明日は新春恒例の房総半島で水仙を眺める企画なのですが、これは早朝出発なので寝坊助にはきつい。そこでコロナウイルス感染症関連の観光需要喚起策である全国旅行支援を使って前泊し、鋸山(のこぎりやま)に登ろうということになりました。
鋸山は標高329mの低山で、山としては際立ったものはないと思いますが、ここは江戸時代中期から採石が行なわれ、そのため稜線がギザギザになりました。このギザギザ山は当時から東京湾に入る船の目印となったそうです。今日は採石は行われていませんが、もの凄いスケールの石切り場の跡が見られます。またここには725年開山だという日本寺(にほんじ)があり、観光名所となっている『地獄のぞき』があり、石仏では日本一の大きさだという薬師瑠璃光如来の大仏が鎮座しています。
レイナ、サリーナ、サイダーの3名は都心から総武線で千葉方面へ向かいました。この車窓からはきれいな富士山が見えました。錦糸町駅で乗り換えた総武線快速列車は千葉駅に到着しましたが、停車したままなかなか出発しません。この列車は乗り換えなしに君津駅まで行くはずなのですが、そのうち車内放送でこれは東京方面行きという案内が。えっ!・・・ どうなってんの? それはともかく慌てて下車し次の列車を検索すると、目的地の浜金谷駅(はまかなやえき)到着は予定より1時間も遅れてしまうことが判明。あちゃ〜〜
マコリンに慌てて連絡し、昼飯処の調査を依頼しました。そのころマコリンは一人、久里浜港からフェリーに乗り、浦賀水道を金谷港へ向かっていたのです。
久里浜港から金谷港までは11.5kmで40分と意外と近く、去り行く三浦半島や向かう房総半島を眺めているとあっという間に金谷港に到着します。
10時過ぎ、予定通りに金谷港に着いたマコリンは、乗って来たフェリーをカメラに収めると、アジフライで有名な『さすけ食堂』へ。
さすけ食堂が見え出すと、えっ、もう行列? まだ10時過ぎだと言うのに・・・ とびっくり仰天のマコリンでした。
しかし東京組の到着は1時間後なので、気を取り直して名簿に記名し、周辺の散策へ出かけたのでした。
東京組の到着までまだだいぶあるので、マコリンは金谷のまちをうろうろ。
少し高台に上ると金谷港がよく見えます。奥には久里浜港から乗ってきたフェリーの乗り場が、手前には漁港が見えます。
マコリンが金谷のまちを散策しているころ東京組はようやく木更津駅に到着し、列車の乗り換えをしているのでした。
そして11時過ぎに浜金谷駅に到着。
速攻で自転車を組み立て、マコリンが待つさすけ食堂へ向かいました。
さすけ食堂は浜金谷駅のすぐ前を通るR127沿いにあり、1分で到着。店の前でマコリンが手を振って出迎えてくれました。
マコリンの記名順番は38番ですが、ここはだいぶ早くから開店しておりすでに28番まで進んでいるので、しばらく待ってみることにしました。そのうち店のおばちゃんが注文を取りにやってきました。席に着いたらすぐに食事を提供できるようにするためのようです。
到着から15分ほどで入店できて、それぞれがオーダーしたものが即座に提供されました。
サリーナとレイナは定番の鯵フライ定食、マコリンとサイダーは鯵フライに鯵の刺身が付いた『さすけ定食』です。
この鯵フライには黄金アジと呼ばれる身の厚い鯵が使われており、柔らかくふっくらしています。鯵フライ定食はこれが5切れ、さすけ定食には3切れ付きます。鯵の刺身も同様に黄金アジで、これまたこれまでに食べたことのないしっかりとした身で、この二品は鯵の概念が変わるほどのおいしさでした。
1時間の遅れがこんなおいしい昼食にありつくことになろうとは予想だにしなかったことです。これはとにかくマコリンに感謝。
鯵を堪能したらいよいよ鋸山へ向かうのですが、その前に本日の宿に荷物を預けに行きます。
海岸道路のR127は路肩が狭く、車が多いのでちょっと注意が必要ですね。
さすけ食堂で順番を待っている間に眺めたギザギザ頭の鋸山です。
