここでもう一枚隅田川を描いています。画題の浅草川は浅草の東を流れる隅田川の呼び名でした。
『首尾の松』は当時江戸の松の名木の中でももっとも有名なもので、現在の蔵前橋の南の御厩河岸にあったそうです。絵の左から突き出した枝がそれで、向こうで行き交う舟が御厩河岸の渡し。その左を行く猪牙船(タクシー船)が目指すのはどうやら吉原のよう。『首尾』の語源の一つに、吉原での昨夜の首尾を語ったことから、というのがあるそうです。
松の木下に舫うのは屋根船で、これは大型で複数の部屋がある屋形船より小型で、絵では御簾を下ろしています。この御簾は天保の改革以来、上げておかなければならないことになっていましたが、この時代になるともうその規制も緩んでいたのかもしれません。
舳先に下駄が二足。さて、船中の首尾はいかに。写真ではわからないかもしれませんが、この御簾には内部の様子がうっすらと映っています。摺りの妙技で、袋とじを透かして覗く感覚が味わえますが、美術館ではちょっとねぇ。
現在首尾の松は蔵前橋の袂に何代目だかが植えられていますが、隅田川の上に枝をのばすような大木ではありませんし、かりに大きくなったとしても、とても川までは届きそうな位置にはありません。隅田川そのものも往来が激しく、たとえ御簾を下ろしたとしても舟の中でゆっくりできるようなところではなくなりました。第一、そんな雰囲気の舟はなくなってしまいましたし。
この時、蔵前橋のすぐ上流で潜水工事が行われていました。具体的に何をやっているのかは分かりませんでしたが、潜水士の呼吸音がスピーカーから流れ出ていて、ちょっと面白かったです。こちらの首尾は良好であることを祈ります。
隅田川をさらに下り、蔵前橋の一本下流に架かる両国橋を渡ります。
両国には回向院があります。この前『ツール・ド・荒川区 名所江戸百景6』で巡った南千住の回向院はかつてこの両国の回向院の別院だったものです。両国回向院は明暦の大火や安政の大地震の犠牲者などが葬られています。ここは大相撲と深い関係があります。今日の大相撲の起源は1768年(明和5年)以降にこの境内で興行された勧進相撲だそうです。江戸での勧進相撲は各地で行われていましたが、1833年(天保4年)には回向院が独占するようになります。この『回向院相撲』は1909年(明治42年)に旧両国国技館が建てられるまで行われました。
この絵が湯島天神の七味唐辛子やのところで述べたものです。春の朝、朝日が空を赤く染めています。回向院の境内に立つ相撲櫓のクローズアップ、隅田川対岸に見える窪みが薬研堀でその出口に架かるのが元柳橋。元禄年間に神田川の河口に新しい柳橋が架けられたので、こちらの柳橋には元が付けられました。遠くに見事な富士山。
櫓の上に太鼓がちょっとだけ見え、その上に梵天が突き出ています。梵天を立てることは、櫓が元来神を勧請するために天へ向けて構築されたものであったことを示しているいいます。櫓太鼓を打ち鳴らして興行があることを知らせる習慣は相撲では現在も行われています。
今日、薬研堀は埋め立てられており、日本橋中学校の敷地の一部になっています。もちろん元柳橋もありません。あそこにはもう七味唐辛子を売っている店はないと思います。
回向院からはすでに隅田川は見えなくなってしまっていますが、相撲関係の何かが残っているかもしれないと、行ってみました。
回向院の建物は現代的な造りで、仁王門もご覧の通り。
境内に入ると、『力塚』がありました。
これは1936年(昭和11年)に大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀り、建立したものだそうです。
旧両国国技館は1909年(明治42年)に回向院の境内に建てられました。設計は東京駅で有名な辰野金吾とその弟子で、鉄骨造のドームから『大鉄傘』の愛称で呼ばれたそうです。
収容人員は小屋掛け時代には3,000人程度でしたが、大鉄傘はその数倍の13,000人だったそうです。内径62m、高さは25mと、当時としては巨大な建築でした。
