西会津町登世島の宿
今日は福島県の西会津町から県境を越えて新潟県五泉市の咲花温泉まで走ります。ルートはほぼ磐越西線と阿賀川(阿賀野川)に近接しており、途中までは旧越後街道を行きます。旧越後街道は陸奥国の会津若松と越後国の新発田(しばた)を結んだもので、越後国側からは会津街道と呼ばれることが多かったようです。
朝起きて窓の外を見るとどうやら昨日の雨は上がったようです。天気予報によれば午後には晴れ、最高気温は18°Cとのこと。ここのところ暑い日が多かったのですが今日は走りやすそうです。
さゆり公園脇
出発前に、昨日の雨でどろんこになった自転車を洗って整備しました。そして人の方も源泉掛け流しの温泉でゴシゴシ。(笑)
私たちの宿は西会津町が整備したもので、周辺にはキャンプ場、公園、介護センター、介護老人保健施設、特別養護老人ホームなどの西会津町の主立った施設が集合しています。これらの中に診療所があったので、どうも調子が今一つだというシロスキーはここで朝一番に診てもらい、その後電車で移動することにしました。
カントリーロードを行くレイナとサリーナ
診療所がある『さゆり公園』の端でシロスキーと分かれると、すぐに道は現越後街道のR49に入ります。この道の左手には磐越西線が通り、右手には阿賀川が流れています。今日は一日ほぼこの二つと並走することになります。
本日の終着地の咲花温泉へはこのR49を真っすぐ行くと辿り着くのですが、それは私たちの好みの道ではないので、できるだけカントリーロードを見つけて進んで行きます。野沢駅の隣駅である上野尻駅が近づくと枝道があったのでこれに入ります。
上野尻
広がる田んぼの向こうに旧越後街道の宿場町であった上野尻の集落が見えてきました。
田んぼと集落があるカントリーロード。私たちが好きなのはこんな道です。
上野尻のカントリーロードを行くサリーナ
最近長距離を走っていないサリーナは、今日は山があって80kmになるのでちょっと不安ぎみですが、今日のルートは疲れたら磐越西線に乗ればいいからね〜、と気楽に行きます。
車トンネル
上野尻を出ると再びR49に合流し、車トンネルの入口に出ます。
車トンネルの北にはかつての越後街道の車峠を越える道が残ってはいるのですが、現在これはほとんど利用されていないようで、薮漕ぎしないと通り抜けられません。今日は私たちにとっては少し距離があるコースなので、序盤はあまり無理をせずにここは車トンネルを行くことにします。これよりしばらくの間、磐越西線と阿賀川とはお別れ。
旧越後街道白坂宿入口
車トンネルを抜けるとそこは本日の最高標高地点です。
ここには分かれ道があり、これを少し行くと旧越後街道の標識が立っています。それにはこの先は白坂宿とあります。ちなみにこの白坂宿は白河の近くの奥州街道のそれとは違います。
煙出しがある大屋根の民家
白坂宿には元々は茅葺きだったと思われる大屋根の民家がいくつか残っています。その茅は現在は金属板に葺き替えられていますが、屋根の中央部には煙出しが、その上には雪割り棟が見えます。
ここのお家はみんな大きいですね〜 と巨大な屋根に驚くレイナ。
白坂宿を行くレイナ
この白坂宿は江戸時代の1809年には21軒しかなく、旅人のための宿というよりは荷物や郵便の取り次ぎ運搬を行なう駅としての機能が強かったようです。小村のため馬数が足りなくてこれに支障をきたすため、隣村の宝川と半月ごとに交代で継送りをする合駅でした。
現在の白坂の規模は江戸時代からあまり変わっていないようで、200mも行くと集落を抜けてしまいます。
狭くなった旧越後街道
白坂を抜けたあとの旧越後街道はなんとこんなに狭くなってしまいました。ここは右手に鬼光頭川が流れ、左手から山が迫ってきているので、広い道が造れなかったのでしょう。
