昨日、会津若松に入った私たちはその奥座敷と呼ばれる東山温泉に宿を取りました。
宿の下を流れるのは湯川(ゆがわ)で、気持ちのよい水の流れる音が1日響いています。
小さいながらも、滝があちこちに落ちていて、目を楽しませてくれます。
私たちの宿は、巨大な旅館が多い東山温泉の中では一番小さいとも言える有馬屋さん。
おいしい朝食をいただいたら、会津若松の観光に出発します。
東山温泉は会津若松の中心部から2〜3km山側にあるので、まずは中心部まで下ります。
会津若松の見どころはかなり多いですが、やはり会津松平家関係のものが中心になります。私たちはまず御薬園へ向かいました。
御薬園の起こりは室町時代、当時の会津領主だった蘆名盛久が別荘を建てたことによるようです。その後江戸時代に、会津藩2代藩主保科正経が園内に薬草園を作り、3代藩主松平正容が朝鮮人参を試植し、その栽培を民間に広く奨励したことから、御薬園と呼ばれるようになったそうです。
ここにはボランティアのガイドさんがいて、私たちを案内してくださいました。現在の御薬園は大きく二つに分けられます。一つは薬草園で、もう一つは心字池を中心とした庭園です。
まずは薬草園から。
朝鮮人参はここではオタネニンジンという名で栽培されていました。オタネは御種と書き、これは江戸幕府が各藩に種子を分け与えたことからとも。
イブキジャコウソウはタイムの仲間でいい匂いがします。その用途には『発汗、駆風』とあります。駆風とは聞きなれない言葉ですが、どうやら炎症を鎮めることのようで、WEB検索すると喉の薬がたくさん出てきます。
ここには民間療法に使われるものも含め、多くの薬草が育てられています。薬草の多くは有毒植物であることが多く、このオキナグサも、分泌される汁液に触れると皮膚炎を引き起こしたり、食べると、腹痛や嘔吐を引き起こすことがあるそうです。見た目はきれいですが、ちょっとおっかない。
しかし漢方ではこの根を乾燥させたものを白頭翁と呼び、下痢や閉経などに用いられるといいます。
この薔薇は秩父宮妃勢津子殿下(昭和天皇の弟である秩父宮の妃)に捧げれたものでプリンセス・チチブといいます。なぜそれがここにあるのかと言えば、勢津子様は旧名を松平節子といい、松平家の出身だったのです。
上にある写真の重陽閣(ちょうようかく)は勢津子様が婚儀の前に家族と宿泊した東山温泉の新滝別館を移築したものだそう。
さて、薬草園と重陽閣をぐるりとひと回りしたら庭園の方へ行きましょう。この庭園は江戸時代の元禄年間に小堀遠州の流れを汲む目黒浄定(めぐろ じょうてい)により現在見ることができるような庭に改修されました。
心字池の中に浮かぶ楽寿亭は現在は見学に便利なように橋が架けられていますが、元々は橋はなく、向かいに見える御茶屋御殿から舟で渡ったそうです。
楽寿亭は単に殿様が休憩するだけのところというわけではなく、功労のあったものたちを呼んで労う場としても使われたようです。
戊辰戦争では新政府軍の療養所となったため戦火を免れたようですが、当時付けられた刀傷が残っています。
さすがに歴史ある庭園だけあり、こんな巨木が。高野槇のここまで大きいのは見たことがないです。樅の木も日本でここまで大きいのは滅多にないのではないでしょうか。
巨木大好きがベネデッタは木に抱っこしてにんまりでした。
これは御薬園の中に落ちていたものなのですが、さて何でしょう?