再び隅田川に出ると、そこには見知った植物が土手を覆っていました。
この植物、良く見掛けるのですが今回はじめて名前を知りました。ヒメツルソバ(姫蔓蕎麦)。原産地はヒマラヤだそうですが、あまり寒さには強くないようです。
隅田川から小名木川が別れる地点の北側に芭蕉記念館の分館があり、その屋上が芭蕉庵史跡展望庭園になっています。
この庭園には芭蕉座像があり、芭蕉の句数点がレリーフになっています。芭蕉は1680年(延宝8年)37歳の時に日本橋から深川の草庵(芭蕉庵)に移り住みました。芭蕉庵は長くその場所がわからなくなっていました。ここのすぐ近くで芭蕉遺愛のものとみられる石蛙が見つかったことから、その地を芭蕉庵跡と推定し、祠に石蛙を祀り芭蕉稲荷としました。芭蕉稲荷はここの20m東にあり、芭蕉庵史跡展望庭園の下には芭蕉庵跡の石碑が立っています。
隅田川の南に見える吊り橋は重要文化財に指定されている清洲橋。
芭蕉庵史跡展望庭園付近から隅田川を通し、南西の箱崎あたりを見た絵です。清洲橋の奥には江戸時代には箱崎川が流れ、その出口に永久橋が架かっていました。画題の『三俣』は隅田川、小名木川、箱崎川の三本の川の交差点という意味かと思いましたが、ヘンリー・スミス(前掲書)によればこれは隅田川と箱崎川の分流点のことで、『別れの淵』は隅田川の河口から入ってくる汐水と川の真水とが入り交じる地点のことだそう。
画面中央の芦の生える浅瀬は中洲の名残で、広重は絵本江戸土産の『中州三俣』でこの中州を『新大橋より南の方、昔ここに茶屋ありてその賑わいいわんかたなし。今、とり払いて洲となれど、猶、月雪の風景よし』とかつての歓楽の中心としての繁栄を記していますが、百景ではそこには米俵、酒樽、木綿を積んだ荷船が描かれているだけです。
箱崎川の出口の先にはこれに直行して浜町川(浜町堀)が流れ、川口橋が架かっていました。周辺には大名屋敷が見えます。中州は明治時代に再び埋め立てられ中州町となり、歓楽街として賑わいを取り戻しますが、その後清洲橋が架かり高速道路が通って、今日はあまりぱっとしない一画となっています。
小名木川は隅田川と旧中川を結ぶ運河で、江戸時代初期に行徳塩田の塩を運ぶため徳川家康の命で開削されたもので、その全長は約5kmです。
隅田川から小名木川が別れるその入口には萬年橋が架かります。
広重がここから描いた一枚は一度見たら決して忘れないものの一つでしょう。手桶から吊り下げされた亀。その下に富士山。隅田川には前の絵と同じような船が浮かび、手前に棹で船を操る舟人。手桶と隅田川の間にはもう一つの縁取りがあり、これは画題から萬年橋の欄干だと考えられます。
萬年橋のあたりはペット用として亀が飼育されていた土地だったようです。捉えた生き物を元の場所に放してやる放生会(ほうじょうえ)は殺生を戒める宗教儀式でしたが、江戸時代にはすでに商業的なものになっており、この萬年橋のあたりにはそれを商売にするものがいたようなので、実際に亀が売られていたのかもしれません。もちろん広重はここで『亀は萬年』から、長寿のシンボルとして亀と萬年橋を掛けたことは想像に難くないでしょう。
亀が見ている世界はかつて自身が自由に生きていた世界であり、放生されればまたその世界に戻れる。しかし今はただ手桶から吊り下げられ身動きが取れない。ヘンリー・スミス(前掲書)はこの絵に鎖国を解いて世界に踏み出そうとしている幕末の日本を重ねています。今ここに重ねる世界があるなら、キンジもマンボウも泳ぎ廻っていない世界か。
そろそろ昼時です。深川といえばやはり深川めしでしょう。
萬年橋から程近い森下に深川めしを喰わす料理屋があるのでそこへ向かいます。
江戸湾が近かった江戸時代には、このすぐ目の前で魚介類がたくさん採れました。深川めしのルーツは大量に採れたバイガイ(アオヤギ)を使った漁師飯のぶっかけ飯で、このバイガイに替わり明治時代あたりからアサリが使われるようになり、ぶっかけからより上品な炊き込みへと変化していったと考えられています。