ちなみに明治時代に日本を旅し "Unbeaten Tracks in Japan" を記した英国人の探検家イザベラ・バードは、車峠から先、鳥居峠を越える道について、『10時間もの大変な旅だったのにわずか24km進んだだけで、馬に乗って通った道でこんなにひどい道はこれまでなかった。よくも道などと言えるものである!』 とかなり辛辣な言い方をしています。それだけ当時のこのあたりの道は厳しかったのでしょう。
田表乙
R49を横切ると田んぼが出てきて道が広がりました。
宝川
するとその先に宝川の集落が現れました。ここが先の白坂宿と交代で継送りを行なっていた宝川駅です。
かつての越後街道はここから新潟県との境にある鳥井峠を越えて八ツ田に入って行ったのですが、この道も車峠同様に通り抜けるのが困難。R49で鳥居峠を廻るようにして八ツ田へ向かうことは可能ですがこれはあまり魅力的に思えなかったので、ここからは旧街道を逸れてr384徳沢宝坂線に入り磐越西線に沿って走るR459を行きます。ちなみにこの宝川の集落を貫く道はかつては国道で、鳥井峠は先に見える山の奥にあります。
桐の木
宝川の集落を出ると畑の端に薄紫色の花を付けた桐の木が立っています。
かつては日本の多くの農村部でこうした景色が見られましたが、最近は桐の木を見掛けることは滅多になくなりました。桐の木はタンスの材料であり、かつて農村部では娘を嫁がせる際に嫁入り道具として桐のタンスを持たせて送り出す習慣があり、良く植えられたのです。会津地方は国内でも有数の桐の産地として知られています。
徳沢宝坂線の覆道
徳沢宝坂線に入るとロックシェッドだかスノーシェッドだかが現れました。山の中の険しい地形ではトンネルとともにこうした覆道もまたあちこちに現れます。
覆道はサイクリストにとっては通常はありがたいものではありませんが、それでもトンネルよりは少しだけ快適に走れます。今日はトンネルやこうした覆道が多いので、できるだけそれを避けたいと思ってはいるのですが・・・
徳沢宝坂線からR459へ入る
この覆道を抜けるとほどなく徳沢宝坂線はR459に合流します。
新渡大橋と阿賀川
ここで再び右手に阿賀川が流れるようになります。磐越西線はこの阿賀川の対岸を通っています。
先に見える新渡大橋は新潟県にあり、あの少し手前に福島県と新潟県の県境があります。阿賀川は新潟県に入ると阿賀野川と名を変えます。
県境を通過するレイナ
どうやらここが県境のようで、道脇の標識に『新潟県』その下に『阿賀町』とあります。
そして振り返って見れば、頭上の大きな標識に『ようこそ福島県 西会津町』の文字が。
タニウツギ(ベニウツギ)
このあたりでは時々、道端でピンク色の花が咲いているのに出くわします。これはタニウツギ(ベニウツギ)でしょうか。
タニウツギは田植えの時期に花が咲くのでタウエバナ(田植え花)とも呼ばれるようです。一面の緑の中でこのピンク色の花は一際目を引きます。
徳石大橋
これからしばらくは阿賀野川の左岸と右岸を行ったり来たりします。
まず現れたのは徳石大橋(とくせきおおはし)。この橋はアーチからの吊り材が斜めに張られたニールセンローゼ橋という形式で、豪雪地帯にあるため上弦材に雪割りと滑雪の機能を持つ覆いが、横構には銀色の滑雪シートらしきものが設置されています。
1979年度(昭和54年度)の竣工で、この橋が架かるまで人々はここを県営の渡船で渡っていたそうです。
徳石大橋から見た阿賀野川
このあたりの阿賀野川はほとんど流れがないように見えるので渡船は可能だったでしょう。しかし川岸へのアプローチは厳しそうです。
阿賀町豊実
徳石大橋を渡るとほどなく阿賀町の豊実に入ります。
先に見える赤い橋は先ほど渡った徳石大橋と同様のニールセンローゼ橋で、1988年度(昭和63年度)竣工の船渡大橋(ふなとおおはし)。この地はこれらの橋が完成するまで陸路がありませんでした。
