21C

四国八十八ケ所の記録 第3ステージ 愛媛編

開催日 2021年09月28日(火)〜
参加者 サイダー、ナオボー、マージコ、マサキン
シロスキー、ミルミル、マコリン、サリーナ
総合評価 ★★
難易度
走行距離 533km
地域 愛媛県

内子町 内子座
内子町 内子座

コース紹介

ヴァーチャル・サイクリング四国八十八ケ所の第3ステージは愛媛県の26か寺を巡ります。

基礎情報:四国八十八ケ所第1ステージ 徳島編第2ステージ 高知編第4ステージ 香川編

地図:Googleマップgpxファイル/GARMIN Connect/Ride With GPS/メンバー用地図

発着地 累積距離 標高 コメント/寺院縁起・見所
Stage3 【伊予(愛媛県)】菩提の道場 26か寺・533km
県境 START
0km
788km
50m 高知県-愛媛県
第40番
観自在寺
14km
802km
20m ▶第四十番札所 平城山 観自在寺
一番霊山寺から最も遠い「四国霊場の裏関所」。807年、弘法大師が平城天皇の勅命で訪れ、霊木から本尊の薬師如来と脇侍の阿弥陀如来、十一面観音菩薩を彫造して安置し開創。残った霊木に「南無阿弥陀仏」と彫り、庶民の病根を除く祈願を行った。 平城天皇は勅額「平城山」を下賜し行幸、また毎年勅使を遣わし護摩供の秘法を修したため、この地方を「御荘」「平城」と呼ぶようになった。
【見所】本尊と脇侍、「南無阿弥陀仏」の名号宝判、本堂(昭和39年再建)、大師堂(平成5年)
●宇和島城 58km
846km
50m ▶宇和島城
宇和島城は1601年に藤堂高虎によって築かれ、現存する天守などの建築は宇和島伊達家二代藩主・宗利によるもの(1671年)。天守は重要文化財、また城跡全体は国の史跡に指定されている。城の南には、七代藩主伊達宗紀の隠居所としてつくられた池水回遊式庭園「天赦園」がある。
第41番
龍光寺
69km
857km
190m ▶第四十一番札所 稲荷山 龍光寺
807年に弘法大師がここを訪ねた際、稲束を背負った老人が現れ、五穀大明神の化身と悟り、稲荷明神像を彫造し堂宇を建てて安置。十一面観世音菩薩と、脇侍として不動明王、毘沙門天も造像し、「稲荷山龍光寺」とし四国霊場の総鎮守の寺として開創。 明治の廃仏毀釈令により旧本堂は「稲荷社」となり、新たに本堂が建立され十一面観世音菩薩像を本尊とし、稲荷明神像も一緒に祀られた。
【見所】本堂、太子堂、石の鳥居、稲荷神社
第42番
佛木寺
72km
860km
200m ▶第四十二番札所 一カ山 佛木寺(ぶつもくじ)
807年、弘法大師が牛を引く老人と出会い、誘われるまま牛の背に乗って歩むと、楠の大樹の梢に宝珠がかかり光を放っていた。これは大師が帰朝する際、有縁の地が選ばれるようにと三鈷と共に東方へ投げた宝珠で、この地こそ霊地であると感得、楠で大日如来像を彫造し眉間に宝珠を埋めて本尊として安置、「一カ山仏木寺」と名づけた。寺は牛馬安全の守り仏、大日さまとして信仰を集めた。
【見所】大日如来坐像(1275年)、家畜堂、鐘楼堂(茅葺屋根。元禄時代(1688〜1704)に再建)
第43番
明石寺
93km
881km
280m ▶第四十三番札所 源光山 明石寺(めいせきじ)
6世紀前半、欽明天皇の勅願により円手院正澄という行者が渡来仏の千手観音菩薩像を祀るため七堂伽藍を建て開創。734年に寿元という行者が紀州熊野から12社権現を勧請し12坊を建てて修験道の中心道場とした。 822年、弘法大師が嵯峨天皇に奏上し勅命を受け荒れた諸堂を再興。1194年、再び荒れた伽藍を源頼朝が修復し阿弥陀如来像を奉納、山号の現光山を「源光山」に改めた。
【見所】本堂(1890年、信者による天井絵)、しあわせ観音像
●大洲城 119km
907km
30m ▶大洲城
1595年に藤堂高虎が入城し、近世の城郭として整備。1609年には脇坂安治が転封され、この2人の時代に天守をはじめとする建造物が造営された。天守は1888年解体されたが、2004年に伝統工法を用いて復元。台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓は重要文化財。また近くでは、肱川の上流にある景勝地に明治後期に建てられた臥龍山荘も見所(3つの数寄屋建築が重要文化財)。
●内子町 133km
921km
60m ▶内子町
かつては木蝋生産で栄えた町。八日市通りには、江戸末期から明治にかけての白壁土蔵造りの家々が並び、往時の製蠟業の繁栄ぶりがうかがえる(重要伝統的建造物群保存地区)。少し離れた1916年建築の芝居小屋「内子座」も見逃せない。
第44番
大寶寺
177km
965km
580m ▶第四十四番札所 菅生山 大寶寺
昔、百済の聖僧が山中に安置した十一面観音像を、701年に安芸(広島)からきた兄弟の狩人が発見。文武天皇はこの奏上を聞き勅命により寺院を建立、元号に因んで「大寶寺」とした。822年、弘法大師が訪れ密教を修法し、四国霊場の中札所と定めた。1152年に焼失したが、直後に後白河天皇が病気平癒を祈願し成就したため、伽藍を再建し勅使を遣わし妹宮を住職に任じて勅願寺とした。
【見所】仁王門(金剛力士像、室町時代)、芭蕉塚
第45番
岩屋寺
188km
976km
600m ▶第四十五番札所 海岸山 岩屋寺
815年、弘法大師がここで法華仙人という女性に出会い、仙人は大師に帰依して全山を献上。大師は木造と石造の不動明王像を刻み、木像は本尊として本堂に安置、石像は奥の院の岩窟に祀り、全山を本尊とした。山号の「海岸山」は空海の歌「山高き谷の朝霧海に似て松吹く風を波にたとえむ」による。 鎌倉中期に一遍上人がここで修行。44番大寶寺の奥の院だったが、明治7年に初代住職が着任。
【見所】大師堂(1920年。近代仏堂の代表作、重要文化財)、穴禅定、道開き不動、逼割禅定
第46番
浄瑠璃寺
213km
1001km
90m ▶第四十六番札所 医王山 浄瑠璃寺
行基が奈良の大仏開眼に先立ち708年にここを訪れ、仏法を修行する適地として伽藍を建立。白檀の木で薬師如来像を彫って本尊とし、脇侍に日光・月光菩薩と、眷属として十二神将を彫造して安置した。寺名は薬師如来がおられる瑠璃光浄土から「浄瑠璃寺」とし、山号も医王如来に因む。807年、唐から帰朝した弘法大師がこの寺にとどまり、荒廃していた伽藍を修復し四国霊場の一寺とした。
【見所】仏手・仏足石、一願弁天堂、説法石、イブキビャクシンの木
第47番
八坂寺
214km
1002km
90m ▶第四十七番札所 熊野山 八坂寺
役行者小角が開基。701年、文武天皇の勅願により伊予の国司越智玉興公が堂塔を建立。寺名は8ヶ所の坂道を切り開いたこと、また益々栄える「いやさか(八坂)」にも由来。 815年、弘法大師が寺を再興。本尊の阿弥陀如来坐像は恵心僧都源信(942〜1017)作と伝えられる(現本尊は鎌倉後期の作)。その後、紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となった。
【見所】閻魔堂、救いの手、宝筺印塔、不動三尊(いやさか不動尊)