深川産のアサリは東京湾の水質悪化とともにほとんど姿を消しましたが、近年は復活してきているようで、ここではおいしい炊き込みの深川めしをいただきました。あたし、アサリ好きなのよね〜
深川めしを堪能したら午後の部開始。
清澄公園を通り抜けて向かうは深川公園です。
深川公園から深川不動堂にかけてはかつては富岡八幡宮(通称深川八幡宮)の別当寺であった永代寺(明治時代に廃寺)でした。ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、永代寺は隅田川東岸では最大の寺院として知られており、年一回、人々に庭園を解放するのが恒例だったそうです。
絵では桜が咲き、ツツジが赤く染まっています。これは桜とツツジが同時期に鑑賞できたということではなく、開園中に両方が楽しめたということのようです。左上には1820年(文政三年)に築かれたという富士塚が描かれています。これより以前には甲山(かぶとやま)という山があったようで、『山開き』という言葉は『林泉をひらく』という意味と『冨士登拝の解禁』という二つの意味を合わせたものだろうとスミス氏は述べています。
深川公園から東に200mほど行くと富岡八幡宮があります。
ここは回向院同様に江戸勧進相撲発祥の神社で、境内には大相撲ゆかりの石碑が多数く建立されています。八月に行われる祭礼の深川八幡祭りは江戸三大祭りの一つとされています。これは暑さ避けに水を掛けることから別名『水掛け祭』とも呼ばれます。
富岡八幡宮のすぐ東にはかつて三十三間堂が立っていました。三十三間堂といえば京都東山の蓮華王院が有名ですが、そこでの通し矢の流行をうけ、江戸にも建てられました。当初は浅草にありましたがそれが焼失したためこの地に再建されたそうです。京都同様にこのお堂でも当然通し矢は行われました。絵はまさにその試技の最中で、矢は濡縁の南端(絵の右側)から射られ、手前の見物客が顔を左に向けているのは、その放たれた矢の行方を追っているからだそうです。
絵はお堂の西側から東を見たもので、奥に見えるのは三十間堀(現平久川=へいきゅうがわ)です。その川辺に立っているのはよしず張りの茶屋。このすぐ向こうは木場で、川面に木材が浮かんでいるのが見えます。
三十三間堂が立っていたところは現在は何の変哲もない建物がただ雑然と立ち並ぶだけなので、その東を流れる平久川を絵に収めてみました。
平久川にはクラゲがぷかぷか。ここまで汐水が入り込んでいるようです。
平久川を南に行くと大横川と交差します。
この交差点から南は江戸時代は江戸湾でした。
1641年(寛永十八年)の火災で日本橋界隈にあった貯木場の木材が消失したことから、幕府は深川に貯木場を移転しました。それは現在の木場駅付近から木場公園にかけての一帯です。
この写真の奥にかつて貯木場があったわけです。
上の写真の奥に見える首都高速深川線の下は遊歩道になっているのでこれを使って北上します。永代通りから入る遊歩道の入口付近にかつての貯木場の様子を再現した像がありました。
この高速道路の下は、かつては貯木場に入る西側の運河だったようです。
その運河の一部は現在は木場親水公園となっています。
この親水公園、まずまずいい感じ。
広重にしては珍しく極めて単純明快な画題『深川木場』です。広重得意の雪景色。
斜めと垂直の木材が配されたこの絵はリズミカルです。川か運河か、それもこのリズムに乗ってジグザクに描かれています。二羽の雀、二人の筏師、二匹の犬、傘の『魚』は版元の魚栄を指すのでしょう。
木場親水公園から木場公園を抜けて、
木場駅の南にある洲崎神社にやってきました。この神社は1700年(元禄十三年)創建で、水の神様である弁才天を祀っていたことからかつては洲崎弁天と呼ばれていました。当時の地図を見るとこのすぐ南は江戸湾でした。