磐越西線豊実駅
ここには磐越西線の豊実駅があり、その前がちょっとした広場になっているので、そこで休憩にしました。
豪雪地帯で寒いからか、駅の入口とプラットフォーム上の待合室が開口部が少ない鉄筋コンクリート造であるのが、関東地方に住む私たちにはちょっと珍しく感じました。
豊実の通り
豊実の集落の建物もこれまで見てきたところと同様、比較的伝統的な造りのものが多いです。このあたりの集落にはハウスメーカーの住宅がほとんどないというのも共通しており、こうしたことがなつかしさに繋がるのか、どこかほっとさせる雰囲気があります。
船渡大橋から見た阿賀野川
豊実を出て船渡大橋を渡ります。
かつてはこの先の菱潟地区へは町営の渡船で渡っていたそうです。
阿賀町実川島
実川島(さねがわじま)の標識があるところへやってきました。先に見える水色の橋は阿賀野川の支流の実川に架かる実川島橋で、その左に磐越西線の茶色の橋梁が見えます。
実川島の民家
この集落で面白い屋根の民家を発見。これは兜造りですね。
兜造りの屋根を持つ民家の平面形は単純な長方形がほとんどですが、このお宅はL字形をしているので曲り家に分類されます。曲り家の多くは母屋と厩(馬屋)とから成り、福島県では南会津町前沢のものが良く知られています。
この兜造りの棟の高さは奥の棟よりずいぶん低くなっています。これはかなり珍しいと思います。
実川島橋から実川を見下ろす
実川島橋から実川を覗いてみると、その流れはかなりきれいで渓流の様相を呈しています。
阿賀野川の流れは緑色で、あまりぱっとしないのですがね。
当麻
実川島橋の先は当麻(たいま)トンネル(1,330m)です。このトンネルの横には旧道があったのですが、現在は通行止めで、実際に通るのはちょっと難しそうでした。
仕方がないので当麻トンネルをくぐり抜けると、先に当麻の集落が見えてきます。この集落には日出谷(ひでや)駅があります。日出谷は少し大きな地域の名で、当麻はもっと小さな地区名。大字小字の関係かな。
当麻の兜造りの民家
日出谷駅の入口はR459にはなく磐越西線の南側の集落内からしかアプローチできません。つまりR459は比較的最近造られた道ということです。
ここは集落の様子を見たいので、磐越西線を渡って日出谷駅方面へ。
当麻のメインストリート
当麻の集落もかなり古くから成り立っていたもののようで、先ほど実川島で見掛けた兜造りや大屋根の民家が立ち並んでいます。
ここはかつての越後街道からは外れていますが、その裏街道だったのかもしれません。
待合室もある当麻公民館
日出谷駅の前に到着。ここには大きな建物が立っていました。これは当麻公民館で、その一角は駅やバスを利用する人々の待合スペース兼ギャラリーの『人の驛ひでや』として開放されています。バスは日出谷-鹿瀬(かのせ)-津川間を平日のみ3往復しているようです。
磐越西線の元となった岩越鉄道(がんえつてつどう)が全通した際、ここはその最後の区間(野沢−津川)でした。つまり日出谷駅は最も奥地にあり、最後に開業した駅の一つなのです。会津若松と新津の中間地点は県境付近でほとんど平地がなく、若干の平地が存在するここが中間の鉄道拠点として選ばれ、機関車駐泊所や転車台などが置かれたそうです。現在は臨時快速『SLばんえつ物語』の停車駅にもなっています。
中村
『人の驛ひでや』にも写真があったのですが、この近くの中村地区に室町時代の観音堂が立っているので、ちょっと覗いて行くことにします。
護徳寺観音堂プローチ
R459に出て北へ1km少々行くと、その護徳寺観音堂はありました。
周囲にはだれも居らず、杉の小山を背にしてひっそりと佇んでいるといった雰囲気です。
護徳寺観音堂
