暑い夏を白馬で涼む計画も6日目になりました。昨夜ユッキーがやってきたので今日は3人で白馬周辺のポタリングです。
コースは春にゆっくり散策できなかった伝統的建造物群保存地区に指定されている青鬼(あおに)集落をメインに、糸魚川から塩を運んだ千国街道(ちくにかいどう)にある興味深い千国の庄史料館と牛方宿を見学します。
まずは青鬼集落へ向かいますが、その前に大出の吊り橋に寄ってみましょう。
姫川沿いに出て、
大手の集落に入ると、
先に大きな兜造りの民家が見えてきました。
兜造りは屋根の形状が武士の兜に似ていることから名付けられたもので、寄棟造あるいは入母屋造の屋根の一部を切り取ったものです。多くの場合は妻側が切り取られるのですが、白馬村周辺では平側(桁行側)が切り取られる『平兜造り(ひらかぶとづくり)』と呼ばれるものです。屋根を切り取るのは江戸時代中期以降に盛んになった養蚕のために、屋根裏の採光と通風を確保するためです。
この兜造りの民家のすぐ南に大出の吊り橋は架かっています。
大出の吊り橋の横は大出公園になっており、小高いところに白馬三山が眺められる展望所がありますが、この日はご覧の通りの天気で眺望はないので上には行かず、姫川の畔で一服。
大出公園で一服したら青鬼集落へ向かいましょう。
このあたりには大型の茅葺き屋根(鋼板被覆を含む)の民家がいくつか残っています。
姫川沿いを北へ向かうと橋が見えてきました。
気温が高いのか、ここの姫川はちょっと靄ったようになっています。
吊り橋の押込橋です。対岸には大出公園と繋がる遊歩道が整備されているはずなのですが、渡ってみると草茫茫で進入禁止になっていました。
橋と遊歩道を整備はしたものの、その後利用率が上がらず自然と廃道になったのでしょう。
押込橋の先で田んぼに出ました。
すくすくと成長した緑色の稲が美しい。
『素敵な緑色ねぇ〜』 と、この田んぼに感動するサリーナ。
ほどなく松川大橋で松川を渡ります。
この西には晴れていれば白馬三山がその雄大な姿を見せるのですが、この日は残念。
松川はこのすぐ下で姫川に合流し、姫川となって糸魚川へ向かい日本海に流れ込みます。
松川大橋から道は徐々に高度を上げて行きます。姫川と田んぼが下に見えるようになると、前方に姫川第二ダムが姿を現します。
青鬼の集落は今正面に見えている小高い山の右手奥にあり、そこへのアプローチ道が僅かに見ます。集落そのものはこの辺からはまったく見ることができません。
姫川に架かる朱色の通橋(かようばし)までやってきました。
姫川の上流側は先ほど見えた姫川第二ダム。
下流側に架かるのは大糸線の第一姫川橋梁。
この通橋から青鬼集落への上りが始まります。
青鬼集落までは1.8kmで120mの上り。平均勾配6.7%。平均を見ると大したことはなさそうですが、短い区間ですが最大斜度はきついので厳しい印象があります。
この上り始めは八方尾根など西の眺めがいいです。
八方尾根は山の上部が雲に覆われていても、下の方のスキー場ですぐにそれとわかります。
激坂区間は終盤に現れます。ノンスリップ仕様の舗装が現れるのですぐにそれとわかります。
この激坂区間は100mほどなので押してもまったく問題ありません。
この区間が終わると坂の上にこんな屋根が見えます。
青鬼集落に到着です。
そしてこのお宅の前を通り過ぎると小さな田んぼがあり、その向こうに鋼板で覆われた大屋根の民家が3軒見えてきます。
青鬼地区の中には一般の車は入れないようになっており、入口に駐車場があります。
私たちもここに駐輪させてもらって、ここからは徒歩で集落内を散策します。
駐車場から見るとその奥に立つ家々はほとんど屋根しか見えません。
