露天風呂より宝珠山を望む
今日は日本横断磐越の旅の最終日で、新潟県の咲花温泉から阿賀野川、信濃川と繋いで日本海に出、新潟駅まで。
朝、阿賀野川の対岸にある宝珠山を眺めながら露天風呂に浸かります。思えばこの旅は温泉巡りでもありました。
咲花温泉の平左エ門の前で
ひと風呂浴びたらゆっくり朝食をいただき、いざ、日本海へ向けて出発!
平左エ門前の阿賀野川
私たちの宿の前までは阿賀野川の縁に道があるので、まずこれを行くことにしました。
阿賀野川の縁を行くシロスキー
昨日まで体調がすぐれずにいたシロスキーですが、今日はいくらか良さそうで、なんとか走り出しました。
r353咲花温泉線
阿賀野川の縁の道は昨日渡った阿賀野川頭首工の手前で終わり、r353咲花温泉線に入ります。
先に馬下橋
咲花温泉線の先に見えてきたのはR49の馬下橋。
あの橋を渡って阿賀野川の右岸を行ってもいいのですが、シロスキーがやはり身体に力が入らないので五泉駅から電車に乗ると言うので、このまま左岸を行きます。
阿賀野川左岸の土手道
馬下橋から先の阿賀野川左岸は車がまったく通らない土手道になり、快適に進んで行きます。
山脈を抜け出る
またここは、いわきから突入した本州を縦走する山脈の出口です。やっと越後平野に入ったのです。
五頭連峰を背に越後平野を行くサリーナ
うしろの山は阿賀野川の右岸にある、宝珠山、菱ヶ岳、五頭山と連なる五頭連峰。
宝珠山は咲花温泉の露天風呂で正面に見えた山です。
越後平野に立つレイナ、サイダー、シロスキー
『やっと山から抜け出したね〜』 と喜ぶ面々。
菅名岳、大蔵山、不動堂山
道は穏やかな大きなカーブを描いて進んで行きます。今度うしろに見えるようになったのは阿賀野川左岸の、菅名岳、大蔵山、不動堂山といったところでしょう。
阿賀野川右岸の土手道
安田橋でシロスキーは磐越西線の五泉駅へ向かい、私たちは阿賀野川の右岸へ渡りました。
うしろには阿賀野川の両岸の山々が見えています。私たちはあの間をいわきからすっとずっと走ってきたのです。
阿武隈川沿いの田んぼ
周囲を見渡せば、米どころの新潟県だけあり、さすがに田んぼばかりです。
阿賀野市水ケ曽根
阿賀野川右岸の土手道はいつの間にか二車線になり、少し車が増えてきました。新潟が近付いたのですね。
阿賀浦橋
羽越本線と平行するR460の阿賀浦橋を渡り、再び阿賀野川の左岸を行きます。
うしろに満願寺閘門
ほどなく阿賀野川から分かれる小阿賀野川の満願寺閘門を通過。
満願寺閘門は阿賀野川から小阿賀野川への流入量調節と舟運確保のために1928年(昭和3年)に設置されました。閘門はあのパナマ運河にも設けられていますが、簡単に言えば船のエレベーターです。
小阿賀野川
小阿賀野川は阿賀野川と信濃川との間に流れる11kmの川で、その北岸には自転車道が設けられています。
阿賀野川をこのまま走って日本海に出ても良いのですが、新潟市内で立ち寄りたいところは信濃川に近く、信濃川の様子もちょっと覗いてみたいこともあり、ここからは小阿賀野川サイクリングロードを行くことにしました。
小阿賀野川サイクリングロード
小阿賀野川は新発田藩が阿賀野川と信濃川を結ぶ要路として1750年代に支川を拡幅改修して造ったものとされています。阿賀野川と信濃川はともに新潟県を代表する大河川なので、これらを繋ぐ小阿賀野川は当時かなりの重要度を持っていたことでしょう。
明治時代に日本を旅し "Unbeaten Tracks in Japan" を記した英国人の探検家イザベラ・バードは、津川から阿賀野川を下り新潟へ向かう舟旅で、この小阿賀野川を通ったものと考えられています。
河川敷の果樹園
彼女の記述の中に棚に作られたブドウ畑がありますが、ここには棚に作られた果樹園がありました。この果樹はおそらく梨だろうと思います。
うねる小阿賀野川
道は小さなカーブをいくつも描きながら進んで行きます。
信濃川
小阿賀野川が信濃川に流れ込んでいる地点に到着。
目の前には今回の旅では始めて見る日本一長い川、信濃川が流れています。信濃川は上流の長野県では千曲川と呼ばれています。
小阿賀野川と信濃川の合流点
レイナのうしろ、手前が小阿賀野川、奥が信濃川。
この時は川の交差点に小舟が浮かんでおり、何か漁をしていました。
信濃川の土手を行く
