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奥の細道

開催日 2022年02月24日〜
参加者 /サリーナ
走行距離 Stage1 日光路:294km  Stage2 奥州路:454km  Stage3 出羽路:442km
Stage4 北陸路Ⅰ:324km  Stage5 北陸路Ⅱ:442km
総合評価 ★★
難易度 ▲▲
全走行距離 1,956km
地域 関東、東北、甲信越、北陸、近畿、東海

芭蕉庵史跡展望庭園の芭蕉像
芭蕉庵史跡展望庭園の芭蕉像

コース紹介

松尾芭蕉の『奥の細道』を巡る旅。江戸は深川からまずは日光を目指し、白河関を越えて奥州へ。松島を愛で、平泉に立ち寄ったら、尿前関から出羽路に入る。象潟からは日本海沿いに南下し、鼠ケ関を越えて北陸路に入り、金沢を経由して大垣まで。旅の文学に浸りながら、約2,000kmをバーチャルで走破します。

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Stage1【日光路】深川~白河関 地図:GoogleマップgpxファイルRide With GPS
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 レポート:日光路

Stage2【奥州路】白河関~尿前関 地図:GoogleマップgpxファイルRide With GPS
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 レポート:奥州路

Stage3【出羽路】尿前関~鼠ケ関 地図:GoogleマップgpxファイルRide With GPS
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 レポート:出羽路

Stage4【北陸路Ⅰ】鼠ケ関~金沢 地図:GoogleマップgpxファイルRide With GPS
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 レポート:北陸路Ⅰ

Stage5【北陸路Ⅱ】金沢~大垣 地図:GoogleマップgpxファイルRide With GPS
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 レポート:北陸路Ⅱ

コース詳細

発着地 累積距離 標高 コース・見所、奥の細道の句
Stage1 日光路 294km
深川
芭蕉庵
START 5m 松尾芭蕉は1689年3月、『奥の細道』の旅に出立。芭蕉が深川で住んだ『芭蕉庵』の正確な位置はわからないそうですが、1917(大正6)年9月の台風の際に常盤1丁目から蛙の石像が出土し、地元の人々によって芭蕉稲荷が造営され、東京府がここを『芭蕉翁古池の跡』と指定したとのこと。すぐ近くの隅田川沿いには現在『芭蕉庵史跡展望庭園』があり、芭蕉の像があります。ということで、ここからスタート。
 草の戸も 住替はる代ぞ 雛の家
千住
大橋公園
7km 0m 隅田川を舟で上り千住で舟をおりて、ここが『奥の細道』の本当の旅の始まりの地。千住大橋の袂の大橋公園には、『矢立て初めの地』の案内があります。人々に見送られつつ、旅の最初の一句。
 行春や 鳥啼魚の 目は泪
草加
神明庵
18km 5m 草加宿は日光街道二番目の宿場町。旧日光街道には昔の宿場の雰囲気も少し残り、古民家を利用したお休み処『草加宿神明庵』などがあります。綾瀬川にぶつかったところには、かつて『札場河岸』という船着場があり、江戸時代は綾瀬川の舟運で賑わったのだそう。ここから綾瀬川沿いに、松林の『草加松原』が始まります。芭蕉と曽良は、草加宿には泊まらずさらに先へと進む。
粕壁
(春日部)
36km 10m 千住を出発して最初の宿泊地は粕壁(春日部)宿。千住から9里あまり、つまり36km。本当に健脚です。宿泊場所ははっきりせず、東陽寺と小渕山観音院の2箇所が伝えられています。
間々田
間々田八幡宮
75km 30m 芭蕉の次の宿泊地は栃木県小山市内にある間々田宿。ここには奈良時代中期に創建されたと伝わる間々田八幡宮があり、一部が『間々田八幡公園』として開放されています。その御由緒によれば、10世紀に藤原秀郷が平将門の乱の平定後にご神田を奉納し、この辺りは飯田(まんまだ)の里と呼ばれるようになる。その後江戸時代に日光街道が整備されると、この地がちょうど日光と江戸の中間点にあたることから、間々田(ままだ)へと改められたそうです。
室の八島
大神神社
93km 60m 芭蕉は歌枕『室の八島』を訪れます。歌枕とは、古来多くの歌に詠みこまれた名所、地名のことだそうで、芭蕉が訪れた当時は、惣社村の大神(おおみわ)神社にある八つの島と池が、歌枕『室の八島』とされていました。平安以来東国の歌枕として多くの歌人に詠まれ、その名は都まで聞こえていたそうです。『奥の細道』には掲載されていませんが、芭蕉もここで一句。『糸遊』とは、陽炎のこと。