第48番
西林寺
219km
1007km
50m ▶第四十八番札所 清滝山 西林寺
741年、聖武天皇の勅願により、行基が国司とともに一宮別当寺として堂宇を建立(現在の松山市小野播磨塚近辺)、本尊に十一面観音菩薩像を彫造して安置。807年、弘法大師が逗留し国司と協議、寺を今の地に移して四国霊場と定め国家の安泰を祈願する道場とした。 この頃村は大旱魃で苦しんでおり、大師は錫杖を突き、近くで清水の水脈を見つけた。「杖の淵」はその遺跡とされる。
【見所】福授地蔵、孝行竹、四國偏禮繪圖(1763年刊行。最古の四国遍路絵図)
第49番
浄土寺
222km
1010km
50m ▶第四十九番札所 西林山 浄土寺
8世紀半ば、孝謙天皇の勅願寺として、恵明上人により行基が彫造した釈迦如来像を本尊として開創。法相宗だったが、後に弘法大師が荒廃していた伽藍を再興し真言宗に改宗。その頃から寺運は栄え、寺域は八丁四方に及び66坊の末寺をもつほどだった。 平安中期には空也上人が滞留し、村人たちへ布教をして親しまれた。1192年、源頼朝が一門の繁栄を祈願して堂塔を修復した。
【見所】本堂(1484年建立、重要文化財)、空也上人立像(鎌倉時代作、重要文化財)、本堂の厨子の落書き(最古のものは1525年)
第50番
繁多寺
224km
1012km
80m ▶第五十番札所 東山 繁多寺(はんたじ)
8世紀半ば、孝謙天皇の勅願により行基が薬師如来像を彫造し建立。天皇より祭具の幡を賜り、これが寺名になったとの説もある。9世紀初め、弘法大師が寺に逗留。 その後寺は衰微するが、源頼義らの援助で再興、1279年には後宇多天皇の勅命で聞月上人が蒙古軍の撃退を祈祷。また一遍上人が青年期に参籠して修行。上人は1288年、亡父・如仏が所蔵していた『浄土三部経』を寺に奉納。
【見所】歓喜天堂(徳川4代将軍家綱の念持仏三体の一つ歓喜天を祀る)、鐘楼堂(1696年の信者寄進による梵鐘、天井絵には中国の24孝がモチーフ)
第51番
石手寺
227km
1015km
60m ▶第五十一番札所 熊野山 石手寺(いしてじ)
728年に伊予の豪族、越智玉純が霊夢に25菩薩の降臨を見てここが霊地だと感得、熊野12社権現を祀った。聖武天皇の勅願所となり、729年に行基が薬師如来像を彫造し本尊として開基、法相宗の「安養寺」と称した。813年、弘法大師が真言宗に改めた。892年、右衛門三郎再来の説話により「石手寺」と改称。 鎌倉時代の風格をそなえ、立体的な曼荼羅形式の伽藍配置を現代に伝える名刹。
【見所】仁王門(1318年建立、国宝)、本堂(鎌倉末期)・三重塔(鎌倉末期)・訶梨帝母天堂(鎌倉末期)・鐘楼(1333年建立)・護摩堂(室町初期)・五輪塔(鎌倉末期)・銅鐘(1251年):いずれも重要文化財
●道後温泉 228km
1016km
60m ▶道後温泉
3000年の歴史を誇る日本最古の大温泉。そのシンボル道後温泉本館は、1894年(明治27年)築の木造3階建の共同浴場。温泉街の南の丘陵地には、豪族河野氏の城跡で緑地公園となっている「道後公園」がある。
●松山城 231km
1019km
130m ▶松山城
1602年、加藤嘉明の築城。再三火災に遭い、創建時のものは野原櫓・乾櫓・隠門・塀などのみ。天守も当初は5層だったが1642年に3層に改修し、現在の天守は1854年完成の三代目。天守をはじめ21の建造物が重要文化財で、城郭遺構は国の史跡。標高132mの勝山山頂にあり、眺望が良い。
第52番
太山寺
240km
1028km
70m ▶第五十二番札所 瀧雲山 太山寺
587年、豊後の真野長者が船で大嵐に遭い、観音に念じると山頂から光が差し無事着岸。その頂上には小さな十一面観音があり、長者は一宇の建立を大願。豊後の工匠を集め1日で高浜に到着、一夜にして本堂を建立した。 739年、聖武天皇の勅願により行基が十一面観音像を彫造、胎内に真野長者が見つけた観音像を納め本尊とした。弘法大師は晩年訪れ、寺を法相宗から真言宗に改宗。
【見所】国宝:本堂(1305年建立)、重要文化財:仁王門(鎌倉時代)、本尊十一面観音立像(平安後期)、十一面観音立像 6躯(平安後期)
第53番
圓明寺
243km
1031km
10m ▶第五十三番札所 須賀山 圓明寺(えんみょうじ)
749年、聖武天皇の勅願により行基が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を彫造し、七堂伽藍の大寺として創建。当時は北の浜にあり「海岸山圓明密寺」と称した。 その後弘法大師が諸堂を再興したが、鎌倉時代に兵火で衰微。17世紀初頭に現在地に移され、1633年に須賀重久が再興。その功労から仁和寺の覚深法親王より須賀山の山号を賜り、仁和寺の直末とされた。
【見所】本堂(天井近くに左甚五郎作の龍)、キリシタン石塔、観音堂
第54番
延命寺
277km
1065km
30m ▶第五十四番札所 近見山 延命寺
720年に聖武天皇の勅願により、行基が不動明王像を彫造し伽藍を建立して開創。9世紀に入り弘法大師が嵯峨天皇の勅命をうけ信仰と学問の中心道場として再興、「不動院・圓明寺」と名づけ勅願所とした。 その後火災と再興をくり返し、1727年に現在地の近見山麓へ移転。「圓明寺」の寺名は明治維新まで続いたが、同じ寺名の53番との間違いが多く、通称の「延命寺」に寺名を改めた。
【見所】山門(元は今治城の城門の一つ)、宝冠不動明王坐像(火伏せ不動尊)
●しまなみ海道 285km
1073km
50m ▶しまなみ海道
「瀬戸内しまなみ海道サイクリングロード」は、美しい島々とそれらを繋ぐ橋で構成された広島県尾道市と愛媛県今治市を結ぶ自転車道。1999年に開通し、サイクリングロードの全長約70kmのコースは「サイクリストの聖地」と呼ばれている。
*この旅では、今治市の糸山からしまなみ海道の一部を含めて愛媛県側の3つの島を一周する。
●大山祇神社 335km
1123km
20m ▶大山祇神社
大三島の西岸、神体山とする鷲ヶ頭山西麓に鎮座する大山祇神社は、全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社や三島神社の総本社であり、山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた。建造物では本殿、拝殿が1427年の再建で重要文化財。平安時代の鎧など国宝・重要文化財も多数。
第55番
南光坊
405km
1193km
10m ▶第五十五番札所 別宮山 南光坊
594年、推古天皇の勅により大三島に大山祇神社の元となる遠土宮が祀られた。703年、風波のため祭祀がおろそかになるのを憂い、文武天皇の勅を奉じ、国司越智玉澄が大山積明神を当地に勧請。同時に大三島に24坊を建立、その1つが南光坊。当地の宮は712年に完成し、「日本総鎮守三島の地御前」として奉祭され別宮と称した。弘法大師は四国巡錫の時別宮に参拝し、坊で御法楽をあげた。
【見所】大通智勝如来、書道家・川村驥山の菅笠、金比羅堂
●今治城 407km
1195km
10m ▶今治城