室町時代の1557年の建立で、方三間寄棟造り茅葺き屋根の典型的なミニマム観音堂です。
護徳寺の創建は当時の会津領主だった芦名氏が念持仏を祀ったのが始まりとされており、その芦名氏が伊達政宗との争いに破れた際、ここまで落ち延びた家臣が堂内に墨書を残しています。芦名氏の滅亡により一時庇護者を失いますが、江戸時代になると会津松平家の庇護を受け、藩費で堂宇の改修がなされています。
護徳寺から見た中村の集落
護徳寺は中村の集落の外れの一番高いところにあり、集落全体が良く見渡せます。
この集落内のもっとも大きな民家は兜造りでした。(TOP写真)このあたりでは兜造りは結構一般的なのかもしれません。
平瀬橋
中村からはこのままR459を行って鹿瀬(かのせ)の赤湯で昼食にし、山道で川口へ抜けても良いのですが、この先には神無月トンネル、水無月トンネル、葉月トンネル、如月トンネルと合計4本、2.8kmのトンネルがあるので、悩んだ末に当麻まで戻り、平瀬橋を渡ってr322鹿瀬日出谷線を行き、津川に抜けることにしました。
平瀬橋から見た阿賀野川
平瀬橋からは磐越西線の鉄橋が見えます。
この鉄橋の手前にかつて架かっていたのであろう橋の橋脚が見えるので、あの橋梁はいつの時代にか架け替えられたようです。
平瀬
ほどなく平瀬(びょうぜ)の集落が現れました。
ここは少し空間が広がっていて、周囲には穏やかな勾配の棚田が作られています。
平瀬その2
こうした風景を見ると、田植えの時期は日本で一番美しい季節だと感じます。
平瀬の兜造りの曲り屋
この集落にも兜造りの曲り屋が。
兜造りは小屋裏への採光と通風を得るために考え出されたもので、当時としてはかなり画期的な工法だったと思われます。こうした小屋裏ではお蚕さんが飼われたり、機織りがされたりしていたのですが、このお宅では何が行なわれていたのでしょう。
鍾馗様
ここ阿賀町では毎年早春に各地区で鍾馗様(しょうきさま)祭りが行われています。
鍾馗は元々は中国における道教系の神様でしたが、日本ではその図像には魔よけなどの効能があるとされてきました。その図像とは、長い髭を蓄え、中国の官人の衣装を着、剣を持ち、大きな眼で何かを睨みつけている、というものです。
誇張された男性器
阿賀町の鍾馗様祭りでは、五穀豊穣、家内安全、無病息災、子孫繁栄、厄除けなどを願って男性器を誇張した鍾馗様のわら人形を作って祀ります。なぜ男性器が誇張されたのかについてはあまりよく分かっていないようですが、子孫繁栄は人間の根源的な願いであるという考えもあり、世界各地に男性器を崇拝する文化があることを見てもわかるように、ここでもそうした願いが込められたものと考えられます。
ここ平瀬の鍾馗様祭りは残念ながら2017年度(平成29年度)をもって300年の歴史に幕を閉じました。写真は2018年に新潟大学の学生が製作した木製の鍾馗様で、集落の中のお堂に御神体としてお祀りされています。
鹿瀬日出谷線で峠へ向かうサリーナ
平瀬の鍾馗様にお参りしたら、その先で小さな夏渡戸(なつわど)の集落を抜けます。この夏渡戸でも鍾馗様祭りが行なわれますが、ここは他の地区とは異なり男女一対の人形を作り、集落の上下にあるお堂にそれぞれを祀るそうです。
夏渡戸を出たところで私たちを追い越した軽トラックが停車し、『この道を行くんですか? このあたりはよくイノシシが出るので注意してください。』と声を掛けてくれました。この道はあまり交通がないし、地元の人間でない私たちがこんなところをどうしてわざわざ通るのだろうと思ったかもしれません。ともかくここからはイノシシに注意です。そう思うと薮の中の音がみんなイノシシが立てる音に聞こえるから不思議ですね。(笑)
軽トラックと分かれてからは道の勾配が上昇し、峠道になります。2.2kmで140mの上り。平均勾配6.4%でちょっとあへあへ。