 糸遊(いとゆう)に 結びつきたる 煙哉
鹿沼
光太寺
113km 150m 旅立ちから3日目、早くも鹿沼に到着。光太寺に泊まったと言われています。芭蕉はここで笠を新調し、境内には古い笠を埋めたと言われる『笠塚』が残っています。当時のこのお寺には住職がいなかったそうで、鐘の音もなく、『奥の細道』にはないけれどここでも一句。
 入逢の 鐘もきこえず 春の暮
日光
東照宮
142km 670m 翌日、鹿沼から例幣使街道を日光方面へと進み、今市で日光街道に合流。日光に到着した芭蕉はまず東照宮を参拝します。『奥の細道』で芭蕉は日光のすばらしさを讃え、これ以上の描写は『憚多く』(恐れ多く)と筆を置き、この句をしたためています。
 あらたうと 青葉若葉の 日の光
玉生 178km 260m 日光門前町に泊まった芭蕉と曾良は、さらに裏見の滝、含満(がんまん)ケ淵を訪れ、そのまま那須方面へと向かいます。裏見の滝では、滝を裏側から見て一句。
 しばらくは 滝にこもるや 夏の初(げのはじめ)
曾良の随行日記によれば、日光からは宿で教えてもらった近道の脇街道を行くも、激しい雷雨に襲われ日光北街道の玉生(たまにゅう)宿で力尽きた。泊まろうと思っていた宿はあまりにひどく、名主に無理を言って何とか泊まらせてもらったとのこと。旅はいろいろあります。
矢板
かさね橋
192km 200m 翌日も黙々と野道を歩き続ける芭蕉と曾良は放し飼いの馬を見つけ、草を刈る農夫に懇願すると、道案内に馬を貸してくれました。困難な旅の中、本当にありがたいですね。子ども2人が馬の後を走ってくるので、1人の娘に名を聞くと『かさね』と言う。その名の優美さに、曾良が即興の一句を詠みます。
 かさねとは 八重撫子の 名成べし  曾良
矢板から北東へ、大田原へ向かう道が箒川を渡る橋に『かさね橋』という名前がありました。
黒羽
芭蕉の館
209km 210m 人里にたどり着き、馬を返した芭蕉と曾良は、黒羽の知人、黒羽藩城代家老浄法寺図書高勝(俳号桃雪)を訪ねて大歓迎を受け、ここにしばらく滞在します。旅の疲れもあり、温かい歓迎にほっとしたのでしょうね。芭蕉の泊まった場所の近くに『芭蕉の館』という資料館があります。
黒羽に滞在中、芭蕉は郊外へ出かけ、玉藻の前の塚、那須与一が参拝した那須神社、そして役の行者を祀る修験光明寺の行者堂を訪ねます。
 夏山に 足駄を拝む 首途(かどで)哉
雲巌寺 221km 300m さらに、芭蕉の禅の師である仏頂和尚の座禅修行の跡を訪ねて雲巌寺へ。雲巌寺は木々の生い茂る山深いところのようです。後ろの山で庵を発見した芭蕉の一句。
 木啄(きつつき)も 庵はやぶらず 夏木立
芭蕉は黒羽に2週間滞在しますが、我々は次の場所に向かいましょう。
那須湯本温泉
殺生石
260km 860m 芭蕉は馬で那須湯本温泉へと山を上ります。玉藻の前(九尾の狐)の化身とされる『殺生石』という有毒ガスを吹き出す岩を見るためです。今は有毒ガスなどは吹き出していませんが、硫黄の香りが漂います。硫黄泉は温泉の王者(個人の感想です)、近くの1300年続くという『鹿の湯』などに浸かってみたいものです。さて芭蕉はその道中、馬を引く馬子が短冊を懇願するので、一句。
 野を横に 馬牽(ひき)むけよ ほとゝぎす
芦野
遊行柳
283km 270m 那須湯本温泉から下って那須町芦野へ。そこで西行が歌に詠んだ『遊行柳』を訪れます。田んぼの中にある柳の下で感慨に耽る芭蕉。気がつけば、田植えが1枚分終わっていた。今も往時と変わらず柳は田んぼの中にあります。
 田一枚 植て立ち去る 柳かな
白河関 294km
GOAL
390m いよいよ奥州三関の一つであり、多くの歌にも詠まれた白河関にやってきました。奈良から平安時代にかけては人や物資の往来を取り締まる関所でしたが、その後は都の文化人の憧れの地となり、和歌の名所(歌枕)として知られるようになったそうです。芭蕉の訪れた季節は初夏。あたりには白い卯の花が咲いており、曾良が詠みます。
 卯の花を かざしに関の 晴着かな  曾良
奥州の入口にたどり着きました。これにて第1ステージ『日光路』終了。
Stage2 奥州路 454km
白河関 START
0km
294km
390m 白河関を越えて、第2ステージは奥州路。芭蕉たちは、行基開基といわれる関山山頂の満願寺に参詣。白河に入ると『宗祇戻し』の碑などを見学。『宗祇戻し』とは、室町時代の連歌師・飯尾宗祇が白河を訪れた際、通りかかった女性とのやりとりで陸奥の風流を感じ、ここから京へ引き返したという逸話だそうです。阿武隈川を渡り、さらに奥州街道を北上して矢吹宿に宿泊。
矢吹 28km
322km
290m 矢吹を出て須賀川へ向かう。途中、会津磐梯山を筆頭に新緑の美しい山並みの景色を楽しみつつ、影沼というところに立ち寄ります。現在は公園になっていて、その端に石碑と芭蕉・曾良の像が。この沼で蜃気楼が見えるかと期待していたのですが、曇り空のため見えなかったと残念がっています。