この屋根はかつては茅葺きでしたが現在は鋼板で覆われています。これが全部茅葺きで残っていたら壮観でしょう。
ここで青鬼の地図を紹介しておきます。現地でいただいた青鬼通信から転載させていただきました。
左下から上って来て、現在はごく小さく『P』と書かれた駐車場にいます。左下に見える二棟の道を挟んだ右側です。
この地図を見るとここには伝統的な家が14棟あります。
駐車場のすぐ北側のお宅です。
2階建に見えますが、これは兜造りで2階部分に見えるところは屋根裏というべきところです。かつてはあそこでお蚕さんが飼われていたのですが、現在はおそらく居住スペースやそのサービススペースとして使われているのだろうと思います。
刀のように反った棟は『雪割り』と呼ばれるもので、雪が屋根にへばりつかないように割って落下しやすくするためのものです。
その端に『水』と書かれた文字が見えます。木造の茅葺き屋根ですから火事は大敵ですね。ここには水の他に『寿』と書かれたお宅も多いです。
青鬼集落の成立はかなり古いようで、青鬼神社の創建が西暦806年と伝えられていますから、事実であれば奈良時代には形成されていたことになります。
この石仏は今から200年近く前のものらしく、江戸時代の天保(1830年〜1844年)の文字が見えます。
このお宅はなかなか興味深いです。
玄関の小屋根はあとで付け足されたものであることは明らかです。しかし、主開口面の一番手前に入れられた斜めの筋交のようなものはオリジナルなのか後世のものなのか判然としません。付けられ方からするとオリジナルのように見えますが、日本の伝統的な工法ではこうした斜めの部材はあまり用いられることがないのです。
地図で赤くマーキングされている『お善鬼の館(おぜんきのやかた)』の左隣の家です。
良く見るとこの家にも斜めの部材が見えます。
今日は8月10日でもうすぐお盆。この家の玄関先には盆提灯が出されていました。
そしてこちらが『お善鬼の館』。
これは青鬼で唯一公開されている建物で、1908年(明治41年)に降籏家住宅として建てられたものですが、現在は改修され集会所になっています。外観は屋根の鋼板以外はオリジナルに近いと思いますが、ここにも前の二軒に見られた斜めの部材が見えます。
真壁造りの白漆喰仕上げで、化粧貫が等間隔で配され、見栄えがします。
兜造りの大屋根は一見左右シンメトリーのように見えますが、良く見ると左側は高い位置で妻側に廻っているのがわかります。
こうした例は他にも見掛けたのですが、その理由はちょっと思い付きませんでした。高い方の妻に窓があるのかと思いましたが、ありません。ある方角から風が強く吹くので壁面の雨がかりを防ぐためということも考えられますが、家によって下がっている屋根の方角が異なります。一体なぜでしょう。
この集落の家々は基本的に南面して建てられています。
こうして大屋根の家が並ぶと壮観ですね。
お善鬼の館の内部はかつてここに住人がいた時から手が加えられており、囲炉裏や厩が再現されています。
御上(おえ)の床板も集会に使えるように張り替えられていました。
囲炉裏の上部は梁がむき出しの高天井です。想像していたより梁は細いです。上部の天井は竹の簀の子張りで煙が上部に抜けるようになっています。
このゾーン以外の小屋裏はかつてはお蚕さんを飼う部屋や機織りなどの作業スペースとして利用されていたようです。
東側の廊下には天井が張られておらず、屋根の下葺きがそのまま見えます。
お善鬼の館の横には小さな水路があり、そこに『ガッタリ』が置かれていました。
ガッタリは米つき機で、水路の水をガッタリの桶部に入れ、これが定量になると反対側の杵が持ち上がり、下がった桶部の水が流れ出ると杵が下がり、米をつくという仕掛けです。