群馬県の妙義山もあんなふうにギザギザでこぼこですが、あの山はほとんどが溶岩体なのに対し、この鋸山は凝灰岩でできています。
本日お世話になるのは江戸時代末期の1854年(安政元年)創業という『かぢや旅館』。この旅館はかつては鋸山の石職人が使う道具の製造や修理をする鍛冶屋だったそうですが、石船が金谷と江戸・横浜を行き来していたため宿泊施設が必要とされたことから転業されたそうです。
かぢや旅館に荷を解いて、ここからは徒歩で鋸山のロープウェイ乗り場に向かいます。
国道に出ているロープウェイ乗り場の看板を入るとすぐ、金谷神社があります。金谷はかつては石材とともに砂鉄の産地でもあったようで、この神社は石材業とともに野鍛冶の信仰が厚く、鐡尊様(てっそんさま)とも呼ばれているそうです。
ここには1469年に海中より引き上げられたという、直径1.6mで重量が1.57tもある大鏡鉄(だいきょうてつ)なるものがあります。これは砂鉄を原料とし、たたら(砂鉄製練炉)によって制作されたものらしく、製塩に使う鍋と推測されています。この鉄の塊は錆びないため信仰の対象となり、鐡尊様になったというわけです。
金谷神社の角を入るとすぐに鋸山ロープウェーの山麓駅に到着。
鋸山へはもちろん歩いても登れますが、今日は時間がないのと、この上りはかなりきついとのことなのでロープウェイに乗ることにしたのです。
ロープウェイ乗り場の駐車場は満車だったのでこの時はかなりの人出のようでしたが、通常は15分間隔の運行をピストン輸送にしていたので、すぐに乗車できました。
乗り込むとあっという間に高度を上げて行くロープウェイ。この車窓からは金谷港と浦賀水道がよく見えます。浦賀水道をこちらへ向かっているのはマコリンが朝乗ってきた東京湾フェリーです。その浦賀水道の向こうに見えるのは三浦半島。浜金谷駅に到着した時は青空が広がっていましたが、かなり雲が出てきて総武線から見えた富士山の姿は今はありません。残念。
横を見れば、木々で覆われた山の中に凝灰岩があちこちに顔を覗かせています。こうしたところはかつてはみんな石切り場だったのでしょうか。中には近年の地震で崩落したところもありそうです。
船底型の地質構造である向斜構造の軸部にあたる鋸山の竹岡層と呼ばれる地層は周辺部より粗い凝灰質砂岩からなるため、侵食速度が遅く東西に伸びる丘陵を作ったのです。
ロープウェイは僅か5分ほどで山頂駅に到着。
山頂駅内には石切り資料コーナーがあり、主に江戸時代以降の鋸山の採石の様子が分かるようになっています。
房総半島中南部から切り出された石は房州石と呼ばれますが、鋸山のそれはその中でも最良品とされ金谷石と呼ばれます。
その金谷石は当時はこのような手動の道具で切り出されていたのです。そしてこうした道具の製造や修理をしていた鍛冶屋の一つが私たちが泊まるかぢや旅館の先祖だったというわけですね。
石切り資料コーナーで採石の学習をしたら、ロープウェイ山頂駅を出ます。するとそこは展望台で、先ほど見た浦賀水道方面がより高所から眺められます。
ん〜〜ん、地球がちょっとま〜るく見えるかな〜
この展望台のすぐ横に『鋸山山頂』の看板があります。お〜、ここが鋸山の山頂だ〜と記念の一枚を。
ところがよく調べて見ると、一等三角点が設置された地図上の山頂は実はここから1kmほど東に行ったところだそうです。な〜んだ。。。
ともかくも鋸山の山頂に立ったつもりになったら、日本寺の西口管理所へ向かい、そこから地獄を目指します。
ここは山なので平場はなし。このあとはアップダウンの連続となります。
日本寺はかなり広く、その境内は33万㎡もあるとか。西口管理所のすぐ先には十州一覧台という展望台があるのですが、そこまではかなり階段を上らなければならないので、これはパス。(笑) 百尺観音への分かれ道を左に見て階段を上って行くと、
おっ、でた〜〜!
絶壁の頂部に僅かな厚みを残して突き出た岩。あれが『地獄のぞき』だ!