藤堂高虎により1602年に築城開始、1604年に完成。三重の堀に海水を引き入れ、当時は海から堀へ直接船で入ることができるなど海を最大限に活用した城。1869年(明治2年)に廃城され、ほとんどの建築物が破却されたが、石垣と内堀はほぼ江戸時代の姿を残す。現在の天守は1980年築のRC造。
第56番
泰山寺
412km
1200km
20m ▶第五十六番札所 金輪山 泰山寺
815年に弘法大師が訪れた際、梅雨時で蒼社川が氾濫し、村人たちは悪霊のしわざと信じていた。大師は村人と堤防を築き、土砂加持の秘法を七座にわたり修法し、満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し治水祈願が成就。 大師はここに「不忘の松」を植え、感得した地蔵菩薩像を刻み本尊とし堂舎を建てて「泰山寺」と名づけた。この寺名は「延命地蔵経」の中の「女人泰産」からとったとされる。
【見所】本堂(1854年再建)、不忘の松
第57番
栄福寺
415km
1203km
50m ▶第五十七番札所 府頭山 栄福寺
嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が瀬戸内海の平易を祈って府頭山山頂で護摩供を修法。満願の日、海上に阿弥陀如来の影向が漂い、この像を引き上げ山頂に堂宇を建て創建。 神仏混合の歴史もあり、859年、大和・大安寺の行教上人が宇佐八幡の分社を山城に創建するため航行中暴風雨に遭い漂着。府頭山が山城の男山と似ており阿弥陀如来は八幡菩薩の本地仏であるため、境内に八幡明神を勧請し勝岡八幡宮を創建。
【見所】古い納経帳(1800年)、少年の箱車、お願い地蔵、大師堂の十二支彫刻
第58番
仙遊寺
418km
1206km
250m ▶第五十八番札所 作礼山 仙遊寺
天智天皇の勅により、7世紀後半に伊予の国主越智守興が堂宇を建立、本尊の千手観音菩薩像は海から上がってきた竜女が一刀三礼して彫ったとされ、「作礼山」が山号となった。また阿坊仙人という僧が40年にわたり七堂伽藍を整えたが、718年に雲と遊ぶかのように突然姿を消してしまったことが「仙遊寺」の由来。 弘法大師はここで修法し、人々の救済のため井戸を掘り伽藍を修復し再興。
【見所】本堂(本尊は平安後期作とされる)、竜燈桜碑、弘法大師お加持の井戸、犬塚池(寺から望む風景)
第59番
国分寺
425km
1213km
10m ▶第五十九番札所 金光山 国分寺
伊予国分寺。741年、聖武天皇の勅願により行基が本尊の薬師如来像を彫造して安置し開創。第3世住職・智法律師のとき、弘法大師が長く滞在して「五大尊明王」の画像一幅を奉納、また大師の弟子・真如も2年間留まり、『法華経』の一部を書写して納めている。 往時には今の寺から150mほど東にあり、13個の巨大な礎石がある伊予国分寺塔跡は国の史蹟。
【見所】本堂(1789年再建)、書院、唐椿(市指定天然記念物)
第60番
横峰寺
454km
1242km
745m ▶第六十番札所 石鉄山 横峰寺
651年、役行者が石鎚山の星ヶ森で修行していると蔵王権現が現れ、その姿を彫り小堂を建てて安置し創建。延暦年間(782〜806)には石仙仙人という行者が住み、桓武天皇の脳病平癒を成就して菩薩の称号を賜った。 大同年間(806〜10)には弘法大師がこの寺で厄除けと開運祈願の星供養の修法を行い、やはり蔵王権現が現れたのを感得、堂宇を整備して霊場とした。
【見所】本堂、本尊(金剛界大日如来像)、星供大師、星ヶ森(国の名勝、山門から約600m、霊峰石鎚山の遥拝所)
第61番
香園寺
468km
1256km
30m ▶第六十一番札所 栴檀山 香園寺(こうおんじ)
用明天皇の病気平癒を祈願して聖徳太子が建立したと伝えられる。天平年間(729〜49)には行基が巡錫。大同年間(806〜10)に弘法大師が訪れ、門前で苦しむ身重の婦人に栴檀の香を焚いて加持祈祷をすると婦人は元気な男子を無事出産。大師は栴檀の香を焚いて安産、子育て、身代わり、女人成仏を祈る「四誓願」の護摩修法をして寺に遺し霊場に定められた。「栴檀山」はこれに由来。
【見所】大聖堂、子安大師像
第62番
宝寿寺
469km
1257km
20m ▶第六十二番札所 天養山 宝寿寺
聖武天皇の勅願で大国主大神ら三神を祀る伊予の一の宮神社が建立され、道慈が法楽所としての別当寺「金剛宝寺」を創建。 大同年間(806~10)に弘法大師が訪れ、光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫り本尊とした。また国司の越智氏の夫人が難産で、大師が霊水で加持し、夫人は玉のような男子を無事出産。これに因み寺名を「宝寿寺」と改め、安産の観音としても信仰された。
【見所】本堂・本尊、真念遍路道標(愛媛県歴史文化博物館に長期展示中)
第63番
吉祥寺
470km
1258km
20m ▶第六十三番札所 密教山 吉祥寺
弘仁年間(810~824)に弘法大師が1本の光を放つ檜を見つけ、一帯に霊気が満ちているのを感得。大師はこの霊木で本尊の毘沙聞天像、脇侍の吉祥天像と善膩師童子像を彫って安置し堂宇を建立。当時の寺は今より南東の坂元山にあり、広い寺域に塔頭を21坊ほど有していたが、1585年に豊臣秀吉による四国征伐の際に全山を焼失。1659年に末寺であった檜木寺と合併して現在地に再建。
【見所】本堂・本尊(毘沙聞天坐像は60年に一度開帳の厳格な秘仏)、成就石、くぐり吉祥天女
第64番
前神寺
474km
1262km
20m ▶第六十四番札所 石鉄山 前神寺(まえがみじ)
日本七霊山の一つ石鎚山の麓の霊場。天武天皇(在位673~86)時代に役行者小角が石鎚山で修行後、釈迦如来と阿弥陀如来が石鈇山大権現となって現れたのを感得し、尊像を彫って安置し開創。その後、桓武天皇(在位781~806)が病気平癒を祈願し成就したため七堂伽藍を建て、勅願寺「金色院前神寺」の称号を下賜。後に弘法大師も2度石鎚山で修行している。
【見所】本堂、石鈇権現堂、権現様縁日(毎月20日)、御瀧行場不動尊、奥前神寺(石鎚山中腹にあり7月1日からの10日間の山開き期間中参詣できる)
第65番
三角寺
518km
1306km
340m ▶第六十五番札所 由霊山 三角寺
聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基が弥勒の浄土を模して具現するため開創。815年に弘法大師が訪れ、本尊の十一面観音像を彫造して安置、さらに不動明王像も彫り、三角の護摩壇を築いて21日間、国家の安泰と万民の福祉を祈念し「降伏護摩の秘法」を修法。この護摩壇の跡が庫裡と薬師堂の間にある「三角の池」の中の島として現存し、寺院名の由来となっている。
【見所】三角の池、薬師堂、延命地蔵菩薩立像(昭和52年再建)
県境 GOAL
533km
1321km
410m 愛媛県-香川県 唐谷峠
参考資料:(一社)四国八十八ヶ所霊場会HP阿波ナビ(徳島県観光情報)/よさこいネット(高知県観光情報)/いよ観ネット(愛媛県観光情報)/うどん県旅ネット(香川県観光情報)

