温泉宿の朝は、もちろん露天風呂。最高ですね~
ちなみに女性のお風呂は露天といっても半屋外なので、男性の方が雰囲気がいいねえ、と写真を見て羨ましがるサリーナ。
今日は約50kmでほぼ平地なのでゆっくり出発です。朝食を終えコーヒーを飲んでのんびりしていると、何と雪が降り出してきました。
宿の前はうっすら積もってきたようで、これでいったい走れるのかと心配になります。
ともかく出発準備を整えて9時過ぎに外に出てみると、雪は止んでおり、地面にもほとんど積もっていません。よかった~
少し高台になった宿の前、田んぼと隈戸川を背景に『じゃあ、しゅっぱ~つ!』とサイダー。
道路では、端の方には雪が少し残るものの、車道は概ねOKです。
凍っているところもありそうなので、慎重に走りましょう。
隈戸川に沿って進んだら、県道58号を横切り高速道路をくぐった後でダートになりました。凍った轍の跡を避けながら通ります。
『きゃあ、サイダー道!』と叫ぶサリーナですが、サリーナ自身が作ったルートでした(笑)
隈戸川を離れ、しばらく走ったところに釜池がありました。
大きな池ではありませんが、よく見るとたくさんのカモの他に白鳥も泳いでいます。思わぬ出会いに、何だか得した気分。
泉崎村に入り、南下してさらに田園地帯を走ります。周囲の田畑は雪が残っているところもあります。天気は晴れたり曇ったり。
さつき公園にやってきました。陸上競技場や野球場があり、また泉崎国際サイクルスタジアムという国際的な設計基準を満たした自転車競技場もあります。
さて、その先の交差点手前にあるのが『泉崎横穴』。6世紀頃につくられた横穴式装飾古墳です。石室の中には人物や馬、渦巻などの紋様が朱色で描かれており、東北での発見は珍しく国史跡に指定されています。中は見られず看板のみ確認。
さらに南へ。県道75号を渡り、小さな丘を越えます。空はやや暗くなり、チラホラと白いものも舞ってきました。
そして、関和久官衙遺跡(せきわくかんがいせき)に到着。これは7世紀頃から250年間にわたり古代白河郡(現在の福島県南地方と石川町の一部)を統治していた白河郡役所跡で、正倉院や舘院とよばれる役所施設の一部が見つかっているそうです。
遺跡の看板の横、塀で囲まれたところに入るも、古代遺跡ではなさそう。『ここは何だろう?』と佇むサリーナ。ここは実は『大網本廟跡』。浄土真宗の開祖親鸞上人の孫『如信上人』のお墓だそうです。
関和久官衙遺跡の建物跡などは保存のため地表下に埋められ、今後の調査を待っているのだとか。
古代遺跡の見学は、残念ながら今後の整備待ちということですね。遺跡を出るとすぐに、昨日ずっと一緒に走った阿武隈川にかかる橋を渡りますが、うっかりして写真なし。
川を渡ると白河市。そして、その後は丘を越えて白河の関を目指します。
久しぶりの上り坂でハヒハヒしましたが、上って下れば広々とした平地に出てきました。
遠くに小山が見える景色もいい感じ。
そして平地の真ん中を通るこの道、いかにもサイクリング用で快適です。
空には少し晴れ間も見えてきて、『いいね、いいね~』と疾走するサイダー。
この道は、阿武隈川支流の社川(やしろがわ)沿いにつくられた道。社川は白河の関まで続いています。
ところで小さな川に見えますが、社川は昔(5~6万年前!)は阿武隈川の本流だったのだそうです。昔の阿武隈川は、今より南東側に大きく膨らんで流れていたようです。
その社川の上流方向を見れば、写真では見にくいですが、小山の遥か先に白い雪を被った山々が見えました。
あれは、阿武隈川の源流のある那須連山でしょう。
私たちは社川と並行して、集落を繋ぐ県道280号を走ります。
その最初の集落に入る手前で真っ直ぐに伸びる不思議な細い道を発見。これはバス専用道路でした。『一般車・人は通行禁止』と看板があり、自転車もダメ。
この道路、実はかつては『白棚鉄道』という白河駅と磐城棚倉駅を結ぶ総延長23kmほどの鉄道路線だったそうです。1944年に鉄道の運行が休止となり、その後1957年にバス専用道となったとか。