洲崎弁天は深川洲崎と呼ばれた江戸湾の出洲の先端にあり、当時はかなり有名なところでした。ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、このあたりでは春には潮干狩りが楽しめ、初日の名所でもあったそうです。
さて、名所江戸百景でももっとも人気のある一枚の登場です。その画題はこれも簡単明瞭で『深川洲崎十万坪』。深川洲崎十万坪は元は低湿地でしたが享保年間に埋め立てられ、その広さから十万坪と名付けられたといいます。この絵は深川洲崎から十万坪を眺めたもので、左手に立ち並ぶ丸太があるところが木場だと。
雪景色。空から獲物を狙って舞い降りる鷲。遠景にはおなじみの筑波山。水鳥の群に囲まれながら波打ち際をただよう木桶。しかもこの絵には星が描かれています。スミス氏はこのあと、山にいるイヌワシのような猛禽類がなぜこのような海辺にいるのかと問題提起し、浅草の鷲神社の祭神(このペイジの最後にある『浅草田甫酉の町詣』を参照)ではないかとし、妙見菩薩が北辰菩薩と言われるように北極星信仰に繋がるのではないかとしています。
現在この十万坪のあたりは建物で埋め尽くされているので、その西に位置する木場公園を絵に入れてみましたが、荒涼たる世界とはまるで違い家族連れでほんわかしています。まあ絵としてはやはり鷲がいないことにはねぇ。鷲は山にしかいないので、鳶でもいいけど。あ、公園では鴨がそのへんを駆け回っていました。ほんわかムードには鴨の方が似合いますね。
洲崎神社からは本日最東の地となる富賀岡八幡宮(とみがおかはちまんぐう)へ向かいます。
かつて海と陸との境だったところは現在は洲崎川緑道で自転車道になっていました。
富賀岡八幡宮は元八幡宮とも称されるようで、ここを富岡八幡宮の元宮とする説もありますが、これが事実かどうかは定かではないようです。砂村は地名で、元は低湿地であり17世紀の中頃に埋め立てられたところだそうです。この干拓事業者の名がどうやら砂村だったらしいです。
ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、遠景は房総半島でその手前が江戸湾。遠方で左から突き出しているのは江戸川の土手だそうです。つまりこの絵は元八幡宮の鳥居の北側から南東方向を描いていることになります。絵の左に伸びている松の木が生えた土手は中川に向かう道です。絵で葦が覆っているところは現在は埋め立てられていますが、ゼロメートル地帯です。
現地写真は広重の絵とは逆に鳥居の南側から北西方向を眺めたものです。南東方向には保育園が見えるだけなので。
富賀岡八幡宮の神輿です。文化十年(1813年)とあり社宝となっています。
江東区から墨田区にかけては江戸時代にたくさん運河が造られました。現在は親水公園になっている仙台堀川もそのうちの一つです。
仙台堀の名はこの北に仙台藩邸の蔵屋敷があり、米などの特産物を運び入れたことに由来するそうです。
仙台堀川を西へ進むと横十間川と交差します。この横十間川も親水公園になっています。横十間川は南北に通っています。地図で見ると縦方向に走るのになぜ『横』なのか。これは江戸城から見ると横方向に流れているからだそうです。
横十間川親水公園を北へ向かうと小名木川と交差します。
この交差点にはX字形のクローバー橋が架かっています。
X字形の橋はぐるぐる廻らなくてよいからとても便利です。
クローバー橋から小名木川に入りこれを西へ進み、となりの小名木川橋に出ました。ここには『五本松』と呼ばれた一本の名木がありました。一本なのになぜ五本松なのか、それはそのさらに昔は五本あったようなのですが、他は枯れて一本だけ残ったということのようです。
下に向いた枝の間に小さく見える橋があります。あそこが先ほど通ったクローバー橋が架かる横十間川です。ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、川が湾曲しているのは構図を面白くするためのデフォルメだそうです。