2021年09月29日(水)晴れ/28°C/40番観自在寺→柏あたり/京都散策/走行距離12km/累積距離27km/サリーナ

圓光寺の庭圓光寺の庭

四国八十八ヶ所は愛媛編が始まりました。4県の中で最長の533kmですが、高知編に引き続き8名がエントリー。元気出して行きましょう!

まず最初の札所の観自在寺は、一番霊山寺から最も遠い『四国霊場の裏関所』です。 平城天皇の勅願所として弘法大師が807年に開いたとのこと。山号は『平城山』、門前町も『平城』という名前で参道には昔ながらのいい雰囲気が残っているようです。

さて、実走は歩きで京都の北山あたり、圓光寺、詩仙堂など静かな界隈を巡りました。 圓光寺は紅葉が特に有名ですが、陽光に輝く緑のもみじも美しく、紅葉の風景を想像するのも楽しいものです。紅葉はまだ先ですが、桔梗の花やススキなど小さな秋も感じられました。

2021年10月01日(金)晴れ/24°C/40番観自在寺→宇和島城手前あたり/珠洲市散策/走行距離50km/累積距離50km/ナオボー

湯宿さか本湯宿さか本

愛媛編の最初のレポートは遡って10月1日、能登半島の最北端の珠洲市を数時間かけて散策しました。偶然にも「奥能登国際芸術祭スズ2020+」の開催中(21年9月24日~10月24日)だったので、いくつかの作品を鑑賞しました。

宿は湯宿さか本に二泊三日滞在。使う水は敷地内に自噴、源泉の温度は17℃、客室3室、部屋には電話もテレビもない。食事は旬の地のものを素材にし、素材のそのものの味を確かめながらの美味しさ。10月1日から松茸づくしのご馳走でした。地球の温暖化を受け、松茸が年々穫れなくなってきているとのこと。

実は2019年12月Peace Boat に参加した時、船上の図書コーナーで「坂本菜の花の沖縄日記」の本を読み、彼女の実家のある珠洲市に行ってみたいとの思いが実現しました。「湯宿さか本」で菜の花さんに会いました。

2021年10月03日(日)晴れ/宇和島市中央部/境川コース/走行距離15km/累積距離47.5km/シロスキー

遊子水荷浦の段畑遊子水荷浦の段畑

少し楽になってきたので以前と同じ境川コースで歩いております。

宇和島市の左海に突き出した半島の先に“遊子水荷浦の段畑”があります。

2016年3月の写真です。千枚田とはまた違った美しさです。

2021年10月04日(月)晴れ/18°C/宇和島城→第42番佛木寺/上野コース/走行距離15km/累積距離75km/サイダー

小石川植物園とその前の通り小石川植物園とその前の通り

愛媛編が始まり一週間が経ちました。真夏だった高知編と違ってここに来て気温はぐっと下がり、走りやすい日が続いています。というわけで滑り出しは快調です。

この日は宇和島城を出て第42番の佛木寺まで走りました。宇和島城は築城の名手・藤堂高虎により創建され、のちに宇和島伊達家10万石の居城となった城です。当初の天守は1601年(慶長6年)に築かれましたが現在のそれは1666年頃に建て替えられたもので、現存する12天守の一つとなっています。城があるのは宇和島の市街地の標高80mの丘陵地です。実際には見たことはありませんが、なかなか良さそうですね。

さて、私の実走デイリーコースは文京区小石川の播磨坂から上野公園、不忍池あたりを巡って戻ってくるというものです。小石川は地名でその名の由来については、『江戸砂子』に「小石多き小川幾筋もある故小石川と名づけし」とあります。そしてかつてここには小石川あるいは礫川(こいしかわ、れきせん)と呼ばれる川が流れていました。播磨坂はその北東端で千川通りにぶつかります。千川通りの名はこのあたりを流れていた千川という川から来ているものと推察されますが、この千川とは時代が下った小石川の呼び名です。

千川とは別に江戸時代に第5代将軍徳川綱吉が引かせた千川上水というものもありますからかなり紛らわしいですね。千川上水の開削の目的は江戸北部の主要箇所への引水でしたが、その中の一つに綱吉の別荘であった小石川御殿がありました。この小石川御殿の跡地が現在の小石川植物園です。千川上水は玉川上水から分水され、巣鴨までは開渠、そのあとは地中に埋められた木樋により供給されました。この千川上水が廃止され、余水が小石川に流れ込んだため、いつしか小石川を千川と呼ぶようになったという説があります。

現在の宇和島城の天守ができたのは綱吉が将軍になる前で、まだ館林藩主だったころのことです。

2021年10月06日(水)晴れ/27°C/第42番佛木寺→第43番明石寺/地元 雷神社/走行距離15.5km/累積距離104.9km/マサキン

雷神社雷神社

内視鏡及びCT検査(胸部・腹部)の検査結果確認(オペ後5年間フォローの最終年でしたが、問題なく卒業でした(*^^)v)。で、病院に行った帰路に、地元鰭ヶ崎の雷(イカヅチ)神社に立ち寄りました。創建年代は不明ですが、1708(宝永5年)に再建されたとのこと。主祭神は別雷大神(雷を祭っているのは珍しいみたいです)です。当家の初詣は近場のここにしています。年頭に行われる「おびしゃ」(その年の吉凶を占ったり、豊作を願ったりする)神事は300有余年の伝統があり、流山市指定無形民俗文化財になっています。