県道280号は緩やかに蛇行しながら通り、ときどき神社や寺院の入口もあって歴史を感じさせます。
少し進むと『和泉式部庵跡』があります。平安時代の歌人・和泉式部は曲木(福島県石川町)の荘司、安田兵衛国康の娘として生まれ、京に上って紫式部、清少納言と並び称される歌人となります。ある時、父が重病と聞き白河の関まてやって来たものの、当時ここで争乱が起こっていたためこの地に留まり庵を結んだそうな。結局故郷には帰れず京都に戻ったそうです。
道の脇に石塔も見られます。
『子待塔』と書いてあり、『ねまちとう』と読みます。これは大黒天を本尊として、豊作や金銭に不自由しないなどのご利益を願い、大黒の使いであるネズミ(子)に因んで干支の甲子または子の日に夜遅くまで起きて精進供養(祭祀)する『子待』の供養に建てられるものだそう。
ここにも石塔群。左の2つは『二十三夜塔』と書いてあるようです。
こちらは月を信仰するもので、二十三夜の夜に講の仲間が集まり、飲食し経を唱えて月を拝み、悪霊を追い払う行事に集まった人々が建てたものらしい。庚申塔は知っていましたが、他にもいろいろあるんですね。
関ノ里という集落に来ました。
そろそろ白河の関に近づいてきたようです。
ここにも、お地蔵様の前にたくさんの石塔群。
二十三夜塔、甲子大黒尊、馬頭観世音、などと書かれています。
その石塔群の斜め向かいに、『白河の関跡』がありました。到着~!(TOP写真も)
ここは白河神社の境内で、その神社への階段前の狛犬の脇に『白河の関跡』の碑が見えます。
さらにその右側に目を転じてみれば、『古関蹟(こかんせき)』の碑がありました。
白河の関は5世紀頃に設置され、平安時代には軍事的要衝としての機能はなくなり、歌枕としての存在となりました。その後、その遺構は失われ正確な場所もわからなくなったそうですが、白河藩主の松平定信が文献考証の末、1800年に『白河神社の場所が白河の関である』と断定してここに古関蹟の碑を建立したそうです。
では、早速白河神社にお参りを。
杉の木に囲まれた参道の階段を行こうとするも、石畳は雪が残っていて滑りやすい。そろそろと気をつけて歩いて行きます。右の蔦の絡まりは迫力ありますね。。
階段をほぼ上り終えたところにも、年月を感じさせる狛犬さんが鎮座していました。
神社の拝殿に到着。杉の木立の中に佇む静かな神社です。
ところで今年の夏、甲子園の全国高校野球選手権大会(夏の甲子園)で仙台育英高校が優勝し、『初めて深紅の大優勝旗が白河の関を越えた』と報道されたのは記憶に新しいですね。その時期は報道陣や喜びに沸く東北の人々で、神社は大フィーバーだったとか。
この神社の宮司さん、実は25年ほど前から東北6県の甲子園出場校に優勝旗を持って白河の関を越えてもらえるよう、白河の関の通行手形を送り続けてきたそうです。
夢が叶ってよかったですね。サリーナも夢が叶うようにと、静かにお祈りします。
お参りを終えたら、神社のもう少し先へと進みます。
こちらには江戸時代の白河関所跡があり、『白河関の森公園』として整備されています。入口には、奥の細道の旅でこの関を通った松尾芭蕉と曾良の像。
子どもの遊具があるエリアの奥に、江戸期の関所の雰囲気を再現した建物があります。提灯や刺又が飾ってありますが、展示はちょっと寂しい。
浜名湖の近くにある『新居関跡』の方が迫力あったなあ、とサイダー。まあ、白河の関は江戸時代後期には場所もわからなくなっていたそうですから、復元も難しいのかもしれません。
その奥のちょっと高いところにあるのは『ふるさとの家』。白河地方の直家(すごや)造り(長方形の平面を持つ造り)の茅葺古民家を移築したものだそうです。
残念ながらこの日は閉まっていました。
白河関の森公園の入口前にある売店の中で一休み。持ってきたおにぎりを食べて一服したら、午後のスタートです。
社川に沿ってしばらく北上し、県道78号で南湖公園へと向かいます。日差しは少し出てきたけれど、寒いのなんの。
昼食はおにぎりで終わりのはずでしたが、体が冷えて冷えて、とても走れません。とにかくあったかいものを。。と蕎麦屋に立ち寄ることにしました。