ここの信濃川右岸の土手上は自転車道のようになっているのでこれを下って行きます。この先12kmほどのところで信濃川は日本海に注いでいます。
行く手には高い山や建築物はまったく見当たらず、ただ白い空が広がっているばかり。
土手上はほぼ自転車道
振り返ればうしろには、三条市の東に横たわる山々がうっすら見えます。
新潟小須戸三条線と信濃川
土手上の自転車道のような道はすぐに終わってしまい、横を並走していたr1新潟小須戸三条線に入ります。
新潟市江南区和田
新潟小須戸三条線は交通量が多いので、土手の外側のカントリーロードに入ります。
新潟スタジアム
田んぼの中に白いテント屋根のスタジアムらしきものが見えてきました。あれはかつて新潟スタジアムと呼ばれていたものでしょう。最近はネイミングライツとかやらで呼称が変わったかもしれませんが、J1リーグのアルビレックス新潟が本拠地にしているところだと思います。
田んぼ道を行く
その新潟スタジアム方面へ進路を変えてどんどこ。
今日の昼は新潟の中心部に入ってからでも良いのですが、そろそろお腹が減ってきたので、天野にある食堂に入って『へぎそば』を頂くことにしました。
へぎそば
へぎそばは新潟県魚沼地方発祥の蕎麦で、つなぎに小麦粉ではなく海藻の布海苔(ふのり)を使っています。
『へぎ』は片木と書くこともあるようですが、『剥ぐ(はぐ)』が『へぐ』となまったものとのことで、剥いだ板で作った四角い箱状の器を指します。この『へぎ』に入っている蕎麦が『へぎそば』で、『笊』に入っているのが『ざるそば』というわけです。最近は笊に入っていなくともざるそばと呼ばれますね。
再び信濃川の土手上を行く
天野の信濃川大橋から川下の土手上は再び自転車道らしくなるのでこれを行きます。
信濃川水門と関屋分水路
北陸自動車道や上越新幹線、R17の橋梁などをくぐり抜けて進めば、先に水色の水門が見えてきます。
あれは信濃川水門で信濃川本流に設けられています。新潟のまちは信濃川の氾濫により度々水害を蒙ったため、ここで左に見える関屋分水路を開削し、1972年(昭和47年)にこれに通水しました。
信濃川水門へ向かうレイナとサリーナ
大都市を流れる河川の多くは護岸のためがっちりコンクリートで固められ、川面は遠く離れていることが多いですが、この信濃川の土手はあまりそれを感じさせない造りで、ここは河川敷に道が作られているので川面が近く、雰囲気がとても良いです。
越後線
信濃川水門の本川大橋を渡り、関屋分水路に入ります。
するとすぐ関屋大橋、越後線の橋梁と続けていくつもの橋をくぐり抜けます。
関屋の関分記念公園付近
そしてついに関屋分水路が日本海に注ぎました。
一週間前、いわき市で太平洋を眺めたのはこの日はいないコテッチャンだけでしたが、日本海を眺めたのはレイナ、サリーナ、サイダーの三人。バトンタッチしてここに日本横断達成!
西海岸公園内の自転車路を行く
日本海の岸辺に続く海岸道路にはまずまずの広さの歩行者と自転車のためのスペースが設けられているのでこれをどんどこ行くと、道がカーブした先の西海岸公園の内に自転車路を発見。
二車線になった自転車路
海辺の自転車道の多くは砂に埋もれていることがほとんどですが、ここは周囲に木々がたくさんあって砂防林になっているためか路面は良好で、そのうち二車線のところも出てきました。
日和山展望台
この快適な自転車路はいつの間にか林を抜け、左手に日本海が見えるところに出ました。
その先に小さな日和山展望台があったので、これに上ってみます。
日和山展望台より日本海を見る
この展望台からは天気が良ければ佐渡島がはっきり見えるのですが、今日は残念。目の前に延びる堤防だけでその他は何も見えません。
日本海を見渡すレイナとサイダー
『なんとか日本海に辿り着きましたね〜』 と、ここまでの走りをしみじみと振り返るレイナ。
『今日は佐渡が見えなくて残念じゃの〜』 と、今日の天気を残念がるサイダー。
展望台に立つレイナとサリーナ
北東を見れば、砂浜と砂防林がまだしばらく続いています。
新潟市中心部
南東には新潟市の街並みが続きます。
中央に見える超高層ビルは信濃川本流の岸辺に立つ朱鷺メッセの高層棟で、ホテル日航などが入っています。
新潟市歴史博物館前に立つサリーナとレイナ
日和山展望台からは旧税関などがある『みなとぴあ』へ。写真は昭和8年まで古町にあった2代目の新潟市役所庁舎の外観をモチーフにした新潟市歴史博物館本館。