須賀川 40km
334km
265m 須賀川で芭蕉たちは豪商相楽等躬を訪ね、もてなしを受けて一週間ほど逗留。須賀川宿は、奥州街道屈指の宿場町として栄えていたそうです。早速句会が開かれ、ここで詠んだ句。
 風流の 初(はじめ)や奥の 田植うた
さて、この家の近くで世を厭う僧が大きな栗の木の下に庵を構えていました。そこを訪ねての句。
 世の人の 見付ぬ花や 軒の栗
栗の花って、モシャモシャした細いブラシのようなあれですよね。ですが、栗は西の木と書いて、西方浄土に縁が深いのだそうです。
日和田
安積山
61km
355km
255m 須賀川を出て20kmほど、日和田宿の先に小高い丘の安積山公園があります。ここで芭蕉は古今和歌集に詠われた『みちのくの 安積(あさか)の沼の花かつみ かつみる人に 恋ひやわたらん』の『花かつみ』を探して回ったそうです。後に『花かつみ』は『ヒメシャガ』とされ、郡山市の花に制定されたとのこと。
二本松
黒塚
81km
375km
195m さらに進み、二本松にやってきました。その先、阿武隈川の対岸にある『黒塚』は、人を食らう鬼婆の葬られた塚だそうで、芭蕉は見物に訪れています。現在はその隣に『安達ヶ原ふるさと村』という道の駅もあります。
福島
しのぶもぢ摺り石
107km
401km
65m 芭蕉たちの次の宿は福島。須賀川から約60km、どこまで健脚なのか。。と思ったら、日和田宿から馬に乗ったらしい。翌日、『しのぶもぢ摺り石』を訪ねます。『しのぶもぢ摺り』は、このあたり(信夫郡)でつくられた乱れ模様の摺り衣のことで、草の汁を模様のある石の上にかぶせた布に擦りつけて染めたとか。その石が文知摺観音・普門院にあり、古今集の『みちのくの しのぶもぢずり誰ゆへに みだれ染めにし 我ならなくに』(源融)の歌枕としても有名だそうです。芭蕉は田植えの手さばきにも『しのぶ摺』の昔が偲ばれる、と詠む。
 早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺
飯坂温泉
鯖湖湯
121km
415km
105m 芭蕉一行は、月の輪の渡しで阿武隈川を渡り瀬上宿を経由して、飯坂温泉へ。ここではまず、源義経の家臣佐藤継信、忠信公ら佐藤一族の旧館を訪ね、菩提寺の医王寺では義経の太刀と弁慶の笈などを見ています。
 笈(おい)も太刀も 五月にかざれ 帋幟(かみのぼり)
飯坂温泉には現在9つの共同浴場があり、芭蕉も立ち寄ったという『鯖湖湯』は存在感のある木造建築です。日本最古の木造共同浴場だったそうですが、老朽化により1993年に明治時代の姿を再現し改築されたとのこと。
国見峠
伊達の大木戸
135km
429km
115m 飯坂では温泉に浸かったものの、宿はあばら家だったようで、夜には雷雨となり雨漏りする上にノミや蚊に悩まされた芭蕉。翌朝は睡眠不足で体調も悪く、馬を借りて桑折へ。さらに気力を振り絞って、伊達藩入口の大木戸に到達します。このあたりは藤原泰衡が源頼朝軍を迎え撃った古戦場だそうです。国見町の国見峠長坂跡に『芭蕉翁碑』があります。
岩沼
竹駒神社
178km
472km
5m 白石で泊まり、翌日は岩沼へ。竹駒神社を参詣し、笠島(名取郡笠島村、現在は名取市愛島)へ藤中将実方の塚を訪ねようとします。実方は平安時代の和歌の名手でイケメン、光源氏のモデルの一人と言われる人物で、陸奥に左遷された後、馬が倒れて死亡したとか。しかし五月雨で道はぬかるみ疲れてもいたので、笠島は遠くから眺めるだけにした芭蕉は、こんな句を詠みます。
 笠島は いづこさ月の ぬかり道
岩沼では『武隈の松』を見物。これは根元から2本に分かれている松で、芭蕉は、旅を始める際に『武隈の 松みせ申せ 遅桜』と餞別の句を詠んだ挙白への答礼の句を詠みます。
 桜より 松は二木を 三月越し
仙台
国分町
199km
493km
55m 芭蕉一行は名取川を渡って仙台に到着。江戸時代から繁華街として栄えていた国分町の宿に数日滞在しています。この間、青葉城亀岡八幡神社東照宮、玉田・横野(歌枕。場所不明)、榴岡天満宮陸奥国分寺と、周辺を観光。いろいろと案内してくれた画工の加右衛門という人が、松島や塩竈の名所旧跡を絵に描き、さらに紺の鼻緒をつけた草鞋を餞別としてくれたそうで、さすが風流人、と芭蕉はこんな句を。
 あやめ草 足に結ん 草鞋(わらじ)の緒
端午の節句の前夜には菖蒲を軒に挿すものだが、私はいただいた紺の鼻緒を草鞋に結ぼう、と感謝を込めた句です。
多賀城
多賀城碑
231km
525km
10m 多賀城に着いた芭蕉は『壺の碑』を訪ねます。『壺の碑』とは、坂上田村麻呂が石に矢尻で文字を書いた石碑のことで、多くの歌人が詠んだ歌枕です。江戸初期に土の中から『多賀城碑』が発見され、これが『壺の碑』だとされました。しかし、その内容(724年の多賀城創建と762年の改修)からみて時代が異なり、今ではこれは誤りとされているそう。ともかく、芭蕉は古来の歴史遺産を目にした感動を綴っています。