お善鬼の館の横の道に入りそのうしろ側を眺めてみました。一番手前がお善鬼の館です。
地図を見るとわかるように、集落の裏手には棚田が作られています。
春に来た時はまだ代掻きを終えたばかりで田植え前でしたが、今は稲が伸びて田んぼ全体が緑色をしています。ちょっと覗いてみましょう。
ここの斜面は比較的勾配が穏やかで、棚田の畔の土手の高さは数十cmから1mほどです。
稲は順調に育っているようです。
棚田の中腹までやってきました。ここから集落を見下ろしますが、見える住戸は最上部にある2〜3戸だけで、あとは傾斜の影響や物影に隠れて見えません。
遠景には晴れていれば白馬三山が並んで見えるのですが、この日は残念。
今日は遠景の山はダメですが、せっかくですからその手前の白馬のまちを望遠で覗いてみましょう。
すぐに目に付くのは長野オリンピックで使われたスキーのジャンプ台です。中央やや右に滑り台のように2本見えているのがそれです。
そのさらに右に見えるスキーのゲレンデは八方尾根スキー場。ジャンプ台の左の谷を遡ると五竜岳に行き着くのですが、その山頂は雲の中。谷の左にうっすらと見えるスキー場は五竜のスキー場です。
大糸線の白馬駅や私たちの宿はその下の平地の真ん中辺にあります。
この棚田を見下ろす位置に石仏が置かれていました。
刻まれた年号は明治。
高低差がある地形は視覚的に深い遠近感が生じると思います。これは遠近を三次元で感じるからでしょう。
ここは下った先の平場からさらに山が立ち上がっていて、この感覚が倍増されます。
棚田と遠景を楽しんだら青鬼の集落に戻ります。ここは棚田の中腹から見えた集落の住戸群の最上部に位置するあたり。
ここを通り抜けると青鬼神社の入口に辿り着きます。
これは神社のすぐ横にある家で、外観は屋根が鋼板で被覆された以外には大きな変更がないように見えます。サッシもアルミに置き換えられず、元のまま。繊細な木の窓です。
青鬼神社は地図で見るとかなり高いところにあるように見えます。行こうか行くまいか躊躇しているところに私たちとほぼ時を同じくしてここにやってきたモータバイカーの方が上から下りて来たので様子を伺うと、神社まではすぐだとわかったので行ってみることにしました。
階段は苔むしていて、なにか出そうな雰囲気。(笑)
この神社に祀られているのは善鬼大明神(御善鬼様)ということで、これは鬼なんでしょう。青鬼なのかな。
この村には鬼にまつわる伝説があります。それは現在の長野市の鬼無里(きなさ)地区と戸隠(とがくし)地区と関係があります。
昔々、ある村に鬼が現れました。この鬼が悪事を働くので村人は鬼を追い出し、この近くの岩戸山の中腹にある大穴に閉じ込めたとさ。ところが鬼はその穴を抜け出し、今度は青鬼の集落に現れるようになりました。しかし青鬼に現れた鬼は悪さはせずに逆に人々を助けるようになったんだって。人々は鬼が穴を抜ける際に魂が入れ替わったに違いないと考え、以降はその鬼を『お善鬼様』として祀るようになったとさ。
いつしか人々は、鬼を追い出した村を鬼無里村、大穴に閉じ込めた村を戸隠村、お善鬼様を祀った村を青鬼村と呼ぶようになったということです。おしまい。
ん、青はどこから来た? 赤鬼はいないの・・・
青鬼集落の次は千国街道の『千国の庄史料館』です。
R148をカッ飛ばし小谷村の千国に入ります。
千国街道は松本と糸魚川を結ぶ街道で『塩の道』とも呼ばれました。総距離は約120kmです。
『千国の庄史料館』はかつての番所跡を復元したもので、史料館と塩倉が併設されています。
塩の道は古代から利用されていましたが、謙信が信玄に塩を送ったという『敵に塩を送る』ということわざからもわかるように、この道は戦国時代にはかなりの重要な輸送路になっていました。江戸時代の松本藩は太平洋側からの塩の持ち込みを禁じ日本海側からの流入だけを認めたため、さらに重要な道になりました。