深戸
ここまで不安定だったレイナの電動アシスト自転車はこの山道では問題なく機能し、なんとか峠を越えて深戸に下ってきました。
赤崎山
深戸の阿賀野川の周囲は空間が開いていて、そこにちょっとした田んぼが作られています。新潟県は米どころとして大変有名なところですが、ここはまだ山の中なので平地が極端に少なく、これでもかなり広い田んぼと言えます。
その田んぼの向こうに聳えるのは鹿瀬(かのせ)の赤崎山。
鹿瀬橋と鹿瀬大橋
R459の鹿瀬大橋を渡ると赤い吊り橋の鹿瀬橋が架かります。この鹿瀬橋はかなり立派ですが歩行者と自転車のための橋です。ところが鹿瀬大橋にも歩道はあります。鹿瀬大橋は車専用ではないのです。
元々ここには鹿瀬橋しかなく、交通量の増大にともない鹿瀬大橋が架けられたため、鹿瀬橋を歩行者・自転車専用に転用したのです。
阿賀野川の土手を行く
鹿瀬橋から西の阿賀野川左岸の土手上には、歩行者と自転車しか通らない道が造られていました。
この道を使って津川へ向かいます。
常浪川
2kmほど土手道を行くとR459に出て城山橋で阿賀野川に流れ込む常浪川を渡ります。
常浪川を渡ると津川のまちに入ります。津川はかつては越後街道の宿場町で、上町、鉄砲町、仲町、港町、下田町、柿木町、弁天町、寺ノ前、上寺町があり、まちの入口と中央には大曲と呼ばれる枡形が見られます。まちの中心は港町で、その名のとおりにそこには港や代官所、本陣(駅問屋)などがあったようです。
津川の旧越後街道
イザベラ・バードは先の著書の中で津川についていくつか書き記しています。その一つは屋根の変化についてで、これまでの道中の家々の屋根が美しく趣きのある茅葺き屋根だったのに対し、ここのそれは大きな石で重しをした板葺きであると。現在はバードが見た屋根は見られず、金属板葺きなどに置き換えられています。
雁木
またバードは現地で『とんぼ』と呼ばれる雁木についても触れています。雁木は上越市高田のものが有名ですが歴史的には津川の方が古いようで、ここはその発祥の地とされています。
津川は1610年の大火のちの復興において藩主の指示により、家々の玄関先の土間に庇を架ける雁木が造られました。これは積雪下においても通行機能を確保するために考えられたもので、主に日本海側の都市で発達しました。ここはその先駆けとされています。
桃園楼
津川は阿賀町役場がある大きな街で、飲食店も数軒あるのでここで昼食にします。
私たちが入ったのは『狐の嫁入り屋敷』の入口横にある中華の桃園楼。サリーナは中華飯、レイナは五目あんかけ焼きそば、サイダーは青椒肉絲でご機嫌。
狐の嫁入り屋敷
お腹を満たしたら、江戸時代に代官所が立っていたところにある『狐の嫁入り屋敷』を覗いてみます。津川は1990年から始めた『狐の嫁入り行列』で有名になりました。ここはその名のとおりに狐の嫁入りをテーマにした施設で、建物は釘を使わない伝統的な工法で建てられているそうです。
狐の嫁入り行列は江戸時代の嫁入りの様子を再現したもので、狐に扮した花嫁、仲人、お供など合わせて108人が行列を作って狐の動作を織り交ぜながら町内を練り歩きます。
狐の嫁入り行列の彫刻
子供たちが扮した子狐によるお祝いの踊りもあります。面白いことに行列の全員の顔には狐のメイクが施され、これは観光客や駅員、挙げ句の果ては警察官までということで、街中が狐だらけに。
行列が先ほど私たちが渡った常浪川に架かる城山橋に到着すると、この橋の上で花嫁と花婿が出会い、川の中に設けられたステージで結婚式を挙げます。式が終わると花嫁と花婿は舟に乗って川を渡り、麒麟山に消えて行きます。すると山には狐火が灯ります。
麒麟山とレイナ&サイダー
