今日は昨日と打って変わって快晴。清々しい朝。
昨日、日光から細尾峠を越えて足尾まで下り、ここ、群馬県の上神梅(かみかんばい)までやってきた私たちは、かつて銅山関係者のために作られたらしい鄙びた鉱泉宿に泊まりました。朝風呂を浴びて、たっぷりとした朝食をいただいたら出発です。
今日は渡良瀬川沿いに茨城県の古河まで。川の上流から下流に向かうので、当然下りのラクチンコースです。
宿の前には昨日その旧道を走った、日光から続くR122が通っています。これをほんのちょっと行き、上神梅駅からカントリーロードに入ります。
上神梅駅のすぐ南で渡良瀬川を渡ります。
ここの渡良瀬川はまだ渓流といった風情です。
畑の中を抜けて進んでいくと、道はr334になります。
このあたりで渡良瀬川は谷のかなり深いところをを流れるようになります。
右手に山頂付近を赤く染めた山が現れました。赤城山です。この山の名前の由来は知りませんが、こうやってみると本当に赤いです。赤城山は紅葉でも有名なので、あの赤はそれによるものでしょう。
今日の出発地の上神梅は、あの赤城山の麓にあります。
このあたりはちょっと森っぽくて熊が出てきそうな雰囲気。
森を抜けると右手に白い三角形の橋が見えてきます。ここで上り出した道を逸れその橋まで下ると、そこは大間々の高津戸峡です。ここは紅葉の名所ですが標高が低いので、木々はようやく色付き始めたばかりで見頃はまだまだ先です。
下を流れているのはもちろん渡良瀬川ですが、このすぐ上に高津戸ダムがあるため、ここは水量がぐっと少ないのです。
『ここはなかなかいいところね〜』 と左のサリーナ。
『上のダムのところはきれいじゃないですが、こっちはきれいですね〜』 と真ん中のサトちゃん。
『紅葉が進んだらここはきれいなだろうな〜、あと二週間くらい先かなぁ。』 と紅葉の読みをする右のマージコ。
高津戸峡を眺めたら、桐生に下りその入口に架かる赤岩橋を渡ります。
桐生側の左岸にはしばらく道がないのです。
ここまで来ると後ろに見える赤城山の全容がはっきりします。
赤城山は一つの大きな火山体の名であり、たくさんの峰から成っていて、その最高峰は黒檜山(くろびさん)の1,828m。ちなみに赤城山という名の峰はありませんよ。
赤岩橋でコンタが合流し、渡良瀬川の右岸に渡ったら、相生大橋のすぐ北で自転車道に入ります。
赤城山をうしろにし、サリーナ、コンタ、マージコと続く。
ところでみなさんは赤城山を何と読みますか。わたしは『あかぎやま』ですが、『あかぎさん』と読む方も多いでしょう。これはどちらが正しいということはないようですが、地元の人々は『あかぎやま』と呼んでいて、かつて国土地理院が『あかぎさん』と表記したのにクレーム付けて『あかぎやま』に直させたということがあったらしいです。
河川敷のグラウンドでは子供たちが元気にサッカーの練習をしています。大きな掛け声にこちらが元気をもらいます。
その先の北の山々は低いポコポコ山が続きます。
渡良瀬川の右岸の自転車道はこの先少し行くとなくなってしまうので、中通り大橋で左岸に渡ります。ここまで来ると渡良瀬川の河川敷はかなり広大なものになっています。
この写真の右に見える高層ビルが建つところが桐生の街です。
渡良瀬川の左岸には、中通り大橋の一つ上に架かる錦桜橋から桐生足利藤岡自転車道が始まっています。この自転車道には木陰はまったくと言っていいほどないのですが、境野のし尿処理施設のところだけは桜並木になっていて、ちょっと休憩するのに良さそうです。ここにはトイレもあります。
渡良瀬川に桐生川が流れ込むところで、自転車道は一旦桐生川沿いに入ります。
そして桐生川に架かる橋を渡って、再び渡良瀬川沿いに戻って行きます。
渡良瀬川に戻ったら、一路足利に向かってどんどこ行きます。うしろの赤城山はだいぶ小さくなってきました。
このあたりは視線を遮る物がなく、空がとっても広くて気持ちいい。
渡良瀬川は浅い流れで、その向こうに低い金山(かなやま)が見えます。面白いことにここの左岸は栃木県足利市で、右岸は群馬県太田市です。群馬県はこのあたりだけひょろ長く東にぐぐっと張り出してきているのです。
北には足利赤十字病院と広い五十部(よべ)運動公園が見えています。ここはかつて足利競馬場でした。
足利の中心部にやってきました。今日のコースは平地で距離もそう長くないので充分に時間があります。そこで足利の名所を二三巡ることにしました。
織姫橋交差点から両毛線をオーバーバスする橋を渡ると、正面に小高い山が現れ、その中腹に織姫神社が見えます。
今日はお天気なのであの神社から足利の街を見下ろすのも悪くないでしょう。ということで、まずは織姫神社へ。
石段をずんずん上ると朱色に塗られた社殿の前に辿り着きます。ちなみにこの石段は229段あるそうです。あでやかな社殿は宇治の平等院鳳凰堂をモデルにし、1937年(昭和12年)に完成したものだそうです。
織姫神社は縁結びの神様をお祀りしているとのことで、当然ながら七夕の織姫と彦星が連想されます。コンタによればこの神社の正面彼方の丘の上には彦星神社が建っているそうです。
『ここにお詣りすると、一年にいっぺんしか恋人に逢えないんじゃあないですかね。そんならお詣りしたくないかな〜』 とはサトちゃん。