塩釜
鹽竈神社
240km
534km
50m 多賀城から塩釜にかけては、他にも歌枕となっている名所がいくつかあります。末の松山、沖の石、野田玉川、そして、東塩釜の『籬(まがき)が島』を訪ね、塩釜に宿をとった芭蕉は夜、琵琶法師の『奥浄瑠璃』を聴きます。奥浄瑠璃とは奥羽地方に伝承されていた浄瑠璃で、源義経を題材にした作品が多いとか。翌朝は鹽竈神社を訪れ、立派なつくりを絶賛。
松島
雄島
251km
545km
5m 芭蕉は塩釜から船で松島へ。我々は陸路、複雑な海岸線を蛇行しながら行きましょう。芭蕉は松島の景観に大いに感動し、また海に突き出た『雄島』では修行僧の禅堂跡などを見て、その幽玄の世界に浸ります。句作を断念した芭蕉は、『奥の細道』には曾良の句を掲載。
 松島や 鶴に身をかれ ほとゝぎす  曾良
その後、芭蕉は瑞巌寺を訪れます。瑞巌寺は9世紀初頭に創建された延福寺が前身だそうで、戦国時代に一時衰退しますが1600年代初頭に伊達政宗が復興し、寺名を『瑞巌寺』に改めました。海辺に突き出す五大堂は東北地方現存最古の桃山建築です。
石巻
日和山
279km
573km
50m 松島を出て石巻に到着した芭蕉一行は、日和山に登って周囲の景色を愛でます。この丘からは市街地が一望でき、太平洋に牡鹿半島が伸びているのが見えます。春には桜が美しいそう。丘を下りたら住吉神社と歌枕『袖の渡り』を訪ねます。ここは、義経が奥州下向の際に、船賃の代わりに着物の片袖をちぎって渡したという伝承からそう呼ばれ、赤い橋がかかった小島があります。
登米 310km
604km
10m 石巻を出て鹿又で旧北上川を渡ったら、北上川に沿ってどんどん北上。(私個人としては海側の南三陸町に立ち寄って海の幸を堪能したいところですが)脇目も振らず平泉に向かう芭蕉です。今宵は登米に宿泊。それならここで、名物北上川産の天然うなぎでも食べましょうか。
一関 350km
644km
30m 芭蕉たちは登米からさらに北へ、花泉を通り一関に到着。途中で強い雨に降られ、馬を借りて何とかたどり着いたようです。一関に一泊し、翌日はすぐに平泉へと向かいます。この近くには、平泉の他にも磐井川の浸食によって形成された厳美渓や断崖絶壁の猊鼻渓など、訪れてみたい名勝があります。
平泉
中尊寺
360km
654km
100m ついに旅の大きな目的の一つ、平泉に到着。藤原三代のかつての繁栄の跡を偲び、北上川に面した高館(たかだち)という丘に上る。そこは源義経の居館であり終焉の地となった場所でした。しばし佇み、涙を落としながら詠んだ句。
 夏草や 兵どもが 夢の跡
そして中尊寺に参り、金色堂(光堂)、経堂を拝観。金色堂は1124年に奥州藤原氏初代清衡によって上棟された建物で、金箔に螺鈿細工の内陣の須弥壇には阿弥陀如来、その両脇に観音勢至菩薩、六体の地蔵菩薩、持国天、増長天が従い、須弥壇の中には藤原四代の亡骸が安置されています。長い年月の間に風雨で朽ち果てるはずが、新しい建物でお堂を覆って守られています。
 五月雨の 降のこしてや 光堂
岩出山
有備館
422km
716km
55m 平泉から一関に戻り、翌日は岩出山へ。一関からは50kmを超える道のりで、その健脚ぶりには驚かされます。この辺りは一部古道も残り、栗原市一迫の旧道脇には芭蕉が衣を松の枝に掛けて休憩したという『衣掛けの松』があります。宿をとった岩出山は伊達政宗が10年ほど本拠としていたところだそうで、岩出山城には仙台藩の藩校の一つで現存する最古の藩校『有備館』があり、美しい回遊式庭園とともに国の史跡・名勝となっています。
尿前関
旧有路家
454km
748km
GOAL
345m 岩出山から鳴子温泉を通り過ぎ、そのすぐ先に尿前(しとまえ)関があります。この関を越えれば出羽国。そこで日が暮れ、芭蕉たちは国境の番人である有路家に泊めてもらいます。実は立派な家だったそうですが、地名から連想して芭蕉が詠んだ一句。
 蚤虱 馬の尿する 枕もと
出羽国の入口に到着。これにて第2ステージ『奥州路』終了。
Stage3 出羽路 442km
尿前関
旧有路家
START
0km
748km
345m 尿前関を越えて、第3ステージは出羽路。その初日、芭蕉たちは案内に若者を頼み、山深く寂しい道を進みます。いかにも山賊が出そうな名前の難所『山刀伐峠(なたぎりとうげ)』を越え、尾花沢に到着。
尾花沢
養泉寺
31km
779km
100m 尾花沢では、紅花を扱う豪商で旧知の俳人の鈴木清風を訪ねて宿泊。翌日からは宿を養泉寺に移し、俳人たちの様々なもてなしを受け、尾花沢には10泊と長逗留します。
 涼しさを わが宿にして ねまるなり
 這ひ出よ 飼ひ屋が下の 蟾(ひき)の声
 眉掃を 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花