現在はここに何本か松の木が植えられているのですがそれはまだ若く、枝を張り出していないので広重のような絵にはなりません。仕方がないので松の木のうしろにある桜の木の枝を松に見立てて絵にしてみました。
小名木川橋から西大島の駅前近くまで進みました。そこにはかつて栄螺堂(さざえどう)が立っていました。
ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、この栄螺堂の正式名称は三匝堂(さんそうどう)といい、三匝は三回囲るという意味だと。各階に有名な観音巡りのミニチュアが造られており、一階が秩父三十四番札所、二階が坂東三十三番札所、三階が西国三十三番札所だそう。当時はミニチュアでも観音さまのご利益が減るわけではないと考えられていたそうで、これはここにお参りすれば百所霊場をお参りしたのと同じだという考えです。
現在この地にはかつて栄螺堂があったことを示す石碑が立つだけで、他には何もありません。道路の北側に羅漢寺がありますが、それは江戸時代のものとはつながりがないそうです。
西大島の駅前からは猿江公園を抜け、大横川親水公園を北上します。
大横川親水公園の北の端に面白いものがありました。このうしろに東京スカイツリーが立っているのですが、それを反射して映すカーブミラーのようなもので、どこからでもスカイツリーが見えます。
このミラーの向かいに立っている角みたいなものはミラーに映ると道路になるらしく、視点によっては道路でスカイツリーに登っているような錯覚を味わえるらしいです。子供たちに大人気でした。
東京スカイツリーをかすめて向かったのは、向島の秋葉神社。
その鳥居は北側の建物と建物の間のとても狭い参道に向いています。
この参道の横に洒落た硝子戸の建物が立っていました。
火除けのご利益で有名な秋葉神社は現在の静岡県浜松市の秋葉山にありますが、それを1702年(元禄十五年)に勧進して大名の寄進により本殿が建てられたそうです。
ヘンリー・スミス(前掲書)はここで、水に投影する木の影に西洋の画法の影響を見、松の葉に黄色味を加え、楓の紅葉がうす桃色に仕上げられているのは『江戸名所図会』の
「社頭に青松丹楓おふし。晩秋の頃池水に映じて錦をあらふがごとく奇観たり」
に刺激を受けたのだろうと述べています。そして絵の左下の茶屋で写生をしている人物を広重と重ねています。
現地は春ですが、境内には生まれたときから赤いモミジが二本、紅葉していました。
さて、隅田川の東岸は以上にて終了。ここでちょっと休憩です。桜もちをいただきましょう。桜もちは関東と関西で異なりますが、関東のそれの発祥はこの長命寺桜もちとされます。皮は小麦粉の薄皮で白っぽく、平べったい形をしています。
一方の関西風は道明寺と呼ばれ、蒸したもち米を干して粗く挽いた道明寺粉で包まれています。色は桜色。丸いです。ロールケーキみたいなふわふわのピンク色の皮のものもありますが、あれは何風なのでしょうか。まあ、いずれも中に餡子が入り、塩漬けされた桜の葉っぱで包まれていることだけは共通していますね。
隅田川の人道橋の桜橋を渡ります。
さすがの隅田川。これまで見てきた運河とは規模が全く違います。
隅田川の右岸を北上して行くと、先に白鬚橋が見えてきます。白鬚橋が架かるまで、そこには橋場の渡しがありました。
そしてその少し南の右岸、今戸河岸には瓦などを焼く窯があったそうです。絵ではその窯からもくもくと煙が上がっています。遠景はおなじみの筑波山。対岸の森は水神社の森で、その手前に行き交う船が橋場の渡しです。右上に見えるピンク色は墨堤の桜でしょう。
ヘンリー・スミス(前掲書)によれば川面に浮かぶのは都鳥と呼ばれたユリカモメで、このあたりが都鳥の名所であり、その名声は10世紀の伊勢物語に遡ると紹介しています。
名にしおはば いざこと問はむ みやこどり 我が思う人は ありやなしやと --在原業平--
ユリカモメは渡り鳥で夏になる前にシベリアに旅立ちます。
さて、今戸からはやってきた道を引き返し、隅田公園の梅と旧中川の河津桜/名所江戸百景8で紹介した待乳山聖天宮の前をかすめ、