さてお遍路ですが、第42番佛木寺を過ぎて約14km、距離としてはそれほどでもないのですが途中には峠道の難所もあります。明石寺の麓、宇和町は昔の宿場町の面影があります。うだつ・格子・白壁これらは江戸から明治の趣が漂い、県の文化の里として保存されています。宇和島藩の在郷町・宇和島街道の宿場町だった卯之町の町並み、高野長英の隠れ家、1882(明治5)年に建築された小学校校舎開明学校、1928(昭和3)年建築の旧宇和町小学校を移築した宇和米博物館(109mの長い廊下で行われる雑巾レースが有名)等が点在しています。

難所の峠道(歯長峠)を越え、辿り着いた第43番明石寺(メイセキジ)は、威風堂々たる山門がそびえる四国霊場の「本関所」、八十八ヵ所の中でも数少ない天台寺門宗のお寺です。寺の名は、元は「あげいしじ」でした。太古の時代、女神が願を掛けるために夜中に大石をお寺に運んでいたところ、いつしか夜が明け、女神は驚いて去っていったという言い伝えがあります。本尊は千手観世菩薩像、脇物は不動明王と毘沙門天です。1672(寛文12)年に建てられた唐破風造り(左右が反り、中央が膨らんだ形の屋根は宮殿を思わせる)の本堂は見ごたえが充分です。

2021年10月07日(木)曇り/25°C/43番明石寺あたり/中野~新宿西部ひとめぐり/走行距離16km/累積距離91km/マージコ

西光山自性院猫地蔵西光山自性院猫地蔵

予讃線を渡り、43番明石寺(めいせきじ)まで来ました。明石寺にはしあわせ観音像というのがあります。家内安全を祈ってお賽銭、お賽銭を3枚入れると3倍の幸せが在るとのことです。

さて本日は青梅街道に出て中野坂上から神田川に入り、下落合を抜けて新青梅街道経由で家に戻ります。16kmでした。

家を出ると懇意にしている蕎麦屋さんのご夫婦に会い立ち話。私:「この辺も変わりましたねーこの先の大きな駐車場昔何ありましたっけ?」 ご主人:「銭湯ですねー」 私:「あっ、そうですそうです!子供の頃なので記憶の穴になってました。」  なんてほっこりとお話してスタート。

最初行ったのは、西新宿の成子天神社、正月のジオポタで富士塚で回ったところです。ビルの谷間にあるのですが、きれいな神社です。

神田川沿いに入ると後ろから外国女性が颯爽と私を追い抜いていきます。下落合を抜けて新青梅街道に入るといつも気になってましたが、猫地蔵堂入口の看板あってその脇に小判を抱えた猫が。ちょっと違和感を感じるお地蔵様です。なお奥の猫地蔵堂という建物の中に、御本尊の猫地蔵が祀られています。

のんびりと周回してきました。

2021年10月11日(月)晴れ/22°C/内子町→/上野コース/走行距離15km/累積距離150km/サイダー

簸川神社の鳥居と千川改修記念碑簸川神社の鳥居と千川改修記念碑

愛媛は内子町を出て第44番の大寶寺に向かっています。内子町はかつて木蝋(もくろう)の生産で栄えたところだそうで、八日市通りにはその原料となるハゼの木の流通で財をなした商家などが立ち並んでいます。1916年(大正5年)建築の芝居小屋内子座もいいですね。

実走コース紹介の続きです。小石川植物園の前の通りを北西に進むと植物園がおしまいになったすぐ先に簸川神社(ひかわじんじゃ)があります。この神社は以前は氷川神社でしたが、「氷川」は出雲国の「簸川」に由来するということから、大正時代に簸川と改められたそうです。氷川神社は川の近くにあることが多く、ここのすぐ側に千川(小石川)が流れていたことと関係があるのかもしれません。

このあたりは明治末頃まで「氷川田んぼ」と呼ばれた場所で、洪水が多かったため、千川は暗渠化され1934年(昭和9年)にその工事が完成します。簸川神社の鳥居の横には千川改修記念碑が立っています。

2021年10月16日(土)曇り/20°C/松山城→第52番太山寺/地元 大宮神社/走行距離18.7km/累積距離242.6km/マサキン

大宮神社大宮神社

太極拳(会場:平和台福祉会館)の帰路、隣接する大宮神社にお参りしました。初めてですが参道も結構長く、中々に立派な神社です。祭神は天宇受女命(アメノウズメノミコト)で、創建は建長年間(1249~1256)鎌倉時代と思われるが詳らかではありません。この神様は神話で有名な天の戸開きの時に、天人和楽の舞をされた神であり、芸能と夫婦和合の神として古来より信仰が篤かったようです。

さてお遍路(伊予の国)ですが、松山城を経て第52番太山寺(タイザンジ)に来ています。 松山城は初代藩主加藤嘉明が慶長7(1602)年から四半世紀をかけて標高132mの勝山山頂に築いたもので、その複雑で堅固な造りから難攻不落の名城(天守を含め、21棟もの重要文化財)として有名です。松山城へは山麓から8合目まではロープウェイかリフトが便利です。

瀧雲山太山寺護持院への道のりは、観光的な雰囲気の温泉街から官庁のビジネス街を通って、急勾配の瀧雲山の中腹まで登っていきますが風景の様変わりはタイムスリップしていくような不思議な感覚です。平安後期から歴代の天皇の帰依を集めたといわれる太山寺の創建者は豊後国の真野長者、用明2年(586)長者がこの近くの沖合で暴風雨に会い、観音菩薩に祈って海難を逃れました。長者はそのお礼として自国で木組みした建材を運び一夜で建立したと伝えられています。境内の長者堂は真野長者を祀り、彼は貧しい孤児で炭焼きをしていたが三輪明神のお告げで久我大臣の娘と結婚、金脈を発見し長者になったとのことです。本堂は嘉元3年(1305)に建てられた国宝、入母屋造りの本瓦葺き、四国霊場の中では二番目に古いと言われてます。

2021年10月18日(月)晴れ/14°C/第45番岩屋寺→第46番浄瑠璃寺/上野コース/走行距離15km/累積距離210km/サイダー

千川が流れていた千石二丁目の通り千川が流れていた千石二丁目の通り

涼しくなってきました。今朝はいつもよりかなり遅く9時近くの出発となりましたが、気温は14°Cしかありませんでした。

今日の伊予の遍路旅は45番の岩屋寺から46番の浄瑠璃寺までです。岩屋寺は久万高原町七鳥という、住所からしてもいかにも辺鄙な山奥に立っています。すぐ側をr210美川川内線が通っていますが、そこからお寺の存在を確認することはできません。鬱蒼とした針葉樹林の中を300mほど行くと山門があり、そのうしろに長い石段が続いています。これをどんどん上って行くとあまり大きくない本堂の前に辿り着きます。この本堂のうしろにはそれはそれは巨大な岩が聳えています。本堂はこの巨岩と一体のものと考えられます。とにかくここには圧倒的な景観があります。