小谷村の千国の庄は千国街道の要所であり、慶長年間に松本藩の千国口留番所(関所)が置かれました。これは1869年(明治2年)に廃止されるまで300年近く続きました。
番所のうしろには『千国の庄史料館』が立っています。
この建物は集落にあった民家を保存移築したもので、囲炉裏があり機織り機も残っています。かなり大型の住宅です。
民家らしい黒い柱と梁が迫力です。
当時馬は同じ屋根の下で飼われていました。
この馬、かなり巨大なのですが、これは誇張が入っていますよねぇ。
塩倉は塩の流通を調整するための貯蔵庫で、鉄は塩分により錆びてしまうため釘は一本も使われていないそうです。
当時の千国番所の塩倉はこの2倍の大きさだったようです。
塩蔵の内部の床は地面から1m近くのところに張られ、床板には隙間があり、その下には空間があります。これは空気の流れを良くする仕組みでしょう。
下の地面には溝があり、塩から落ちた『にがり』を集められるようになっています。『にがり』は豆腐の凝固剤などに利用されます。
『千国の庄史料館』の前を通り道が千国街道です。
ここには伝統的な大屋根の家がずらりと並んでいます。
面白いことにここの集落の屋根は青鬼で見たような典型的な平兜造りではなく、寄せ棟造りかそのバリエーションで少し兜が入った形状をしています。
しかし青鬼の建物より時代が新しいのか、このようにほとんど2階建と言っても良い造りのものもあります。
千国街道を栂池の方へ上って行くと沓掛に牛方宿(うしかたやど)が残っています。
街道は長いので、人や荷物を一遍に長距離運ぶことは不可能です。そこで宿駅ごとに継ぎ送り(リレー)する方式が取られました。千国街道には荷物の継立と検査を行なう継荷宿が12ヶ所あったようですが、千国には2軒あり、そのうちの1軒が今日まで残ったのです。
ここで言う牛方とは牛に荷物を積んで運ぶ職業を指します。これは写真(『塩の道ギャラリー』の展示品から)を見ていただいた方がわかりやすいですね。
宿はシュクではなくヤド。つまりここは牛方が牛とともに泊まったお宿です。
この建物は19世紀初期の建築の旧千國家住宅。1864年(元治元年)の『千國又兵衛家相図』を元に整備復元されています。
千国街道の千国から糸魚川方面は山がちで、荷物の運搬には馬より牛の方が効率的だったため、牛方が多くいました。明治時代までは牛方と牛が泊まるための牛方宿もたくさんあったようですが、明治二十年(1887年)頃に姫川沿いに新しい馬車道ができると街道はその役目を終え、牛方宿も姿を消していったのです。現在ではこの牛方宿の建物のみが残るだけです。
牛方宿の母屋の横には現在『塩の道ギャラリー』として使われている土蔵があります。
この建物の妻の上部には漆喰の鏝絵が見えます。
そしてこれは村内に残る唯一の塩倉(移築)だそう。江戸時代末頃の建築と考えられており、先ほど見た番所のもの同様に鉄釘は使われていないそうです。梅雨時になると今でも階下の天井に塩気を噴き出すそうです。
これは番所のものより大型ですから、かつて番所にあったオリジナルはこれより大きかったことでしょう。
母屋の内部を覗いてみましょう。
入口をくぐるとすぐに馬屋(牛の寝床)があり、その向かいの土間に、上から吊るされた板だけの牛方の寝床があります。この配置にすることで、牛方は寝ている間も牛の様子を観察することができ、安心して床に着くことができたといいます。
ちなみに馬屋には牛馬を5〜6頭入れることができたそうです。これは一人の牛方が引き連れる牛の数に対応しているのだとか。え〜〜、牛方さんってそんなに牛を牽いていたんだ!