新潟市歴史博物館を後にするサイダー
新潟は幕末に開港した横浜、箱館、長崎、神戸に次いで日本で5番目の、明治元年に開かれた港となりました。この辺りはその当時の雰囲気を残す地区で、新潟市歴史博物館本館の奥に旧第四銀行住吉古町支店(移築復元)や旧税関が立っています。
信濃川本流と朱鷺メッセ
みなとぴあは信濃川本流の岸辺にあり、対岸には朱鷺メッセが見えます。
金井文化財館(旧金井写真館本店)
途中で分かれたシロスキーとは新潟駅前で落ち合うことにしてあるのですが、それまでまだ少し時間があるので、市内の見どころの一つである旧齋藤家別邸へ向かいました。その途中、洋風のこんな建築が立っていました。
この建物は金井文化財館(旧金井写真館本店)で、新潟で初めての写真館を創業した方が、明治30年に写真館本店として建てたもので、設計は有名な建築家ジョサイア・コンドルの教え子のひとりだそうです。建物の前には椰子の木とギリシア彫刻があり、異国情緒たっぶり。
旧齋藤家別邸入口
旧齋藤家別邸は新潟三大財閥の一つに数えられ貴族院議員も務めた豪商が1918年(大正7年)に建てた別荘で、国の名勝に指定されています。
旧齋藤家別邸1階より庭を見る
新潟という土地の豪商となればその財力は相当なものであったことは想像に難くないものの、この別邸はその保存状況が極めて良いことが特筆に値します。豪商などというものは世の中にはごまんといたことでしょう。しかしそれらの屋敷は現在どれほど残っているでしょうか。
旧齋藤家別邸1階の縁より庭を見る
国の名勝であることからもわかるように、ここは庭が絶妙です。
この時期、木々は新緑から万緑に移り変わっていくところで、デリケートな浅い緑色と深いそれとが微妙なニュアンスを織り成しています。
旧齋藤家別邸2階より庭を見る
1階からと2階からの庭の見え方の微妙な違いも素晴らしいです。
旧齋藤家別邸2階の窓
そしてその庭を見るべく設計されたインテリアがデリケートで美しいことといったらありません。
庭から建物を見る
旧齋藤家別邸は新潟の街中にあり、その敷地は広大とは言えません。かつては今より少しは広かった可能性はあるにしても、やはり郊外に立つそれらとは性格を異にしているようです。
ここには限られたスペースの中に展開した美があります。
旧齋藤家別邸の滝
どこから引いてきたのか、美しい滝が落ち、
旧齋藤家別邸の池
その流れは下で池を造っています。
北方文化博物館新潟分館外観
旧齋藤家別邸の向かいには北方文化博物館新潟分館があります。
これは大正時代初期の建物で、新潟市に生まれた歌人であり美術史家・書家である會津八一(あいづやいち)がその晩年を過ごし、終焉の地ともなったところです。
北方文化博物館新潟分館の會津八一が晩年を過ごした洋館
八一はここの洋館で暮らしていたようで、現在は博物館として八一の書と資料、そして新潟生まれで八一が尊敬していた良寛の書を展示しています。
正面に人情横丁本町中央市場
さて、これで新潟市内の観光は終了。ここからはシロスキーとの待ち合わせた新潟駅前へ向かいます。
その途中に1951年(昭和26年)創立だという『人情横丁本町中央市場』なるものがあったので、その横を通って行くことにしました。新潟の繁華街ともなれば建物は高層化の一途を辿っているわけですが、この市場はなんと平屋のまま。
人情横丁本町中央市場を横目に進む
昭和26年といえばまだ戦後復興のさ中。戦後、このあたりにあった堀が埋め立てられ整備されると本町通りの露天商が移転してきてここに店舗を開いたのがこの商店街の始まりだそうです。当時は生鮮食料品が中心の市場だったようですが、今では何でもあり。この中にある鮮魚3店舗は、市場誕生時からの店だというからちょっと驚きです。
私たちがここを通った時は日曜だったためか休業の店が多く、シャッターがだいぶ締まっていたのが残念でした。
新潟駅前の居酒屋にて
信濃川に架かる萬代橋を渡り、もうすぐ新潟駅というところでサリーナの自転車の後輪がバースト。おっと、ここまで来てなんじゃ〜 人生何が起こるか分かったものではありませんね。(笑)
なんとかサリーナの自転車の応急処置をして走れるようにし、駅前でシロスキーと落ち合って、今回の日本横断磐越の旅の完走を祝ったのでした。