さて、現実界の走行は前回に引き続き『千川』の話を。簸川神社の前の道を北東へ進むと急に幅員が狭まり、細かなカーブを描くようになります。農業環境技術研究所の地図を見ると、千川の下流部は現在の千川通りを流れていましたが簸川神社の前で折れ曲がっており、上流部はこの道を流れていたようです。コース中盤に通る不忍池にかつて流れ込んでいた藍染川のあとであるヘビ道にここはよく似ているので、もしかしたらと思っていたのですが、どうやらここを千川が流れていたことは間違いなさそうです。

2021年10月18日(月)晴れ/7°C/44番大實寺手前→/白馬村岩岳散策/走行距離30km/累積距離162km/ナオボー

白山連峰白山連峰

スタート地点は長野県北安曇郡白馬村「岩岳ゴンドラリフト・ノア」に乗り、岩岳マウンテンリゾート散策しました。ノルディックポールを持って女3人、絶景の白馬三山を眺めながら、正規のルートを反れて小道をクネクネと3時間ほど歩きました。今年は温暖化に因り紅葉はまだでした。

毎年行っている常宿の「あぜくら山荘」の主によると、例年は今頃は紅葉が盛りなのに、今年は山頂でもまだ始まっていないとのことです。先日小旅した石川県珠洲市の「湯宿さか本」でも、温暖化により敷地内で穫れる松茸が小粒になったと話されました。都市に住んでいると温暖化に因る自然の変化は実感し難いですが、すごいことが進行しているのですね。

話は反れますが、「グレタ ひとりぽっちの挑戦」の映画が上映されます。世界で最も有名な15歳の環境活動家グレタ・トゥーンベリさん。「誰も知らない本当の姿がここにある『私はたたかう、一人で』」のドキュメンタリーです。

四国八十八ヶ所めぐりでの紅葉はどうでしょうか。案じています。

2021年10月20日(水)晴れ/22°C/第44番大寶寺→第45番岩屋寺/高田馬場コース/走行距離18km/累積距離203km/マージコ

諏訪神社の石神様諏訪神社の石神様

昨夜孫生まれホッとしまして、少しだけ足を延ばすことにしました。今日は昨日より7度高く風も強めですがよい天気です。早稲田通りに出てまっすぐ高田馬場を目指しました。

高田馬場は私にとって青春時代過ごした懐かしい場所です。高校、大学と7年間通いました。駅から歩いて途中諏訪神社脇を抜け明治通りに出る通学路です。高校は明治通り沿いにありまして隣が某有名女子短大。通りを挟んでの左側に大学と大変によい環境でしたが、塀の向こうの短大は、守衛さんにがっちり守られてて高嶺の花でした。当時の高校は陸軍戸山学校の厩舎をそのまま改築したと聞きました。確か細長い2階建ての木造校舎で、鉄筋の校舎が主流になって来た時代なのに、取り残された感じのする伝統たっぷりの学校でした。

諏訪神社も健在でした。見ざる聞かざる言わざるの石神様もそのままありました。校舎はさすがに鉄筋で建て直されていましたね。クラブ活動帰りに寄った甘味処と駄菓子屋はなくなってました。足を少し延ばして箱根山に登って来ました。ジオポタでも行きましたね!懐かしいです。(ここに陸軍戸山学校がありました) 確か近くにマコリンの職場?ご挨拶の寄り道はせず、酉の市で有名な穴八幡神社に行きました。とてもきれいな神社で毎年大晦日には大変な人出があります。

今日は通学路をタイレルで走って昔にタイムスリップしてきました。マサキンに置いて行かれないように、頑張って走りましょう。

さて愛媛は少し前に戻りますが、私の記憶に残っているのは内子町の内子座です。昔の四国旅行で歌舞伎小屋を初めて見て感動しました。地方でこんなにも歌舞伎が愛されていたと知ってビックリしました。その後ジオポタでも行った生田緑地にも歌舞伎舞台がありました。伝統芸能っていいですねー!

年内は家内行事やら続いてドタバタしそうです。

2021年10月20日(水)晴れ/18°C/第48番西林寺→第49番浄土寺/兵庫県庁周辺/走行距離4km/累積距離223km/サリーナ

相楽園の船屋形相楽園の船屋形

四国は山道のアップダウンを終えて、松山平野にたどり着きました。第48番西林寺は、寺院の南西250mほどのところに奥の院があり、そこの『杖ノ淵(じょうのふち)』という池は、やはり弘法大師が杖で清水を湧出させたものだとか。そして第49番浄土寺には、1484年築のどっしりとした本堂内に空也上人立像があります。空也上人立像といえば京都の六波羅蜜寺のものが有名ですが、こちらも口から6体の阿弥陀如来が現れる姿が印象的。

実走は、神戸市をぶらりと散策し(徒歩です)、兵庫県庁の北に相楽園というステキな庭園を見つけました。明治時代につくられた邸宅の庭で、敷地面積は約2万㎡。まずは入口の重厚な門に驚かされます。入場料300円を払ったら、蘇鉄の茂る小道を通って厩舎と洋館へ。洋館は『旧ハッサム邸』、異人館街の北野町から移築したものだそうです。

そして池泉回遊式日本庭園を歩けば、池のほとりには漆塗の珍しい『船屋形』が。これは江戸時代、姫路藩主が河川での遊覧に使っていた『川御座船(かわござぶね)』の屋形部分なのだそうです。

相楽園ではこの日から菊花展も開かれており、ゆっくり庭を楽しんだ後は、すぐ近くのタイ料理レストランへ。サラダ、つまみ、スープにカレーのランチがとても美味しく、大満足の散策でした。

2021年10月23日(土)晴れ/気温19°C/第44番大寶寺→第48番西林寺/千住あたり+向島あたり/走行距離42km/累積距離216km/ミルミル

大橋眼科医院大橋眼科医院

今日は天気が良くて気持ちいいので、あまり調べずに足の向くまま気の向くまま出発しました。都内に行く時よく通る千葉街道から蔵前橋通り、小岩で奥戸街道へ。

かつて「千ベロ」(千円あればベロベロに酔える)の聖地と呼ばれた立石を通り過ぎます。駅周辺の大規模な再開発計画にコロナも手伝ったのか、それとも単に昼間だからなのか、シャッターの閉まった小さい店が目立ちました。

堀切も通り過ぎて荒川を渡ったら、千住です。旧日光街道沿いの宿場町通り商店街は人気の店も多くところどころプチ行列が。私は昭和27年創業という「かどや」の槍かけ団子(餡)をいただきました。しっとりした餡にほのかな塩味が感じられ、団子の柔らかさもちょうど良く、とてもおいしゅうございました。

商店街を進むと「千住 街の駅」という案内所があり、入り口わきに由緒ありそうな建物の写真が何枚も飾ってあります。建物の所在が書かれた簡単な地図をもらって何カ所か行ってみましたが、一番素敵だったのが大橋眼科医院です。

大正初期の1917年に建てられた建物は老朽化により取り壊されましたが、1982年に元々の建物のイメージを引き継ぐ形で再建されたのが今の建物です。当時の医院長が長年にわたって各地で集めたアンティーク建物の部材を集めて取り入れたそうです。この医院は今年の2月か3月に閉業したとのことで、建物の今後が気になります。

四国は第48番西林寺にたどり着きました。山道を抜けて街中に入るとホッとします。

2021年10月25日(月)曇り/12°C/今治→大島/上野コース/走行距離15km/累積距離296km/サイダー

猫又橋の親柱の袖石猫又橋の親柱の袖石

10月の中旬から急に気温が低くなってきて、今朝は12°Cしかありませんでした。寒い、ぶるっ!