 蚕飼する 人は古代の すがた哉  曾良
立石寺
(山寺)
68km
816km
250m 尾花沢の人々の勧めがあって、芭蕉一行は南に向かい、立石寺を訪ねます。慈覚大師円仁により860年に建立されたこの寺は通称『山寺』と呼ばれ、花崗岩の険しい岩山のあちこちに御堂が建ち並んでいます。崖をめぐり仏閣を拝み、静かな景色に心が澄み渡るのを感じて、この有名な一句。
 閑さや 岩にしみ入 蝉の声
石段を上った中腹の五大堂からは素晴らしい景色が見渡せます。
大石田 105km
853km
60m 立石寺から馬を借り、天童、六田を通って最上川の水運の拠点、大石田に到着。船問屋の高野一栄宅に泊まり、近くの向川寺を訪ねたりしています。熱心に俳諧の指導を請われた芭蕉はここで3泊。芭蕉の句会の発句は『五月雨を 集めて涼し 最上川』。後に改訂されて、この名句に。
 五月雨を 集めて早し 最上川
新庄 133km
881km
100m 大石田からは北へ、馬で猿羽根峠を越え、舟形宿を通り新庄城の城下町に到着。風流(渋谷甚兵衛)宅に泊まる。芭蕉が途中で通過した『柳の清水』を詠んだ句が、曾良の書簡にあります。
 水の奥 氷室尋ぬる 柳哉
翌日、渋谷盛信(九郎兵衛)宅での句会でもう一句。
 風の香も 南に近し 最上川
本合海
矢向神社
143km
891km
40m 新庄を発った芭蕉たちは本合海(もとあいかい)で舟に乗り、最上川を下る。すぐに右岸に八向楯と矢向神社が現れます。八向楯は八向山山頂に築かれた中世の城(楯)で、本丸南面の断崖中腹にある矢向神社は源義経も拝んだとか。我々は最上川に沿って陸路を下りましょう。
羽黒山 183km
931km
310m 芭蕉一行は清川で船を降り、狩川宿を経由して出羽三山の宿坊が集まる手向宿に到着。ここから羽黒山に登り、別当代のもてなしを受けて中腹にある南谷別院に宿泊します。翌日、住職の宿坊での句会で芭蕉が詠んだ一句。
 有難や 雪をかほらす 南谷
出羽三山は羽黒山、月山、湯殿山の総称で、羽黒派古修験道の山。芭蕉と曾良は、まず羽黒権現(現在の出羽神社)に参拝します。
 涼しさや ほの三か月の 羽黒山
月山 216km
964km
1970m 翌日、芭蕉たちは強力に案内してもらって月山へ。羽黒山は標高414mですが、月山は1984m、これはもう本気の登山です。霧が立ち込め凍えるような山道を登ること30km以上、頂上の月山神社を参拝し、山小屋に宿泊。
 雲の峰 幾つ崩て 月の山
湯殿山 221km
969km
1070m 月山から尾根道を下りて湯殿山へ。その途中の谷の傍には『鍛治小屋』というものがあって、出羽国の鍛治が霊水を探し、身を清めて剣を打ち『月山』と銘を入れて高い評価を得たとか。そんな道を歩き、また岩に腰掛けて遅咲きの桜を眺める芭蕉。そして湯殿山では、山中のことは行者の法によって語ってはならないとされているのでこれ以上は記さない、とただこの一句。
 語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな
 湯殿山 銭ふむ道の 泪かな  曾良
鶴岡
鶴岡城
277km
1025km
20m 芭蕉と曾良はいったん羽黒山に戻って出羽三山詣での報告をして、そこから鶴岡へ向かい長山重行宅へ。出羽三山巡りの疲れから体調を崩した芭蕉ですが、振舞われた地元食材の『民田(みんでん)茄子』が美味しいと、こんな句を詠みます(曾良の書簡)。
 めずらしや 山をいで羽の 初茄子(はつなすび)
鶴岡市の中心、お堀や石垣の残る鶴岡城址は現在、水と緑の美しい鶴岡公園として市民の憩いの場となっており、周囲には庄内藩校致道館致道博物館など見所がたくさんあります。
酒田
日和山公園
305km
1053km
10m 芭蕉たちは、鶴岡城城下町から舟で酒田へ。私たちは陸路を川沿いに走ります。酒田では、医師で俳人の伊東玄順邸(不玉亭)に宿泊。時は新暦で7月末、暑さの盛りの中で詠んだ句。
 あつみ山や 吹浦かけて 夕すヾみ
 暑き日を 海にいれたり 最上川
酒田湊は最上川の水運の拠点、そして北前船の寄港地として発展しました。そんな雰囲気を残す山居倉庫日和山公園などが見所。土門拳記念館もお勧めです。
吹浦
鳥海山大物忌神社
325km
1073km
5m 酒田を出て象潟を目指す芭蕉と曾良ですが、大雨に降られて吹浦に宿泊となりました。吹浦には鳥海山を御神体とする鳥海山大物忌神社があり、その門前町として発展したそうです。ここは鳥海山登山口(大平口)や展望台まで上り、象潟へとつながる道路『鳥海ブルーライン』の南の出発点となっています。
象潟
蚶満寺
345km
1093km
10m 雨の中、象潟に到着した芭蕉たちは宿をとり、翌朝から見物に出かけます。芭蕉が訪れた1689年当時は海辺の一皮内側に湖が広がり(古象潟湖)、鳥海山を背景にいくつもの小さな島が浮かんで松島と並び称される美しい景色だったとか。その後、1804年の象潟地震で土地が約2m隆起したため湖は干上がり、現在は田んぼの中に島が浮かぶ独特の景観を見せています。