古くより麒麟山には狐火が出ると言われており、夕方から夜にかけて行なわれていた嫁入りは提灯をぶら下げて嫁入り先に行列して行ったので、この行列が峠を越えていく際に堤灯の明りと狐火が平行して見えたことから『狐の嫁入り行列』という言い伝えとなったそうです。
津川は江戸時代は会津藩の西の玄関で、阿賀野川と常浪川の合流点には大船戸と呼ばれる船着場があり、150隻の船が出入りしたと言われています。この上流には銚子の口と呼ばれる難所があり船では通行不能だった為、ここで物資は一端荷揚げされ、越後街道を陸路で野尻宿まで運び、そこから再び舟運で溯上したのです。
ここはまたイザベラ・バードが新潟へ向けて船出したところでもあります。彼女は阿賀野川については、もっとゆっくりできればうれしいのにと思えるほどに美しかったと述べています。
きつねのお面
狐の嫁入り屋敷の館内にはきつねの面がたくさん。
ちなみに第一回の『狐の嫁入り行列』の際はこうした狐の面を着けたのだそうですが、特に夜は見えにくいことから現在のメイクに変わったのだそうです。
狐の剥製
麒麟山には実際に狐がいたそうで、いや今でもきっといるのでしょう。こんな狐の剥製が何体か置かれていました。
関内の様子
この時広間では男性陣は藁作業を、女性陣は何か細工物を作っていました。
この施設では予約すれば狐のお面作り体験や狐のメイク体験ができるそうです。
狐の嫁入り屋敷前の阿賀野川
津川を行く
津川まで走ってみて、その時の様子でこの先を輪行にするかどうするか考えると言っていたレイナですが、まだ余力がありそうということでこの先も走ることに。
今度、狐の嫁入り行列、見てみたいですね〜 と言いつつ津川を後にします。
津川から先のルートは迷います。まず誰もが考えるR49には2,661mもある赤岩トンネルがあるので、できればこれは避けたいところ。この他のルートについてはそれぞれに問題がありそうなので地元の方に聞いてみました。
きりん橋
阿賀野川の左岸には赤岩トンネルの手前で赤岩川に沿って山の中へ入って行くルートがありますが、これは通行不能らしい。では阿賀野川の右岸はどうか。
まず川岸を行く道は通行止で使えないことがわかっています。するとその北の山の中を行くルートになります。津川から京ノ瀬に上る道はかつての越後街道に沿っており、越後街道には石畳が残っていたりしてちょっと魅力的なのですが、その先川口へ抜ける道は崖崩れで通行できないとのこと。この一本下にも林道があるけれど状況は変わらないということでした。
西津川線
私たちに道の情報をくださった方によると、赤岩トンネルには広い歩道が設けられているので問題なく通行出来るし、そこまではr512西津川線を行けば国道を使わずに済むとのことでした。
ということで選択肢はなし。津川で旧越後街道を離脱し、r512西津川線で赤岩トンネルへ向かいます。
赤岩トンネル
赤岩トンネルは距離が長くて快適ではないものの、確かに広い歩道があり不安なく通り抜けることができました。
ものは考えよう。ここはトンネルを使ったので距離が大幅に縮まり、時間的にもかなり余裕ができました。
揚川ダム
赤岩トンネルを抜け出たらそのままR49を行くのはつまらないので、阿賀野川の左岸を行くことにします。
するとすぐに揚川(あげかわ)ダムが見えてきました。このダムは阿賀野川の本流を塞き止めているため巨大で、ローラーゲートが15門も並んでいます。何かの工場かと思った〜
揚川ダムから南へ続く道
それにしても山が深いです。行く手はまだまだ山だらけ〜
しかし先ほどの赤岩トンネルで本日最大の難所は越えたので、ここからはそう大きな不安はありません。
阿賀野川左岸を行くレイナ
この道の北には小さな小花地の集落があるだけで、その先は行き止まりになっているため、このあたりにはまったく人の気配がありません。
谷沢より蛇行する阿賀野川を望む