さらに驚くことに、牛の背には2俵積まれというのでこれは100kgほどになります。それを6頭だと一人の牛方が運ぶ重量は600kgということになります。
奥へ進むと土間で、その向かいが台所。
今日は台所には当時使われたのであろう雑多なものが置かれています。この右の壁の向こう側が馬屋です。
茶の間の奥には10帖の客間が2部屋あり、これは商人などの寝泊まりに当てられたようです。ここの家族はというと台所横で茶の間の裏手に当たる板敷きの部屋で生活していました。
人が履く草鞋の横に小型のそれがあったので何かなと思っていると、案内の方がこれは牛の草鞋だと教えてくれました。牛も草鞋を履けば足を痛める程度が少なくなるでしょうし、寒さからも守られそうです。
ちなみに牛方は一般的には十数人が一団となり、八十八夜(GW頃)から小雪(10月いっぱいくらい)まで荷を運んだそうですが、さすがにこの地方では冬は活動できなかったそうです。しかし積雪期には歩荷(ぼっか)による輸送が行われていました。
運ばれる品目は様々でしたが、もっとも代表的な塩については、糸魚川近郊のものの他、能登内浦や瀬戸内海の塩も含まれていたというから驚きです。
涼しい気候のここは今が春のよう。
牛方宿を出るとすぐ、大型の茅葺き屋根の建物がありました。
これは民家だったものを村が買い上げて整備し、新たにレストランの事業者を募集している物件のようです。うまくいくといいですね。
ちょっと上って栂池高原スキー場のゴンドラ乗り場の栂池高原駅に到着。
ここでお昼にしようと思ったのですが、開いていたハンバーガーショップは屋外で冷房がないので別のところを探すことにしました。この日も結構暑いのです。
サリーナがこの下に蕎麦屋があるというので行ってみたのですが、そこは生憎の臨時休業。スキーシーズンではないスキー場ですからレストランはあまりありません。う、これは困ったと思たら、そのすぐ横のホテルで、最近始めたというラーメンにありつくことができました。
このラーメン、キャベツが入っているという変わり種なのですが、魚介スープでかなりおいしかったです。
ジーク、こんなところで何やってんの? と声を掛けたら、あたしゃあ弘法大師よ、って。(笑)
歴史ある道には石仏や道祖神が多いものですが、主要5街道などその後の開発が著しいところでは、こうしたものは失われやすいです。このあたりの塩の道周辺は開発があまりされなかったのが幸いして、比較的良好な形で残っているのだと思います。
前山百体観音は江戸末期に建立されたもので、前の写真の弘法大師像の台座には安政五年(1858年)と刻まれています。なんとここには西国・秩父・坂東の石像が入り混じって安置されています。かなり安易〜(笑)
現在は少し失われたものがあるようですが、それでも80以上が残っており、聖観音、馬頭観音、如意輪観音といったところが多いようです。石工は当時名高かった伊那・高遠から招かれたそうです。
観音さまを眺めたら本日はそろそろ終わりです。宿へ戻るルート上にある見どころを眺めながら進むとしましょう。
白馬三山の絶景スポットとして知られる栂池パノラマ橋を渡りますが、この日は三山は雲の中。
上がダメなら下はどうか。
松沢の谷には緑色の田んぼが見えました。しかし一部は別の用途に転用されているようです。
栂池パノラマ橋の少し南西には落倉自然園があります。
湿原の中に木道が通された落倉自然園は5月にはミズバショウの花でいっぱいになるようです。
しかしこの時期はほとんど花は咲いていませんでした。僅かに見つけたのがこれ。キキョウ科のミゾカクシ属(ロベリア属)の花です。紫色がきれい。
この奥には山の神様である大山祇神社(おおやまつみじんじゃ)や水神さまの石祠がありました。
落倉自然園のあと、楠川を渡る段になるとサリーナがストップ。このあたりに『おかるの穴』というのがあるといいます。橋から川を覗く人がいたので私たちも覗いてみましたが、どれがそうだかわかりませんでした。