しかしこの神社は古くからの織物の産地である足利の守り神でもあるそうです。
織姫神社からは足利の街が一望にできます。
まあこの街は、外見としては他の地方都市と変わったところは特別なさそうですが。
織姫神社の境内にそば屋があったので、ここで昼食です。観光地にある飲食店は一般的にはあまりおいしくありませんが、ここはその例外でした。
このさらしな系のそばは、真っ白でびっくりするくらい。おいしいですが量が少ないのが欠点。
お腹に空きがあるので、足利では有名な芋ようかんの舟定屋でデザートを。
芋ようかんはお土産にしてスイートポテトを試してみましたが、これはほんのり甘くてなかなかの味でした。
お腹が満ちたところで足利散策を続けます。足利の観光名所といえばやっぱり足利学校でしょう。
足利学校は日本最古の学校と言われています。その創建については奈良時代、平安時代、鎌倉時代など諸説ありますが、室町時代からの歴史は明らかになっているそうです。まあ実際のところ、この学校がいつからあったのかを知るすべはありませんが、とにかく遠い遠い昔からで、それは1872年(明治5年)まで続きました。
そんなこの学校の入口は入徳門で、扁額は1840年に掲げられたものだとか。
この門まで続く道はお寺の参道のような感じですが、入徳門は何だか正面の入口としてはかなり小さい気がします。それもそのはず、この門はかつて裏門だったものを移築したものと考えられているのです。
入徳門からまっすぐ進むと学校門、杏壇門があり、その先に孔子廟が建っています。この廟は江戸時代の1668年の造営で、明の聖廟を模したものと伝わります。
孔子廟があることからこの足利学校は、論語を基礎としていたことがわかりますね。
この孔子廟の奥に置かれていた孔子様は、現在は方丈の中で展示されています。
孔子廟に孔子様がいらっしゃるのは当然と思っていましたが、これが意外とそうではなく、日本では四箇所にしかおられないそうです。あの有名な東京お茶の水の湯島聖堂にはおられないというから、ちょっとびっくりですね。
孔子廟の右には茅葺き屋根の方丈と庫裡があります。
私は今から何十年も前にここを訪れたことがあるのですが、その時は足利学校はまったくといっていいほど記憶に残らないところでした。それは先ほどの孔子廟は別にして、このような重要な建物がなかったからです。これらの建物は江戸時代の絵図を元に1990年(平成2年)に復元されたのです。
方丈の入口には宥座の器(ゆうざのき)があります。バケツのようなものが吊り下げられていて、それは中身が空の時は傾いており、水を少し入れると垂直に立ちます。そしてたくさん入れるとひっくり返って水はこぼれてしまいます。
これは『満ちて覆らないものはない』という、孔子の中庸の教えを現したものだそうです。
足利でもっとも有名なお寺は足利学校のすぐ傍にある鑁阿寺(ばんなじ)でしょう。
鑁阿寺の参道はものすごい人で溢れていました。足利ってこんな観光地だっけかな、と首を傾げていると、みんなスマートフォンを片手になにやらやっています。聞こえて来る会話から、どうやらみなさん、ポケモンGOをやっているようでした。
足利と聞いて多くの人が最初に思い出すのは、室町幕府の初代征夷大将軍・足利尊氏ではないでしょうか。ここ足利市はその足利氏の発祥の地なのです。ちなみに尊氏は八代当主です。
このお寺は、足利氏二代目の足利義兼が鎌倉時代の1196年に屋敷内に持仏堂を建てたのが始まりと言われており、三代目の足利義氏が堂塔伽藍を建立し、足利一門の氏寺としたのだそうです。
足利は古くから織物の産地として有名で、徒然草にも出て来るとか。
旧木村輸出織物工場は足利で最も古い近代工場の一つで、平屋建ての工場棟は1892年(明治25年)の建築で、外壁は伝統的な土蔵造りなのに対して、この日は見られませんでしたが小屋組には洋式の洗練された骨組みが用いられているるそうです。奥に見える事務所棟は1911年(明治44)建築と伝えられ、珍しい木骨石造の2階建でルネサンス風の外観をしています。
旧木村輸出織物工場の横には、木村の表札が掛かった煉瓦の高い塀が巡らされた住宅が建っています。
足尾の主だった見どころを巡ったあとは福猿橋を渡り渡良瀬川の右岸へ。先ほどまで右岸は群馬県でしたが、足利周辺だけはなぜか栃木県です。これは足利の勢力が強かったということでしょうか。
ここが栃木県だからか、うしろの赤城山はすっかり小さくなってしまいました。
関東のほとんどのところではもう稲刈りは終わっていると思いますが、この田んぼは今まさに稲刈りの真っ最中です。
米の種類はかなりたくさんあるそうですが、これは相当晩稲のようです。
ここに来て赤城山に代わって存在感を増すのは、北にある日光の男体山です。あのごろっとした形は特別なものではありませんが、どっしりとした存在感があります。
矢場川を渡ると再び群馬県に入ります。ポンポコ狸の館林です。
すると進行方向である東に、関東平野の中にポツンとひとつだけの孤独峰・筑波山が見えてきます。
東北自動車道をくぐってどんどこ行くも、ここもまだ群馬県。群馬県っていったいどこまであるんだ!