谷沢の集落に入ったところで阿賀野川は大きく蛇行し、Uターンしています。ここから北に見える山は荒倉山、白髭山あたりでしょうか。津川を出た旧越後街道は、あの山の中にある諏訪峠を越えて越後国の綱木宿へ向かったのです。
バードが旅した時は揚川ダムはなかったのでその頃の景色は現在とはだいぶ違うはずですが、阿賀野川下りについてバードは、木の葉のように下って行く舟や周囲の山々について描写したあと、ライン川より美しさの点では勝っていたと述べています。
谷沢川と阿賀野川の合流点で休憩するサイダーとサリーナ
谷沢の集落で谷沢川が阿賀野川に流れ込みます。もし赤岩トンネルを通らずに赤岩川を遡っていたらここに出て来るのですが、さて、その道はどんなだったでしょう。
次に向かうは岩谷の将軍杉。朝分かれたシロスキーが元気を回復したらこの将軍杉で落ち合うことにしていたのですが、シロスキーは今日は宿に直行すると言うので、時間にゆとりができました。ということで、ここでしばしまったり。
三川インター線
谷沢からは広いr587三川インター線に入ります。この道はその名からもわかるように、この先の磐越自動車道の三川インターに続いています。その性格上、交通量がどうかと思いましたが、ご覧の通り、これはまったく問題ありませんでした。
R49の岩津橋
三川インター線は吉津でR49に合流し、岩津橋を渡ります。
東を振り返れば、荒倉山や白髭山あたりの奇妙な形の山々が並んでいるのが見えます。
平等寺薬師堂へ上る
岩津橋を渡るとほどなく岩谷に到着。ここには平等寺薬師堂と将軍杉という二つの見どころがあります。
平等寺は平安時代の995年の建立とされますが、現在見ることができる観音堂は室町時代の1517年の再建と伝わり、県内最古の木造建築の一つに数えられています。
平等寺薬師堂
この薬師堂の平面は方三間かと思いましたが、奥行きは四間あります。形は少し異なりますが、午前中に見た護徳寺のものと建立時代が近いので、これらの建築には共通するものがあるように思います。
芦名氏の家臣が堂内に墨書を残していることまで護徳寺のものと同じですが、こちらは上杉謙信の後継者争いで景虎と景勝が争った『御館の乱』に便乗して越後へ進行したものの、敗退してこの堂に逃げ込んだ際のものらしいです。
将軍杉の入口
将軍杉はこの平等寺薬師堂のすぐ東にあります。
そのアプローチからは大きな杉の木が3本見えます。真ん中の木が将軍杉でしょうか。
将軍杉
この三本以外にも周囲には何本もの杉の木が立っています。そんな杉の木の中へ分け入るとすぐ、将軍杉と彫られた石碑があり、その奥に将軍杉は立っていました。
将軍杉の幹元
世の中に大木巨木と呼ばれるものはたくさんありますが、そうしたもののほとんどはドーンと立派な一本の太い幹を持っています。しかしこの将軍杉は幹が立ち上がってすぐに枝分かれした株立ちのような姿をしています。
正直、もっとバーンという姿を想像していたのでこれにはちょっと拍子抜けですが、こうした株立ちの杉の木というのは見たことがありませんね。
五十島トンネル部の旧道
将軍杉を眺めたら、ここからは本日の終着地の咲花温泉へ向かうだけです。しかしこの先には五十島トンネルと取上洞門(とりあげどうもん)とが連続してあり、ちょっと気が滅入ります。
五十島トンネル部には阿賀野川に沿って旧道があるのですが、これは通り抜けられるかかなり怪しいです。しかし時間に余裕があったのでダメもとで行ってみることに。
旧道の覆道
序盤はそれなりに行けそうな雰囲気で、覆道部も問題なさそうです。
草に埋もれた道
しかしこの覆道の先は草が道を覆い始めており、早くも怪しくなってきます。
そのうち草茫茫になって、これはもう行けないとサイダーは撤退と決めたのですが、どうしたことかレイナがもう少し先まで行ってみましょうと言い出しました。