あたし、行ってきまーす! と地獄を覗きに飛び出して行ったのは我らがマコリンでした。
他のメンバーは高所恐怖症のためカメラ班に。(笑)
『地獄のぞき』の先端に達したマコリンはそこで、ヤッホー! この方は山ガールなのでした。
それを撮影したサリーナは、上から写真を撮るだけでも怖かったとのこと。いや〜、2人ともお疲れさまでした。
地獄の景色!
『地獄のぞき』の先にはそれとほとんどそっくりな『第2地獄のぞき』とでも言うべきところがありました。
こちらの下はどうなっているのかな、、、
『第2地獄のぞき』から身を乗り出すマコリン。いや〜、これ、横から見ているだけで怖いよ〜
マコリンが身を乗り出したあたりはどうなっているのかというと、だいたいこんなふうです。上空では一羽の鳶が輪を描いて上昇し続けています。
ここはまるでベネデッタが大好きな昼のドラマに出てくる殺人現場のようです。『地獄のぞき連続殺人事件…鳶は見ていた!』(笑)
地獄の反対側は保田の海岸。
保田の先は凹凸の激しい海岸線が続きます。これぞ房総という景色ですね。
180°の海の展望を楽しんだら、これより千五百羅漢道に入ります。
千五百羅漢道ではその名の通りにたくさんの羅漢像を見ることができます。これらの石仏群は江戸時代の後期に奉納されたもので、大野甚五郎がその門弟27名とともに生涯をかけて刻んだものとのこと。その数は何と1,553体あるそうです。
羅漢とは阿羅漢の略称で、阿羅漢は仏教において最高の悟りを得た、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のことだそうです。この境地に達すると迷いの輪廻から脱して涅槃に至ることができると言われています。まあ簡単に言うと、悟りをひらいたえらいお坊さんですね。
しかし羅漢像は苦悩の表情を浮かべているものが多いように思います。これってまだ悟りをひらくまでいたっていないんじゃあ… それはともかく、ここの羅漢像には首がないものが多く見られます。こうしたものの多くは廃仏毀釈によって首を落とされたものだそうです。
この羅漢像を見て気になったのですが、彫られた石はこの周辺のものとは明らかに異なります。なんと羅漢像に使われた石材はわざわざ伊豆から運んだ伊豆石なのだそうです。鋸山の石は砂岩なので加工はしやすいですが風化しやすいため、より長持する安山岩が使われたのでしょう。おそらくこれらは小松石だと思います。
これらの羅漢像は上部がせり出した窪みや風穴に安置されています。
この上部の岩は浸食によってできた凹凸と模様が芸術的です。
日本寺の境内は地獄のぞきがある瑠璃光展望台が最高所で、千五百羅漢道はそこから階段で徐々に下って行きます。
うちのじーちゃんがいる!(笑)
徐々にと言ってもそこら中階段だらけで、しかもかなりの勾配です。
『これは修行道だね〜』 と、早くも足に来ているサイダーでした。
これはぽつんと一体だけ置かれた石仏。
緑色の衣を纏っています。
観音さまがいっぱい。
その上は落っこちそうな岩!
下には地面を覆う木の根っこ。
石仏を彫り続けた大野甚五郎の墓だそうです。甚五郎は木更津櫻井の出身。
この祠には人の手は入っているようです。
日牌堂(にっぱいどう)は明らかに人の手によって作られたものでしょう。
東西を問わず、こういった岩を見ると人は祠を作りたくなるようです。
見上げれば凝灰質砂岩の壁! 砂岩ですから浸食が著しく、その跡がはっきりわかります。
維摩窟、聖徳太子像、弘法大師護摩窟と進むと千五百羅漢道はおしまいとなり、大仏さまへ向かいます。ここでようやく道は平坦に。
これが日本寺の本尊である薬師瑠璃光如来の大仏さま。薬師瑠璃光如来は左手に薬壷を持っていらっしゃるのですぐに見分けが付きます。
この大仏さまは総高31.05m。座高は21.3mで、奈良の大仏の16.2m、鎌倉の大仏の10.6mと比べてもかなり大きいことがわかります。石仏では日本一の大きさだそうです。
大仏さまを見上げたら、薬師本殿、頼朝蘇鉄と巡り、北口管理所へ向かいます。
北口管理所は瑠璃光展望台の近くなので、ここからはずっと上り。
延々と上って西口管理所まで戻り、再び瑠璃光展望台への道を行き、百尺観音方面へ向かいます。
すると両側に切り立った岩壁が現れます。
ここは石切り場跡でしょう。いや、切り通しかもしれません。両側ともほぼ垂直にきれいに削り取られています。
その先にあの地獄のぞきが見えてきました。
地獄のぞきは下から見上げるとこんなふうになっているのですね。
横の壁にひびが入っているのが見えますが、こんなものが地獄のぞきのところにあったら一大事ですね。私が那須へ行った時、有名な殺生石がまっ二つに割れましたよ。 お〜怖!