湖に舟を浮かべ、能因法師が過ごした能因島を訪ね、蚶満寺に上陸してお寺の方丈から景色を見渡せば、鳥海山の姿が映る象潟湖が一望に。芭蕉曰く、松島に似ているが松島とは違う。『松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり』。
 象潟や 雨に西施が ねぶの花
 汐越や 鶴はぎぬれて 海涼し
象潟
熊野神社
347km
1095km
5m その後、芭蕉たちは熊野神社の例祭を見に行き、神楽奉納などを見物。蚶満寺から同行した美濃の商人宮部弥三郎(低耳)や地元の名主、俳人と共に夜まで楽しんでいます。
 象潟や 料理何くふ 神祭  曾良
 蜑(あま)の家や 戸板を敷て 夕涼  低耳(美濃の商人)
 波こえぬ 契ありてや みさごの巣  曾良
酒田 386km
1134km
10m 翌朝、芭蕉と曾良は象潟橋で再度鳥海山や象潟湖の景色を眺めた後、船で酒田へ向かいます。私たちは陸路を行きましょう。
酒田では以前と同じ伊東玄順邸(不玉亭)に宿泊し、一週間ほど滞在。ある日、芭蕉、曾良、不玉は酒田の豪商、近江屋三郎兵衛(玉志)に夕涼み会へ招かれ、初物の瓜でもてなされるのですが、『句なき者は喰うべからず』という遊びになって、芭蕉が即興で詠んだ一句。
 初真桑 四つにや断たん 輪に切らん
初物のマクワウリ、どうやって食べようか。。と楽しそうなこの句を含め4人の句は、芭蕉直筆の『玉志亭唱和懐紙』として現在、酒田の本間美術館に収蔵されています。
大山 408km
1156km
15m 芭蕉と曾良は、酒田の友人たちに見送られて大山(鶴岡市)へ。大山は、江戸時代には羽州浜街道の宿場町として発展したそうで、現在も旧羽州浜街道沿いに古い町並みを見ることができます。また、酒造業も盛んで幕末から明治にかけては全国有数の「酒どころ」と呼ばれていたそうです。2000年からは2月に『大山新酒・酒蔵まつり』が開催され、酒蔵めぐりも楽しめるとか。
温海 433km
1181km
10m 大山を出た芭蕉たちは、由良峠を越え、三瀬宿、小波渡宿、大波渡宿と羽州浜街道を南下していきます。道中、日本海の荒波で形成された奇岩なども見学しつつ、温海(あつみ)に到着。
鼠ケ関 442km
1190km
GOAL
5m 温海から芭蕉と曾良はいったん別行動をとり、芭蕉は馬で鼠ケ関(ねずがせき)へ、曾良は温海温泉から出羽街道へ出て小国番所から、それぞれ越後に入ります。鼠ケ関は、平安時代には白河関、勿来関と共に奥羽三関と呼ばれ、東北への玄関口となっていました。江戸時代には『念珠関』と表記され(読みは同じ)、古代の鼠ケ関および現在の山形・新潟県境より1kmほど北にあり、国道7号の脇に『近世念珠関跡』として関門と石碑が建てられています。
北陸道の北端に到着しました。これにて第3ステージ『出羽路』終了。
Stage4 北陸路Ⅰ 324km
鼠ケ関 START
0km
1190km
5m 鼠ケ関(ねずがせき)を越えると北陸道の北端に到着。ここからは越後に入ります。越後路300km以上の行程を16日で踏破した芭蕉、越後路に関して『奥の細道』にはあまり記述がありませんが、多くの寺社仏閣を巡り、有名な句もいくつか残しています。芭蕉の旅を辿って進みましょう。
中村
(北中)
20km
1210km
115m 別々の関を越えた芭蕉と曾良は、出羽街道の中村宿(現在の北中)で落ち合います。中村は出羽街道と羽州浜街道の分岐点で、交通の要衝だったそうです。集落の南には北中芭蕉公園があり、句碑が建てられています。
村上
村上城
50km
1240km
25m 中村を出て村上城下に着いた芭蕉は、村上城を訪れます。村上城は、戦国時代に本庄氏が築城し、その後1598年に村上頼勝が領主となって村上城と呼ばれます。幕末の北越戊辰戦争で焼失、城址は現在国指定の史跡となっています。
芭蕉と曾良が宿泊したのは旅籠の久佐衛門の家。当時の建物は明治時代に火災で焼失し、その直後に建てられた主屋が『井筒屋』として旅館を続け、2017年からは村上伝統の鮭料理を提供する店になっているとのこと。
瀬波海岸 56km
1246km
20m 村上城下に2泊した芭蕉と曾良は、光榮寺(現在は移転)で村上藩筆頭家老榊原帯刀の父・松平良兼(俳号『一燈』、曾良が以前伊勢長島で仕えていた主家)の墓を参拝し、その後瀬波海岸を観光しています。
乙宝寺 70km
1260km
10m 芭蕉たちは村上藩主の菩提寺の泰叟院(現在の浄念寺)を訪れます。このお寺には後の1818年、村上藩主であった間部詮房の百回忌に白壁土蔵造の本堂が建てられ、現在国の重要文化財となっています。
村上を発った芭蕉たちは、胎内市の乙宝寺を参拝。海岸砂丘の林の中にあるこのお寺は736年、聖武天皇の勅願により行基、婆羅門僧正の二人の高僧が開山し、婆羅門僧正はお釈迦様の左眼を納めて乙寺と名づけたとか。ちなみに右眼は中国に納められ甲寺と呼ばれたそうです。その後、後白河天皇が左眼を納める金塔を寄進し、乙寺から乙宝寺に改名されました。