浅草六丁目に入ります。ここは江戸時代の終わり頃には猿若町(さるわかまち)と呼ばれ、幕府からお墨付きを与えられた芝居小屋三座があったところでした。
1841年(天保12年)の火災で多くの芝居小屋があった一帯が消失すると、天保の改革を行っていた水野忠邦は芝居小屋を廃止しようと考えましたが、遠山の金さんらの反対により、当時遊興の地であった吉原の近くに移転させることで決着しました。それまでここは聖天町(しょうでんちょう)と呼ばれていましたが、江戸歌舞伎の祖とされる初代中村座座長の猿若勘三郎(初代中村勘三郎)の名に因んで猿若町と改名されたそうです。
絵の雰囲気は独特です。満月に深い青の空、人々が行き交う通りに人の影。芝居小屋と茶屋から漏れる明かり。しかし芝居の興行が行われている時の賑やかさはこの絵にはありません。ヘンリー・スミス(前掲書)は、この絵が描かれたのは台風で三座が被害を受け、休業中であった八月の満月の夜ではないかと述べています。そうでないとしても、当時の芝居興行は日中に限られていたそうですから絵の時刻には芝居小屋は閉まっていることになります。画面右手には屋根に幕府公認を示す櫓が上がる江戸三座の中村座・市村座・森田座が並び、左手には茶屋が描かれてます。茶屋の間にはここでは描かれていませんが操人形の薩摩座と結城座があったそうです。通りの真ん中に見える逆台形の行灯には『寿し』とあります。まん丸のお月さまには『あてなしぼかし』による雲がうっすらとかかっています。
さて、この絵をじっくり眺めると何かに気付きませんか。この絵はヴァン・ゴッホが所有した名所江戸百景13点のうちの一つであり、『夜のカフェテラス』はこの絵を参考にしたのではないかという説があります。ゴッホが名所江戸百景のうちの何点かを模写していたことは良く知られていますが、西洋の伝統的な透視図法をあえてねじ曲げたような絵を描いているのは、浮世絵の影響なのかもしれません。
芝居見物をしたらいよいよ吉原です。吉原遊郭ははじめは現在の日本橋人形町にありましたが、明暦の大火(1657年)の後に浅草寺裏に移転させられましました。前者を元吉原、後者を新吉原といいます。
当時新吉原のあたりは田圃が広がるばかりのところでした。二年後の1620年(元和六年)に幕府による荒川をはじめとする治水事業の一つとして、待乳山を崩した土で今戸橋(現今戸橋交差点付近)から北西方向の箕輪浄閑寺にかけ、距離にして13町(約1.4km)の堤防が築かれました。これが日本堤で、山谷堀はこの土手の北側にありました。ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、日本堤の日本は「二本」という意味だったらしく、一本は隅田川の堤で、もう一本がこの日本堤だと。
堤にはよしず張りの編笠茶屋がたくさん並んでいます。編笠茶屋は顔を隠すための編笠を貸したり、遊郭が初めての客に手引きをしたりするところで、多くの客がこうしたところで斡旋してもらい、食事や宴会をしてから登楼したそうです。遠方に見える家並みが吉原遊郭でしょう。吉原に向かうには山谷堀を舟で行ってもよし、日本堤を歩いて行ってもよし。もちろん駕篭に乗って行くもよし。右手に見える柳は『見返り柳』と呼ばれたもので、吉原をあとにした朝帰りの客が名残惜しんで『見返る』ところだと。
現在堤はなく、土手通りとしてその線形だけが残っています。
日本堤を行くとそれに直行する道に出ます。現在の吉原大門交差点です。この角にあるのが上の絵の『見返り柳』です。ここを西へ向かえば衣紋坂(えもんざか)で、これを下って行くと吉原遊郭の入口である大門(おおもん)に出ます。
衣紋坂から大門までは五十間道と呼ばれるS字カーブを描く道です。これは将軍や大名などに遊郭を見せないようにするためとも、登楼の様子を外から見られないようにするためとも言われています。衣紋坂から五十間道の両側には引手茶屋や小料理屋などが並んでおり、遊郭へ向かう客はここでみな衣紋をつくろったとされます。