渡良瀬遊水池が近づくと、横を流れる渡良瀬川はすっかり穏やかな流れになっています。
空に何か舞っています。猛禽類? 一瞬そう思わせたものの正体はグライダーでした。渡良瀬川の河川敷にグライダーの滑空場があるのです。
ここは次から次にグライダーが飛び立っては降りてきます。かつて空を飛んでいたマージコによれば、グライダーはエンジンがないのでとても静かで、上空では自分の風切り音がかなり大きく聞こえるそうです。しかしコックピットは密閉状態で狭いので大変暑くなるそうです。
かっこよく見えるグライダーにも、やっぱり苦労はあるのですねぇ。
しばらくグライダーの発着を眺めたら、さらに自転車道を進んで行きます。
このすぐ先で、東武日光線の渡良瀬川橋梁とr9佐野古河線の新開橋を続けてくぐります。この二本のトラス橋は並んでいて、そっくりな双子橋です。
新開橋の先で桐生足利藤岡自転車道はおしまいになります。
新開橋のさらに下流に架かる藤岡大橋の先は渡良瀬遊水池です。
その藤岡大橋をくぐって南に進路を変えてちょっと行くと、今度は渡良瀬遊水池を廻る自転車道に入ります。うしろに見ているのは大平山から馬不入山にかけての稜線です。
このあたりで渡良瀬川に巴波川(うずまがわ)と思川が流れ込みますが、この自転車道からそれは見えません。
一見きれいに見える渡良瀬遊水池は、昨日通った足尾銅山の鉱毒を沈殿させ無害化するために作られたものでした。
その中心はハート形をした谷中湖ですが、この湖底はコンクリートで固められていて水が溜められるようになっており、首都圏へ上水を供給する目的を持っています。
鉱毒を沈殿させることと上水を供給することは相反することのように思えるのですが、さて、どうなんでしょうね。
この日はここで大学の自転車関係のイベントがあったようで、大勢の自転車乗りがやってきていましたが、私たちが到着した時にはみんな引き上げの準備をしているところでした。
ここでコンタの自転車が変だというので見てみると、なんとハブがガタガタ。応急処置をして、ぎりぎりまでガタを取って再出発です。
谷中湖を廻ってその南端まで進んだら渡良瀬川の土手に上ります。この土手の上も自転車道になっていて、安心して進んでいけます。
ここからは本日の終着地の古河に向かいます。
私たちは渡良瀬川に架かる三国橋を渡り古河に入りますが、遊水池を抜けてきた渡良瀬川はこの少し南で利根川に合流します。
三国橋で思い出しましたが、渡良瀬遊水池はほとんどが栃木県に属しており、古河は茨城県、そして古河に渡る手前は埼玉県の加須市です。あれれ、さっきまで群馬県と言っていたけど、その群馬県はどうした? 実は群馬県はこのすぐ近くまで出刃って来ているのですが、ついに先ほどその引力圏から脱しました。それにしても群馬県、広し。
茨城県の古河はかなり歴史のある街で、万葉集にも詠まれているとか。
このあたりはかつて古河城が建っていたところらしくきれいに整備されており、歴史博物館や文学館などの文化施設があります。
今日は上りもダート道もないし、足利以外は特に見どころもなかったので、ここまでサクサク来てしまいました。
そんなんでまだ時間があるので、古河の街中にある小さな美術館を二つ覗いてみました。一つは古河街角美術館で、この時は坂東郷土館ミューズコレクション展が行われていて、横山大観や木村武山、下村観山などの大家の絵を見ることができました。
もう一つは世にも珍しい篆刻(てんこく)美術館。篆刻の美術館というのはここで初めて見たのですが、他にもあるのでしょうか。篆刻とは簡単に言えばハンコを作る行為で、主に篆書体という書体を彫ることからその名が付いたようです。つまり篆刻は、文字を描く書と、ハンコにその文字を彫る彫刻が結合した工芸美術とされています。ちなみにわたしは自分で彫ったハンコを持っていますぞ〜
古河市、こんな美術館を作るなんてちょっと凄いじゃあありませんか。
その古河の駅に向かえば、古い真っ黒な蔵の向こうに超高層のマンションが建ち、さらに先には、古河はこれと言うくらいに有名だという餃子の丸満本店が見えます。
古河に来た時には必ずここの餃子を買って帰るというコンタ御推奨の丸満で、ちょっと変わった揚げたような餃子を食しつつ、楽しかったこの二日間のポタリングを振り返るのでした。