築地 79km
1269km
10m 乙宝寺から街道沿いに南下し、芭蕉たちは築地(ついじ)に宿泊します。翌日、ここから船で新潟湊に渡ったそうですが、我々は陸路を新潟に向かいましょう。
新潟湊 115km
1305km
0m 新潟湊には夕方到着。ここは、江戸時代には阿賀野川と信濃川舟運の拠点、そして北前船の寄港地として繁盛していたそう。その後も、日米修好通商条約で開港五港の一つとして指定されるなど、日本海側の重要港として発展してきました。信濃川河口西岸にある新潟市歴史博物館(みなとぴあ)は新潟の歴史を学べる施設で、その敷地内には旧新潟税関庁舎や旧第四銀行住吉町支店など、往時をしのばせる建物があります。
彌彦神社 152km
1342km
60m 新潟を発った芭蕉たちは弥彦村に向かい、彌彦神社に参拝します。緑深い森の中にあるこの彌彦神社、社伝によれば創建2400年、『続日本後紀』に9世紀前半での記述が見られる由緒ある神社です。本殿以下の社殿は1912年の火災で焼失してしまいましたが、1915年、伊東忠太氏の設計で再建されました。
出雲崎 181km
1371km
10m 弥彦の門前町に宿泊した翌日、まず西生寺を参拝。西生寺は733年に行基が創建した古刹です。そこから野積に下り、日本海に沿って出雲崎へ。出雲崎は、海と並行する道の両側に妻入りの民家が並ぶ独特の町並みが4kmほど続きます。江戸後期のお坊さん、良寛の出身地でもあり、谷口吉郎氏設計の良寛記念館からは、日本海と町並みの素晴らしい景色が楽しめるとか。出雲崎で芭蕉たちが泊まった場所付近には、芭蕉像が立つ庭園『芭蕉園』がつくられています。
鉢崎 221km
1411km
10m 出雲崎を出た芭蕉たちは柏崎に泊まる予定でしたが(予定の宿の対応が悪かったのか)そのまま通過し、米山峠を越えて鉢崎までやってきました。鉢崎で泊まったのは『たわら屋』。ここは代々庄屋で、宿屋を営んでいたといいます。
直江津 246km
1436km
5m 翌日、今町(直江津)に到着しました。泊まるはずの聴信寺は葬儀の最中で、古川屋という旅館に泊まります。その夜句会が開かれ、今日は七夕の前夜だが、すでに通常の夜とは違う雰囲気だ、と芭蕉の発句。
 文月や 六日も常の 夜には似ず
そして翌日も雨のため直江津に泊まることとし、句会が開かれます。七夕の日につくられた名句。
 荒海や 佐渡に横たふ 天河
高田 256km
1446km
15m 直江津から向かったのは高田城下。医師の細川春庵を訪ね、句会が開かれます。春庵の家の庭には薬園があり、美しい庭園だったという。『奥の細道』にはありませんが、発句。
 薬蘭(やくらん)に いづれの花を 草枕
雨のため、芭蕉たちは高田に3泊しています。高田城は徳川家康の六男、松平忠輝の居城として築城されたそうで、現在城跡は公園として整備され、明治時代に焼失した三重櫓が1993年に再建されています。
五智国分寺
居多神社
263km
1453km
20m 直江津方面へ戻った芭蕉と曾良は、五智国分寺居多(こた)神社に参拝。五智国分寺は、740年代創建の越後国分寺を上杉謙信が1562年、現在地(五智)に再建したものだそう。居多神社は日本海沿岸に分布する気多神社の一社で、国司の厚い保護を受けてきたこの神社は越後一宮とも呼ばれるそうです。
能生 290km
1480km
5m 参拝を終えた芭蕉たちは、能生(のう)までやってきました。集落の東端には能生白山神社があり、1515年建造の杮葺の本殿は国の重要文化財。その神社には潮が満ちると自ら鳴る『汐路の鐘』があったそうで、『奥の細道』にはありませんが、芭蕉はこの句を残しています。
 曙や 霧にうつまく 鐘の聲
市振 324km
1514km
GOAL
10m 能生から日本海に沿って西へ西へ。糸魚川を過ぎて、北陸街道最大の難所『親不知子不知』に到着。海岸は断崖絶壁で、旅人たちは波間をぬって狭い砂浜を命がけで駆け抜けたそう。芭蕉たちも何とか通り抜けます。
市振(いちぶり)に着き疲れ果てて宿で休んでいると、隣の部屋で若い女性2人の声がする。新潟の遊女が伊勢神宮参りに行くらしいが、送ってきた男はここで帰るという。あまりに心細く、翌朝涙ながらに芭蕉たちに同行を懇願する。不憫ながらも『立ち寄るところも多いから』と断った芭蕉はこの句を詠みます。
 一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月
市振は北陸道の越後最後の宿場町で、関所が設けられていました。ここからは越中国に入ります。これにて第4ステージ『北陸路Ⅰ』終了。
Stage5 北陸路Ⅱ 442km
市振 START
0km
1514km