岩岳の下にやってくるとそこに霧降宮切久保諏訪神社が立っています。鎌倉時代の創建と考えられているこの神社は地域の産土神として祀られており、千国庄と呼ばれていた小谷村周辺の荘園の鎮護の神として、諏訪大社から勧請されたようです。
白馬岩岳は単なるスキー場ではなくなりました。スキー場としては小さくさほど有名ではありませんでしたが、近年その他のアクティビティの開発に取り組んでおり、自転車乗りの間ではマウンテンバイクのコースがあることで有名です。
ここは、北アルプスを眺めながら乗れる巨大ブランコが最近の話題でしょうか。
さて、帰りがけに一風呂浴びるとしましょ。
『倉下の湯』には気持ちのよい半露天風呂があり、晴れていれば山の眺めが素晴らしいのですが、それは今日は残念。しかしここは泉質がすばらしく、ちょっとしょっぱい。『塩の湯』ですからね。でも色は茶褐色なんです。あ〜ら不思議。(笑)
『倉下の湯』でさっぱりしたら白馬大橋を渡ります。
この橋も白馬三山の眺望が素晴らしいのですがね。三つの頂はあの雲の中です。
白馬大橋を渡ったら八方の中心部に辿り着きます。時はまだ15時前で十分に時間があるので、白馬ジャンプ競技場に立ち寄ってみることにしました。
白馬ジャンプ競技場は1998年の長野オリンピックのスキージャンプ競技の舞台となったところです。長野オリンピックはついこの前と思っていたのに、すでにあれから四半世紀近く経つのですね。
ここは春にやって来た時にもちら見はしたのですが、その時は上には上れませんでした。今回は運良く上れるようなので、怖いもの見たさに行ってみました。
左がノーマルヒルで右がラージヒルです。これは単なる構造物として見てもかなり迫力があります。
リフトで上っていると横にヒル・レコードのマーカーがありました。上が小林陵侑選手のサマー・ヒル・レコードで136.0m。下は岡部孝信選手のヒル・レコードで140.0m。
テレビで見ているだけではあまりピンときませんでしたが、140mも飛ぶんですよ! しかもこの着地地点の勾配のもの凄いこと。テレマークがどうのなんて言っている場合じゃないよ。着地失敗したら死ぬぞーって思いました。ホントに。いや〜恐ろし!!
あのね、あたし、ホントのことを言っちゃうけど、高所恐怖症なのよね。
だいたいここに来るまで何度引き返そうと思ったことか。だってエレベーター下りたラウンジの窓の腰高って、80cmくらいしかないのよ。信じられないわよね。顔を出したら落っこちちゃうじゃあないのよ。
そしてオープン・エアで下がバッチリ見える、手摺がもの凄く低い階段を何段も上らなくちゃならないのよね。プンプン。とにかくここは恐ろしいところよ。
その最後がこれ。選手はここからゲートを開けてスタート地点の横にある階段に出て滑り出すわけだけど、その階段って地上からもの凄く高いところにあるわけ。だけどそこには手摺もなんにもないのよね。信じられない! 選手って高度に対して鈍感じゃなきゃやってられないのよね。そりゃあそうか、あそこから飛ぶんだもんね、選手は、、、 スキージャンプの始まりは、死刑囚にそのまま死刑になるかジャンプするか選択させたのが始まりだって聞いたことがあるけど、どっちにしろ死ぬべき運命だよね、これは。
それで、これアタシ。手摺から手を離しちゃあ移動できないのよねぇ。ちなみにここから選手が出ていくわけだけど、この手摺を開けただけで落っこちちゃってもおかしくないくらいの造りよ。信じられないよ〜
あ〜怖かった。二度と上らんでえーわー、こんなとこ。これまで人が落ちて死んだって話を聞かないのが不思議なくらいオットロシー施設だわ、ここ。
肝試しの白馬ジャンプ競技場から下ったら、一目散に宿に逃げ帰ります。あ〜怖かった〜〜
さて、明日はここを引き上げるので、今晩は久しぶりにBBQでもして食材を全部消費するとしましょう。ごっつぉさんでした〜
さて、明日は白馬村を出て長野まで走るつもりです。暑くないといいな〜