切り立った壁が開くと、そこには百尺観音が彫られています。
熊野の磨崖仏、バーミヤンの石仏、ラシュモア山の4人の大統領など、場所や宗教などは異なれど、こうした岩壁を見ると人は像を作りたくなるようです。
百尺観音で日本寺の見学は終了。北口管理所を出て金谷へ下ります。
この下山道からはなかなか凄いものが見られます。
石切り場跡の通称『ラピュタの壁』。高さ100m!
このあと下山道は二手に分かれます。一方は『関東ふれあいの道』を行くもので、もう一方は鋸山の山頂へ向かい、途中から切り出した石を運んだ車力道(しゃりみみち)へ入るものです。私たちは後者を通ることにしました。
しばらく進んで行くと、あの『地獄のぞき』がまたまた凄いことになっています。
ここの石は頂部から切り出しが始められ、徐々に下に掘り進んだのだそうです。
1958年(昭和33年)までは手掘りで、その後はチェーンソーが使われました。良く見るとその境目がわかります。
さらに先へ進むと観音洞窟と呼ばれるところに出ます。
観音洞窟の名の由来はここに小さな観音さまが彫られているからです。正面の壁には『万』の字も見えますが、これは万忠という屋号の石屋のマークです。
階段状になっているのは上の石が崩れ落ちないようにという配慮だそう。
昔は経験と感に頼っていたので、こういった採掘場ではしばしば崩落が起こりました。採石場として良く知られた大谷では、ごく最近まであちこちで落っこちました。
山から切り出された石は下界へ運ばれますが、そのためここにはたくさんの切り通しが作られました。ここもその一つです。ここでは切り通しは『口抜き』とも呼ばれたようです。
この切り通しを抜けると水溜まりのような池のようなものがあり、その向こうにまた断崖が迫っています。
帰り道はこの車力道コースをとって大正解でした。
さて、ここからは車力道を下ります。彼方に金谷の先の海が見えてきました。
しばらく下って行くと石畳になり、そこに轍がはっきり残っています。
これは切り出された石材をねこ車に積んで行き来した跡です。
この石材を麓まで下ろす作業は車力と呼ばれる人々によって行なわれましたが、その多くは女性だったそうです。
車力はこの道を1日に3往復したそうですから、当時の女性はかなり力持ちだったのですね。
壁を這う植物はシダでしょう。シダが紅葉するのを見るのはちょっと珍しいです。
そしてこちらは桜。かなり早咲きですね。河津桜かもしれませんが、それより少し赤みが強い品種のような気がします。
あ〜、春はもうすぐ!
上りはロープウェイだったのであっという間でしたが、下りは北口管理所から金谷の宿まで1時間以上掛かりました。あ〜、疲れたぁ〜
かじや旅館に戻りひと風呂浴びたら、魚づくしの夕食をいただきます。鰆、太刀魚、メジマグロ、真鯛の刺身に始まり、鯵は酢味噌和え、白身魚の西京焼、太刀魚のフライ、イカの塩辛、寒フッコ(スズキの出世前の名)のなめろうと続きます。
そして鮑の陶板焼!
鋸山・日本寺はアップダウンがかなりあって疲れましたが、なかなか見応えがあるところで満足です。特に石切り場跡は迫力満点です。行きでも帰りでもいいので、観音洞窟あたりはぜひ巡ってください。
さて、明日は自転車で水仙を眺めに行きます。今年はどんな咲っぷりでしょうか。楽しみです。