ボランティア・ガイドさんによるとこれはムクロジというものだそうで、果実はsoapberryとも呼ばれ、石鹸のかわりになり、種子は羽根つきの羽根の玉に使われるそうです。さっそくこの日サリーナはこの実で靴下を洗濯してみたところ、本当に泡が立ってきれいになったそうです。
御薬園を楽しんだら次はもう一つ松平家関係、というか、会津最大の観光地である鶴ヶ城へ向かいます。
鶴ヶ城は最近は会津若松城とも呼ばれるようですが、私にはその呼び名はピンと来ないので、ここでは鶴ヶ城と呼ばせてもらいます。
この城は14世紀に蘆名直盛が館を築いたのが始まりとされています。16世紀には伊達政宗が蘆名氏を滅ぼし城を手にするのですが、豊臣秀吉に取り上げられます。そして蒲生氏郷が入り、近世城郭に改造するとともに城下町を整備します。1593年(文禄2年)に天守が竣工し、鶴ヶ城となりました。
その後は上杉景勝、蒲生秀行、加藤嘉明が入り、1611年(慶長16年)に起きた会津地震により倒壊した天守を加藤明成が今日見られる層塔型の天守に組み直させました。3代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が入封し、以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となりました。
戊辰戦争では新政府軍の一か月に及ぶ猛攻に耐えた名城でしたが、明治時代に解体され、昭和時代に鉄筋コンクリートで天守閣が再建されました。そしてここのところその天守閣は改修をされていたようで、4月28日にリニューアルオープンしたそうです。
二の丸へ通じる朱塗りの橋は廊下橋といい、加藤明成の大改修まではここが大手口でした。廊下橋の名は葦名時代には屋根のついた廊下造りだったことに由来するといいます。
廊下橋の両側の石垣は長さ130m、高さは20mを超えるもので、『忍者落とし』と呼ばれています。お濠を渡ると天守閣が見えてきます。
このお城の屋根には赤瓦が葺かれています。
当初は一般的な黒い瓦が使われていたそうですが、それは北国の低温や積雪に弱かったため、保科正之が鉄分を多く含んだ釉薬を用いた赤瓦を開発させたのだそうです。
天守閣から南には表門(鉄門)と干飯櫓が延びています。
この位置は追手側から見ると天守閣の裏側に当たるため、戊辰戦争の籠城の際には城内でもっとも安全な場所とされていました。松平容保はこの鉄門の櫓内で指揮を執っていたそうです。
正面は北東で、遠くにあの宝の山と歌われた磐梯山(1,819m)の姿があります。私たちが泊まっている東山温泉は前の写真の右の奥になります。
磐梯山の手前の山の中には白虎隊の自刃の地、飯盛山があり、そこに二重螺旋構造として知られるさざえ堂が立っています。
天守閣内の展示はなかなか興味深いものがあるのですが、全貌を伝えるには紙面が足りませんのでビジュアル的に面白いものを一つだけ。
蒲生氏郷の燕尾形兜です。ダースベーダーですねぇ!
暑い!
本丸内にはかつては様々な建物が立っていました。それらの中に『御三階』という櫓があり、それが立っていた場所に案内板がありました。御三階は1870年(明治3年)に阿弥陀寺に移築され現存するようなので、あとで行ってみることにします。
これは茶室の麟閣(りんかく)というものです。
蒲生氏郷の茶道の師は千利休だったようで、その利休が自害したのち、氏郷はその子の少庵を会津に招き、滞在させました。この茶室はその時に少庵が氏郷のために建てたものとされています。明治時代に城が解体された際に別の場所に移されましたが、現在は元の鶴ヶ城内に戻ってきています。
この屋根は茅葺きの間に檜皮のようなものが挟まれており、たいへん変わっています。
利休は侘び寂びと言われるものを大事にしたことで知られるので、その子の少庵もその流れを汲んでいるのだと思いますが、これもそうしたものに通じるのでしょうか・・・
鶴ヶ城の見学を終えたらちょうど昼時になりました。会津の繁華街は『七日町通り』あたりのようなので、その辺りで昼食にすることとし『野口英世青春通り』に入りました。
野口英世は会津の近くの現在の猪苗代町に生まれ、16歳から19歳頃まで会津で過ごしました。この『野口英世青春通り』はそれにちなんで名付けられたようです。
ベネデッタとレイナのうしろに見える建物は、19世紀後半から20世紀前半に栄えた大商家の福西家の蔵と商家です。大通りに面した店蔵、仏間蔵、炭蔵の3棟の蔵の外壁は黒漆喰塗りです。
福西家の隣には現在は野口英世青春館となっている会津会陽医院跡があります。ここは野口が火傷した左手の手術を受け、医学の道に進むことを決心したところと言われています。
『野口英世青春通り』から『七日町通り』に出ました。七日町は最近は『なのかまち』と呼ばれることも多いようですが、本来は『なぬかまち』のようです。
この通りは越後街道で、米沢街道や下野街道も経由しており、明治時代の初期までは30軒の旅籠があったようです。七日町の名は、毎月七の日に市が立っていたことによるとされ、現在はちょっとレトロな店が立ち並んでいます。
会津の伝統的な食べ物と言えば『こづゆ』や田楽といったものが有名ですが、現在はソースカツ丼か喜多方ラーメンだそうです。喜多方ラーメンは明日喜多方に行くのでそこでいただくとして、みなさんソースカツ丼がいいといいます。ソースカツ丼の起源についてはいくつか説があるようですが、ここ会津もその一つなのだそうです。
そこで、このツアーに参加する予定だったマージコが推薦してくれた『会津よろずや』さんに行ってみました。
この店はレストランというよりまちの駅を標榜するよろず屋さんで、無事に入店。会津のソースカツ丼はごはんの上にたっぷりの千切りキャベツが載っているのが特徴だそう。さくさくのソースカツ丼、いただきま〜す!