伊予の旅はちょっと寄り道で、今治から来島海峡大橋を渡って大島に上陸しました。この道はサイクリストに人気の『しまなみ海道』です。来島海峡大橋は世界初の三連の吊り橋で、その総長はなんと4kmを超える長大なものです。長い長〜いこの橋からは青い海とそこに浮かぶたくさんの島が見え、なんとも素敵です。今回の大島はまず島の西側のr49を使って海岸線を行きます。しまなみ海道は最短で走れば一日で本州から四国に渡れますが、いろいろな島をゆっくり巡るのがお薦めです。

さて、現実走行案内は『千川』の続きを。かつて千川が流れていたうねうねした細い道を行くと不忍通りに出ます。その不忍通りは坂道で、これを『猫又坂』と言います。ここにはかつて架けられていた猫又橋の親柱の袖石が立っています。現地の解説板には、むかし、木の根っこの股で橋をかけたので、根子股(ねこまた)橋と呼ばれた。 とありさらに、夕暮れ時・・・道心者(少年僧)がこの橋の近くに来ると、草の茂みの中を白い獣が追ってくるので、すわ狸かとあわてて逃げて千川にはまった。それから、この橋は、猫貍(ねこまた)橋(猫股橋)と言われるようになった。猫貍は妖怪の一種である。 とあります。木の根っこの橋がその音から妖怪に結びつけられたというわけですね。

千川の水源は豊島区の粟島神社の弁天池ですが、千川上水の長崎村分水が有楽町線の千川駅付近から樋で落とされ、これに合わさっていました。この上流部の流れは谷端川(やばたがわ)と呼ばれ大塚あたりから下流を千川と呼んでいたようです。小石川(河川)の呼び名はこれら千川や谷端川の他にも氷川(ひかわ)、小石川大下水などがあり、とてもとても難しいです。

2021年10月28日(木)晴れ/17°C/第53番圓明寺→第54番延命寺/杉並コース/走行距離12km/累積距離274km/マージコ

立法寺の鳳凰門立法寺の鳳凰門

今日は昨日とは違い気持ちのいい天気なので、ひとまわり。いつもの和田堀公園第二競技場を周回し、立正佼成会大聖堂の裏を抜け、救世軍ブース記念病院前の立法寺(りゅうほうじ)に立ち寄りました。

立法寺は前々から気になっていたのですが、1506年に赤坂で創建、現在地へは大正の初めに移転しました。境内には、葛飾北斎の門人であった浮世絵師・魚屋北渓(嘉永三年1850没)の墓があります。日蓮宗のお寺ですが、山門(鳳凰門)がすごいです。前面に仁王像、後面に毘沙門天と持国天像、圧巻です! あと本堂の背後がこれまたすごいです。二重の塔が屋根にせり出していまして、宝塔と呼ぶらしいですが見たことのない造りです。

ご近所にはクッキーさんやレイ・レイナさんの生活圏があって結構朝練コースが被ることがあります。(この辺りはクッキーの生活エリアをかすめてるかも?) その後は蚕糸公園を経て家に戻りました。

四国はもう少しでしまなみ海道に入ります。道後温泉浸かって行きたかったんですが、残念次回にしましょう。

2021年10月31日(日)曇り/14°C/大三島→伯方島/上野コース/走行距離18km/累積距離360km/サイダー

網干坂網干坂/右手が小石川植物園

伊予は大三島の東岸を南下して生口島に渡る美しい斜張橋の多々良大橋の下をくぐり抜け、大三島橋を渡って伯方島に入りました。開山公園からはその多々良大橋と生口島がきれいに見えます。

さて、本日の実走コース案内は小石川植物園の北西に隣接した網干坂です。小石川の千川通りと白山の白山通りはともに谷で、その間に位置する小石川植物園のあたりは小高くなっています。つまりこのゾーンには坂道がたくさんあります。その中で網干坂を紹介するのはその名に興味を持ったからです。現地解説板によると、

むかし、坂下の谷は入江で舟の出入りがあり、漁師がいて網を干したのであろう。明治の末頃までは千川沿いの一帯は「氷川たんぼ」といわれた水田地帯であった。

とあります。小石川植物園では貝塚が発見されていますし、江戸の地誌『江戸砂子』には、入り江に入ってくる船を繋ぐために御薬園(現小石川植物園)の中に舟繋松(ふなつなぎのまつ)があったことが、さらに『改撰江戸志』には諏訪町(現後楽二丁目)に船宿があったことが書かれているそうです。

今日ではまったく想像が付きませんが、かつてこのあたりは海だったということですね。

2021年11月5日(金)晴れ/22°C/第64番前神寺→第65番三角寺への途中/地元 流山本町/走行距離19.6km/累積距508.1km/マサキン

流山本町 寺田園旧店舗流山本町 寺田園旧店舗

良い天気なので、太極拳の帰路、流山本町に立ち寄りました。

寺田園旧店舗は国登録有形文化財になっています。旧店舗は大通りに西面して建ち、黒漆喰仕上げの土蔵造りで、二階建て寄棟造り、平入瓦葺きです。寺田園が所在する江戸川沿いの流山本町大通りは、江戸時代から明治時代にかけて、米などが集積された江戸川の水運業やみりん醸造業で栄えました。寺田家は流山村の六軒百姓の一つで、明治30年代の町並みには「寺田茶乾物屋」とあり、昭和38年に移転するまでは店舗として利用されていました。

さてお遍路ですが、第64番石鉄山前神寺金色院をお参りして、伊予路最後の札所第65番三角寺(残り距離10km)に向かっています。第64番前神寺は石鎚山の麓にあります。石鎚山は標高1982m、西日本で一番高い山です。ここは山岳修験の道場として、日本七霊山の一つに数えられ、古くから信仰(石鎚山信仰で病気平癒の霊験あらたかとのこと)を集めています。

2021年11月6日(土)晴れ/16°C/しまなみ海道/新宿~池袋・お砂踏みコース/走行距離20km/累積距離391km/マージコ

放生寺のお砂踏み場放生寺のお砂踏み場

四国はしまなみ海道を、大島、伯方島、大三島と回り、大島へと戻ってきました。瀬戸内海にこんなに一杯の小島があったなんてビックリ、晴れ渡る瀬戸内海の景色を満喫しました。