まだ進むレイナとサリーナ
そう言われれば行かねばなりますまい。(笑) で、案の定その先は道が水没してほとんど沼と化しており、完全に通行不能状態で即撤収と相成りました。
取上洞門から阿賀野川を望む
ということで、五十島トンネルをくぐり、それに連続する取上洞門に突入。
この取上洞門は解放された側が連続アーチとなっており、そこから阿賀野川の流れがよく見えるので、多少気が紛れます。
取上洞門出口
2.2kmを走り抜けて、なんとか明るい世界に出ました。
取上橋を渡り、東下条の集落には入らずにR49をまっすぐ行きます。
東下条付近のR49
今日のサイクリングもいよいよ終盤です。天気予報では今日の最高気温は18°Cと言っていたように思うのですが、それはどこの話だったでしょう。
この時はかなり暑さを感じており、ちょっとアイスクリーム休憩したい気分です。
R49の釣浜橋から磐越自動車道の石間釣浜橋を望む
川幅を広げた阿賀野川の釣浜橋を渡るとその先に『道の駅阿賀の里』があったので、ここで休憩することに。この道の駅は『阿賀野川ライン舟下り』の乗り場でもあります。この阿賀野川ライン舟下りの名はバードが阿賀野川を『廃墟なきライン川』と評したことに由来していると考えられます。イザベラ・バードの名を冠したジェット船もあるようです。
道の駅に到着。時は17時10分前。さて、アイスクリームはどこだ、と見回したのですが、、、
道の駅 阿賀の里
なんだか人の気配があまりありません。あれ、今日は休みかな、と思っていると、スピーカーからドヴォルザークの新世界交響曲の中の第2楽章ラルゴ(日本では『家路』と言えば通じるか)が流れてきました。他の道の駅がどうなのかは知りませんが、ここの営業時間は17時までで、お客はすでにほとんど帰ってしまったようです。急いで店内に駆け込むと、なんとかアイスクリームを発見できました。
このアイスクリーム騒動と同時に起こったのはサイダーの蛭に喰われ事件。
咲花温泉の対岸のR49
さ、アイスを食べようと地べたに座ったところ、サイダーの足になにやら黒っぽいものが付着しています。ん、なんだこれは・・・ と思う間もなくそれは蛭であることに気付きました。これは間違いなく五十島トンネルの横の旧道で拾ってきたものに違いありません。蛭は無理矢理ひっぺがそうとすると歯が残って血が止まらなくなるので、塩を掛けるか火で炙るかしたほうが良いのです。たまたま、というか大抵こういう場合に備えて塩は持っているので、それを振りかけると、蛭はフニャリンとサイダーの足から転げ落ちました。あ〜びっくりした〜
さて、蛭を退治したところで本日の宿に向かいましょう。
対岸に咲花温泉
道の駅を出るとすぐ川向こうに温泉街が見えてきました。
阿賀野川頭首工
温泉街の先には阿賀野川頭首工があります。頭首工とはあまり聞き慣れない用語ですが、農業用水を用水路へ引き入れるための施設の総称で、水門や堰堤といったものを指します。
この頭首工は車も通れるので、これで対岸へ渡ります。
咲花温泉の夕食
宿では一足早く到着したシロスキーが首を長くして私たちを待っていました。レイナはここまで輪行することなく完走。よくやった〜!
ここ咲花温泉の開湯は比較的新しく1954年。阿賀野川の河畔の『先花地』と呼ばれたところに湯の花が咲いていたことから発見され、咲花温泉と名付けられたそうです。泉質は硫黄ナトリウム泉で、空気に触れるとエメラルドグリーンに変化する美肌の湯。この温泉にたっぷり浸かって、美女も美男もとってもきれいになりました。(笑)
さて、今日は少しトンネルが多いコースでしたが、なんとか無事に乗り越えました。明日は今回のツアーの最終日です。郡山からここまで走ってきた長かった大山脈を抜け出て越後平野に入り、新潟まで走ります。