大門は遊郭への唯一の出入口で、遊郭の周囲は『お歯黒どぶ』と呼ばれた二間の堀が巡られていました。これはもちろん遊女を脱走させないためです。大門をくぐると真っすぐ延びる『仲ノ町通り』で、両脇には客を遊女屋に紹介する引手茶屋が並びます。仲ノ町通りに直行して何本かの道がありましたが、大門に近いところに『大見世』と呼ばれる老舗が並んでいました。
『廓中東雲(かくちゅうしののめ)』をヘンリー・スミス(前掲書)は名所江戸百景の中で最も摺りの美しいものの一つであり、えもいわれぬ情感があるとしています。時間的にも空間的にも移り変わる境目であり、時は春のあけぼの。場所は遊郭の入口の冠木門。
吉原の桜はそれが満開の時期だけ目抜き通りに植えられるもので、すぐに取り払われました。美しい時だけを見せる。絵で桜が植わるのは仲ノ町通りで、左に進むと大門。有名な花魁道中が行われた通りです。冠木門は角町(すみちょう)の通りらしく、画題の東雲である明け方の赤い色がわずかに空に映っています。帰る男と見送る女。夜明けは情を交わす2人の分かれの時という連想が働くと。
吉原遊郭は田圃の中に造られたのでどのような向きでも可能だったはずですが、地図で見ると区画の四隅が東西南北となっています。これは床をとったときに北枕にならないための配慮だそうです。周囲の景色はこの絵の窓の外のようなものでした。
西に富士山。たそがれ時で空が赤く染まっています。雁もねぐらに帰るようです。よく見れば田圃の中を人がぞろぞろ。『おとりさま』と呼ばれる鷲大明神(現鷲神社)の酉の町(とりのまち=酉の祭を短くしたもの、現酉の市)に詣でる人々で、熊手を買って担いで帰っているようです。鷲大明神は画面の右にあります。
鷲大明神の祭神は天日鷲神(あめのひわしのかみ)で、仏教の妙見菩薩が鷲に乗ずる体相をしています。妙見は『優れた視力』の意であることから、ここは妙見と習合したことで特に芸人の信仰を集めたそうです。そして、鷲→酉→取り と転じ、水商売の人々の人気を集めていきました。熊手は金を『かき込める』という願いからだそうです。
酉の祭の日は吉原でも特別な日で、郭の門はすべて開かれ、通常は出入り禁止の女たちも自由に出入りできたそうです。そして遊女はというと、この日は必ず客を取らねばならなかったそうです。
絵は吉原の妓楼の階上。ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、中程度の部屋持ち身分の妓女の部屋で客は帰ったあと。見えるのは、客が買ってきた熊手の簪、出窓に置かれている口をすすぐための茶碗と手拭い、屏風の陰に御事紙(ティッシュペーパー)。
窓を開け放ち、空気を入れ替え、ほっとして休憩しているのだろうと。窓の下の雀の図柄は『吉原雀』を表しているのだろうといいます。吉原雀とは、吉原の内情に詳しい人、あるいは冷やかし客のこと。超然と、そして優雅に座っている猫は『きめ出し』という技法で立体的にふっくらと仕上げられています。
面白いことに『冷やかし』という言葉はこの吉原で生まれたものだそうです。元々は、登楼しないのに遊女を見てまわることでした。山谷堀では一度使われた和紙を溶かして浅草紙(再生紙)を作る作業が行われていましたが、墨を洗い落とすために長時間浸す必要があったそうです。紙を『冷やし』ている間に吉原を覗きに行ったことから、『冷やかし』という言葉が生まれたという説があります。ちなみに先ほど通ったところに紙洗橋という名の橋の名残がありました。
ちょっと駆け足ぎみでしたが、なんとか19景を廻りました。しかし、半分くらいに押さえて、周辺の関連箇所を巡った方がそれぞれの場所の印象が強くなったかなと、ちょっと反省しています。
さて最後に、冒頭に訪れた湯島天神からかつて見えた不忍池に立ち寄ってから帰るとしましょう。この日、不忍池の都鳥(ユリカモメ)はすでにシベリア方面に旅立ったあとで一羽も見られなかったので、それがまだいた数日前の写真をここに載せておきます。