さて朝練は穴八幡の隣の一陽来復で有名な放生寺に、お砂踏み場があったことを思い出し行きました。弘法大師像の回りに札所のお寺の石版があってひとまわりすると四国お遍路ができるようになってました。

そのあと安田講堂の前を走ると学生で賑わってました。どうやら大学祭が開催されているようでした。

その足で椎名町の金剛院に行きました。ここにもお砂踏みがありましたが、大師像の四隅の石柱に四国4方面のお砂が入っており、お寺を掃除していた寺の人に聞くと、一周するとやはり四国お遍路ができるとのことでした。門の脇に「赤門テラスなゆた」があり正月も開いていて、お寺ごはん弁当が食べられるようです。

2021年11月8日(月)曇り/15°C/今治城→第59番国分寺/上野コース/走行距離15km/累積距426km/サリーナ

上野不忍池のユリカモメ上野不忍池のユリカモメ

いつもの上野コース途中の不忍池。10月終わり頃から渡り鳥がやってきて、立ち寄るのが毎朝楽しみです。最初に来たのはカモの仲間で、キンクロハジロやオナガガモなどが群れて泳いでいましたが、今日はついにユリカモメが数十羽到来。定位置の柵の上が満杯で、取り合いになっていましたよ。

さて、四国はしまなみ海道や今治城を過ぎて、59番の伊予国分寺にたどり着きました。伊予国分寺の現在の境内は伊予の国府があった場所で、かつての境内は150mほど東にあり、塔の礎石が残っています。また近くの国分山城(こくぶやまじょう)という古い城跡には今治藩主の墓所もあるそうで、歴史を感じながら散策してみたい界隈ですね。

2021年11月11日(木)晴れ/13°C/第61番香園寺→第64番前神寺/上野コース/走行距離15km/累積距離478km/サイダー

無縁坂無縁坂/左が旧岩崎邸

伊予は西条市の予讃線に沿ったあたりで、ここにはいくつかお寺が固まってあります。本日最後に訪れた第64番の前神寺は背後に霊山石鎚山(標高1,982m)を控えた霊場で、修験道の根本道場だそうです。本堂は両袖に回廊がある完全シンメトリーな造りで厳か。道場という雰囲気が確かに感じられます。

さて、実走コース紹介は上のサリーナの写真にある不忍池から西に入ったところの無縁坂を。この坂の名は現地解説板によれば、傍にあった無縁寺(現講安寺)に因んでいるそうです。左手に見えるのは三菱財閥の岩崎邸だったところで、石と煉瓦の塀がそそり立っています。

無縁坂は森鴎外の『雁』に登場します。これは語り手の「僕」の東大医学部の同級生「岡田」と高利貸しのお妾さん「お玉」の叶わぬ恋の物語ですが、無縁坂は岡田の日日の散歩コースになっており、お玉の家はこの坂の途中にありました。

無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。それから松源や雁鍋のある広小路、狭い賑やかな仲町を通って、湯島天神の社内に這入って、陰気な臭橘寺の角を曲がって帰る。しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。

無縁坂の上には僕と岡田が通った東大医学部の鉄門があり、2人はその近くに下宿していました。ちなみにかつての東大医学部本館は現在は小石川植物園内に移築保存されており、10月31日付の写真にちらっと写っている朱色の建物がそれです。

2021年11月12日(金)晴れ/17°C/64番前神寺~65番三角寺/平林寺コース/走行距離30km/累積距離513km/マージコ

平林寺総門平林寺総門

四国は、64番札所前神寺~65番札所三角寺の間を走っています。JR予讃線を走る特急「しおかぜ」がいい感じです。特急の向こうに広がる瀬戸内海の青い海を左手に見ながらとても気分良く走れています。

今朝は午前中に少し時間が取れそうなので、足を伸ばして平林寺まで行ってきました。いつも行く道とは違って石神井公園を抜けてショートカット気味に関越道の側道に出て北上しました。紅葉は少し早かったです。境内には入らず一周して帰ってきました。

マサキンさんに背中を押され、ここ3日間で80kmと頑張りました。あと20km、もう少しです!

2021年11月16日(火)晴れ/15°C/第55番南光坊→第59番国分寺/地元 舞子公園から旧木下家住宅/走行距離25.0km/累積距425.5km/ナオボー

旧木下家住宅と前庭旧木下家住宅と前庭

いつもの舞子の浜コースの北寄りにある「旧木下家住宅」へ向う。

旧木下家住宅は、もとは又野良助氏が私邸として昭和16年に竣工した数寄屋造近代和風住宅。この建物が建てられた頃は既に戦時下の統制が始まっており、満足な材料をできない中で、様々な工夫を重ねて建設さた。戦後、昭和27年に木下家(木下吉左衛門氏)の所有となり、昭和28年頃に土蔵を移築、昭和30年に納屋の増築などを経て、今日の姿になる。

平成12年に故木下吉次郎氏のご遺族から兵庫県が寄贈を受け、阪神・淡路大震災以後、姿を消しつつある阪神間の和風住宅の中で、創建時の屋敷構えをほぼ完全に残す貴重な建物として、平成13年12月に国の登録有形文化財に登録された。前庭と中庭には創建時の庭造りの様子が残っており、隣接する舞子公園と融合した緑豊かな佇まいである。

お遍路はいつの間にかしまなみ海道を通過していた。しまなみ海道は1999年に開通時にサイ・サリさんとチューボーと4人で走りました。上り坂がきつかったこと、たくさんの小さい島々を眺めながら走ったことを記憶しています。

2021年11月26日(金)/第65番三角寺→ゴール/累積距543.8km/シロスキー

川之江城址川之江城址

シロスキー本日第三ステージ完走です。海辺から山道に入り、三角寺を超え真鍋屋住宅を超え県境に到着しました。

5年前には海岸近くの”川之江城址”に行っています。

又、真鍋住宅は平家の落人の部落の言い伝えもあり、平家ロボットが説明をしています。

第3ステージ順位

順位 選手名 タイム ギャップ
1 マサキン オドリゲス 43days -
2 マージコ バウリーニョ 47days +4days
3 サリーナ チッポリーナ 49days +6days
4 サイダー レモン 52days +9days
4 ミルミル バウア 52days +9days
6 ナオボー イーストンバーガー 57days +14days
7 シロスキー クアルターナ 60days +17days
- マコリン ベルナール リタイア

総合順位

順位 選手名 タイム ギャップ
1 マサキン オドリゲス 116days -
2 サリーナ チッポリーナ 122days +6days
3 マージコ バウリーニョ 123days +7days
4 サイダー レモン 142days +26days
5 ミルミル バウア 145days +29days
< 第2ステージ 高知編 四国八十八ケ所 TOP 第4ステージ 香川編 >
ヴァーチャル自転車ツアー GEO POTTERING home