入店したときはほとんどお客がいなかったのに、意外と頻繁に客がやって来て、引き上げる時には店先までびっちりで驚き。どういう店だここは?
無事に昼食のソースカツ丼ノルマを果たしたら、御三階がある阿弥陀寺がこのすぐ近くであることがわかったので行ってみることに。
阿弥陀寺はJR只見線の七日町駅の近くにありました。
この寺には戊辰戦争で戦死した1300名の遺骸が埋葬されており。また、新選組三番隊組長であり、その後、明治・大正時代を生きた斎藤一(藤田五郎)の墓があります。
これが鶴ヶ城から移築された御三階で、またこの玄関に見える唐破風は、本丸大書院から同時に移築され転用されたもののようです。
この建物、外観上は三階ですが内部は四層になっており、戊辰戦争の折りには密議の場所として使用されたといわれています。
御三階を眺めたら、次は酒蔵見学といきましょう。
福島県は日本酒の全国新酒鑑評会で金賞銘柄数9年連続日本一の実績を持つ県です。
向かったのは末廣酒造。
ここは嘉永蔵と呼ばれており、その名の通りに創業が嘉永三年(1850年)なのだそうです。
現在の建物は主に明治から大正時代にかけてのものですが、重厚な存在感があります。
主屋の正面にはまだ緑色をした大きな杉玉が吊り下げらています。これが緑色のうちは新酒の季節と言えるでしょう。
この杉玉の横にある入口を入ると、当時の木造建築ではまれに見る巨大な吹き抜けに驚かされます。
末廣酒造では無料で酒蔵が見学できます。酒蔵はこの吹き抜けの奥にあります。
まずは原料の米です。ここにはコシヒカリや山田錦などの米が7種ありますが、現在はこれらのうち6種類が使われているそうです。
この酒蔵では全生産量のうちのごく一部を作っているだけで、メインの工場は別のところにあるそうです。仕込みは冬に行なわれ、この時期は何もやられていないので、一般的な工場見学のように製造現場を見ることはできませんでしたが、古い仕込み道具や解説を聞くことで、なかなか良い時間を過ごせました。
日本酒を作るには、蒸した米、水、麹、酵母、乳酸菌から作られる酒母と呼ばれるものが必要です。この酒母はアルコールを生成するために必要な酵母を大量に培養するためのものですが、酵母はデリケートで雑菌により簡単に死んでしまうため、乳酸により雑菌の繁殖を防ぎます。この乳酸をどのようにして得るかで、酒造りの方法が分類されます。天然の乳酸を使った酒母を生酛(きもと)、人工の乳酸を使った酒母を速醸酛(そくじょうもと)と呼びます。
もっとも古典的な製法である生酛は、酒蔵の中に生息する自然の乳酸菌を使い、さらに山卸(やまおろし)という、簡単に言えば、蒸した米をすりつぶす工程が必須でした。この山卸には大変な労力を必要としたので、米を麹で溶かし、山卸を廃止した山廃酛(山卸廃止酛(やまおろしはいしもと)の略)が考案されました。
末廣酒造では酒蔵見学のあと利酒もさせてもらい、今宵宿でいただく酒を決めたら、白河街道に出て旧滝沢本陣へ向かいます。
白河街道では笊や熊手を置いてある伝統的な雑貨店を発見。楽しい〜
白河街道はこんなふうに真〜っすぐ〜
旧滝沢本陣は街外れの、山の麓にあります。
ここは参勤交代の時や領内を巡視するの際などの殿様の休息所として使われたもので、戊辰戦争の際にも本営となり、白虎隊もここで出陣の命を受けたようです。
本陣とは言ってもここは名主横山家の住宅なので、少し位は高いものの普通の住宅です。
家具調度品は当時のものが展示されているようですが、もう少し整理された方がよろしいかと。
戊辰戦争時はこの本陣でも戦闘が繰り広げられたようで、柱に弾痕が残っています。
弾痕の痛々しさとは正反対に、北向きの庭はひっそり静かな時の流れを感じさせます。
旧滝沢本陣のすぐ近くが白虎隊が命を絶ったことで有名な飯盛山です。
飯盛山へは現在は飯盛山交差点からアプローチするのが一般的ですが、この碑からするとその北にあるこちらが本来の参道のようです。
石の鳥居をくぐるとさらにその奥に朱色の鳥居があり、その先に嚴島神社が立っています。