南湖公園のすぐそばにお蕎麦屋さんを見つけて、温かいお蕎麦をいただき元気回復。
南湖公園にやってきました。湖面には雪が積もり、湖を黒く取り囲む木々の向こうには、白い頂の那須連山。
日本最古の公園と言われる南湖公園は、さすがに素晴らしい雰囲気です。
南湖神社の入口脇を通り、南湖森林公園へ向かいます。公園を抜けて白河市の中心部に出ようというルートです。
ところでこの南湖神社は大正11年(1922年)に渋沢栄一が創建したそうです。知らなかった~
少し上ったところに南湖森林公園の入口があり、そこからは勾配のきつい上り。
うわ~、上れるかな。でも距離はそんなにないので押して上ればいいよね、と言っていたら。。
車は入らず、人もほとんど通らない公園の山道です。程なくこのような雪景色になってしまいました。
こりゃ押すのも無理だわ~、とあえなく撤退。南湖まで戻り、車の通る一般道を市の中心部へと向かいます。
そして市の中心部、市役所の近くに白河ハリストス正教会があります。
ギリシャ正教の教会である白河ハリストス正教会は、1878年に発足。この聖堂は1915年竣工したもので、聖堂と内部の絵画は県の重要文化財に指定されています。内部の見学は事前予約が必要で、私たちは外観のみ。
続いて白河駅方面へ。
途中で通ったこの道は旧奥州街道です。漆喰壁の町家もみられ、街道の雰囲気が少し残っているようです。
白河駅に着きました。三角に突き出た屋根と壁面の模様がかわいい。
このレトロな駅舎は大正10年(1921年)に改築された2代目の木造駅舎だそうです。2009年には、この雰囲気を活かして駅舎内に『えきかふぇSHIRAKAWA』がオープンしたとのこと。
線路を潜って白河駅のちょうど裏手にあるのが、白河小峰城跡です。この場所は小峰ヶ岡という丘陵で、1340年に結城親朝がここに築城して小峰城と名づけたのが城の始まりだそうです。その後会津領となり、丹羽長重が1629年より3年をかけてお城を改修し完成させたとか。
南にある駐車場側から入っていくと、まず芝生の城址公園を通ります。
この城は総石垣造り、東北地方では珍しいそうです。東日本大震災では10箇所の石垣が崩落しましたが、その後8年をかけて伝統工法で復元されています。
石垣が見事なお堀を渡り、清水門跡へ。
清水門から階段を上って前御門、そして三重櫓を見上げます。
白河小峰城は戊辰戦争で焼失し、これらの建物は復元ですが、絵図などの歴史資料や発掘調査成果を元に厳密に再現されたもので、木造でつくられています。
三重櫓は1991年の復元。小ぶりなお城ですが、白壁と黒い屋根が美しく気品がありますね。
それまでの城の復元といえば、鉄筋コンクリート造の外観のみの復元でした。この三重櫓は天守に相当する建物の木造での復元としては最初のものだそうで、建築基準法では原則禁止されていたはずですが、よく復元したと拍手を贈りたくなります。
三重櫓の中に入ってみましょう。
木の柱が林立し白壁をつなぎ、板張りの床。30年前の建物とは思えない美しさです。お城にしては新しいですけどね。
その床や柱に、いくつか穴が見られます。これは、復元に使った杉が戊辰戦争の激戦地となった『稲荷山』のもので、戊辰戦争の際に杉の木に打ち込まれた弾丸の跡なんだそう。
2階、3階へと上っていきます。
見上げると幾重にも重なる木組みが迫力もあり、また木の持つ穏やかさ、温かさも感じます。
また、石落としや狭間(さま)といった防御のための仕掛けもあります。
最上階の鉄砲用の狭間から城址公園を覗きます。
『白河小峰城、なかなか良かったね~』ということで、自転車でお城の回りをぐるりと回ります。
小峰城の北側の濠は阿武隈川の旧流路を利用したものだそうで、濠の幅は広く、そこに聳える石垣も見事です。
お城から新幹線の新白河駅までは3kmほど。16時ピッタリ、予定通りに到着です。ここにも芭蕉翁がいらっしゃったので、サリーナと記念撮影。
今回の郡山から白河の旅、ちょっと寒かったけど、歴史を感じながらのんびり走るにはいいコースでした。