左手に戸ノ口堰水神社があり、その間に水が流れています。この水流の元は岩壁に開いた穴で戸ノ口堰洞穴といい、猪苗代湖から会津若松に水を運ぶ用水路の一部です。飯盛山を掘り抜いた長さ150mのトンネル。この用水路の着工は1623年ですが、最後に造られた戸ノ口堰洞穴は1835年で、着工から200年もかかってようやくここに水が届いたことになります。
白虎隊士ら二十名は戸ノ口原の戦いで破れると、このトンネルを潜り、 飯盛山の中腹へと至ったそうです。
戸ノ口堰用水は今日も流れ続けており、ここから市中に下り様々な用途に使われていますが、今日の最初に巡った御薬園の庭園の水もこの用水から引かれています。
戸ノ口堰用水が流れる上には、小さいながらもその稀に見る構造で有名なさざえ堂 (円通三匝堂)が立っています。
1796年(寛政8年)建立のこのお堂はかつてあった正宗寺というお寺の住職が考えたものだそうで、2重螺旋のスロープに沿って西国三十三観音像が安置されていたそうです。つまりこのお堂にお参りすれば、三十三観音参りが完了したことになるという、とても便利なところなのです。
さて、それでは私たちも上ってみましょう。入口を入るとまず時計廻りに上って行きますが、階段ではなくスロープです。スロープの床面に滑り止めの木がたくさん打ち付けられています。
壁にはかつて西国三十三観音像があったのであろう窪みがありますが、現在は別の絵が置かれています。観音様を安置する厨子の下には賽銭を入れるところがありますが、これは当然ながら33か所あります。ここで稼がなくてどこで稼ぐんじゃ!ということですが、33か所の賽銭を回収するのは大変なので、投げ込まれた賽銭はダストシュートと同じ構造で下まで落ちる仕掛けになっているようです。この住職、なかなかやりますな!
お堂の真ん中には柱が六本立っていて、そこから四方八方にスロープを支える梁が突き出ています。複雑な形状のさざえ堂を支える梁もまた複雑な形状をしており、途中で折れ曲がっているものもあります。
面白いことに、柱の横のスペースからは180°向こう側にあるスロープが見えます。こちらが上りで向こうが下りですね。
ぐるぐるぐるっと上って行くと、ついにその天辺に辿り着きました。
天井を見ると六角形で、さざえ堂の平面形もまたこの天井と同じく六角形なのがわかります。
それでここからが面白いのですが、普通の建物は下る時は上ってきたスロープなり階段を戻るか、もしくは別の場所にあるそれらまで移動してから下ります。ところがここでは、上ってきたスロープが太鼓橋を越えるとそのまま下りに転じるのです。今度は上ってきた時は逆の反時計廻りで下って行きます。この下りは上りのルートとはまったく別物なので、上ってくる人と出会うことはありません。
しかし一つの建物の中に上りと下りがあるのですから、この下りの床下は上りの天井になっているということになります。スロープの床面に滑り止めの木が打ち付けられていたのは、上階のゴミが下の階に落ちない工夫でもあるのでしょう。
この構造を二重螺旋構造といいますが、良く知られたものではかのレオナルド・ダ・ヴィンチが設計に関わったのではないかと考えられているフランスのシャンボール城(16世紀建造)の階段があります。さざえ堂の受付に佐竹義敦(佐竹曙山/1748年~1785年)がジョゼフ・ モクソン(1627~1700)が描いた二重らせん構造の図を模写した図を掲載した古い新聞記事が張られていました。受付の方の話では、研究者の中にはさざえ堂はこの図を見て建てられたのではないかと考えている方もいるようだとのことでした。ただその研究者は、このさざえ堂について『単なる模倣ではなく天才的な創造と見るべきである』と結んでいました。
さざえ堂の見学を終えたら、会津武家屋敷はパスしてそのすぐ近くにあるネパール博物館を覗こうと思ったのですが、生憎休みだったのでこれで本日は終了。
宿へ引き上げ、温泉でまったり。そのあとは囲炉裏で夕食。
いっただっきまーす!