10m 市振を過ぎて、ここからは越中。最終第5ステージは富山、金沢、福井と北陸を西へ向かった後、南東へ方角を変更。琵琶湖をかすめ、目指すは西美濃の中心で交通の要衝であった大垣。ここが奥の細道の『むすびの地』となります。
黒部川 21km
1535km
30m 市振からしばらく行くと、朝日町、入善町、黒部市と、黒部川が形成する広い扇状地に入ります。黒部川は豪雨による洪水のたびに氾濫し、川筋が定まらずいくつもに分かれていたため、この辺りは『黒部四十八ヶ瀬』と言われていたそうです。そんな多くの川を越えて進む芭蕉たちです。この日は滑川で宿泊。
那古浦 69km
1583km
5m 翌日は富山湾沿いを西へ進み、那古(奈呉)浦(なごのうら)にやってきました。ここは、大伴家持が『東風(あゆのかぜ) いたく吹くらし 奈呉の海人の 釣する小舟 漕ぎ隠るみゆ』と詠んだ歌枕の地。能登半島や立山連峰を望む景勝地です。芭蕉たちは、藤が有名な『担籠(たこ)の藤浪』(氷見市の田子浦藤波神社)を訪れようと思ったけれど、土地の人に『ここから5里もあるし、家も少なく宿を貸す人はいなかろう』と言われ、断念。
 わせの香や 分入る右は 有磯海(ありそうみ)
有磯海(荒磯海)はこのあたり、富山湾西部の海のことで、芭蕉たちは海を右手に見る道を内陸へと分け入ります。
倶梨伽羅峠 103km
1617km
260m 高岡に泊まった翌日、芭蕉たちは小矢部市の埴生護国八幡宮に参拝。ここは、平安末期に源(木曽)義仲が戦勝を祈願したところで、後年加賀藩主前田家により造営寄進された1600年代前半の社殿は国の重要文化財です。戦勝祈願の後、源義仲は倶梨伽羅峠に大軍を構える平家軍を打ち破り京へ進撃、平家は西国へと落ちのびていくことになります。芭蕉たちは、この峠を越えて金沢へ。
金沢 128km
1642km
30m 金沢に着いた芭蕉は、加賀の俳人たちのもてなしを受けます。しかし、会うのを楽しみしていた葉茶屋を営む俳人の一笑(小杉味頼)は前年冬に亡くなっていたと聞いて、大いに落胆。一笑の兄が一笑追善句会を開き、芭蕉が詠んだ句。
 塚も動け 我泣声は 秋の風
金沢には9泊、芭蕉は俳人たちとの句会や市内観光に出向きます。犀川ほとりにある斎藤一泉の松玄庵に招かれ、出された料理に感謝を込めた句。
 秋涼し 手毎にむけや 瓜茄子
小松
多太神社
159km
1673km
10m 多くの俳人たちに見送られ、また同行者もあり、芭蕉たちは金沢を発って小松へ向かいます。あたりには少しずつ秋の気配が。
 あかあかと 日はつれなくも 秋の風
小松に到着。句会での芭蕉の発句。
 しほらしき 名や小松吹 萩すゝき
芭蕉は斉藤実盛の兜がある多太(たた)神社に詣でます。源平合戦の際に木曽義仲軍との戦いに敗れ、義仲の武将に討ち取られた平家の武将斉藤実盛は、かつては源義朝に仕え義仲を助けた人物。最後の戦いの時に身につけた兜や錦は以前の主君源義朝公から拝領したもの、そして老齢を隠すため白髪を黒く染めていた。木曽義仲は実盛の兜・袖・臑を多太神社に奉納したという。
 むざんやな 甲の下の きりぎりす
山中温泉 183km
1697km
70m 小松を出発した芭蕉たちは山中温泉へ。この温泉は奈良時代に行基が発見したと伝えられ、さらに平安末期に白鷺が傷を癒しているのを見つけたことから温泉旅館が始まったとか。美しい渓谷のほとり、歴史ある温泉地です。
 山中や 菊はたおらぬ 湯の匂
山中温泉を守護する医王寺、渓谷『鶴仙渓』にかかる黒谷橋などをのんびり訪れながら、芭蕉はここに9日間滞在。1910年に黒谷橋のほとりに『芭蕉堂』が創建され、また2004年には、芭蕉が泊まった宿の隣に明治時代の建物を再整備した『芭蕉の館』がつくられました。
山中温泉
(旅立ち)
183km
1697km
70m ここまで同行してきた曾良は体調を崩し、伊勢国の長島の医師にかかるため芭蕉と別れ、先行して旅立ちました。曾良が詠んだ別れの句。
 行行て(ゆきゆきて) たふれ伏すとも 萩の原  曽良
芭蕉は別れを悲しみ、笠に書いた『同行二人』の書付を消さなくては、と詠む。
 今日よりや 書付消さん 笠の露
那谷寺 197km
1711km
50m 芭蕉は山中温泉から小松に戻る途中、那谷(なた)寺を訪れます。この寺は700年代初頭の創建。当初は岩屋寺という寺名でしたが、平安時代に訪れた花山法皇が西国三十三所(近畿の観音信仰の霊場)の那智山と谷汲山から1文字ずつ取って『那谷寺』と改名したそうです。
 石山の 石より白し 秋の風
1642年に再建された本殿は『大悲閣』と呼ばれ、国の重要文化財。その中の岩屋に本尊の十一面千手観世音菩薩が安置されています。さて、芭蕉は小松に戻り2泊しますが、我々は先へ進みましょう。
大聖寺
全昌寺
209km
1723km
5m 大聖寺は白山信仰の白山五院の一つであり、江戸時代は大聖寺藩の城下町として栄えたそう。小松を出た芭蕉は、大聖寺城下町の郊外にある全昌寺に宿泊。ここには山中温泉で別れた曾良が前夜泊まっており、次の句を残していました。
 終宵(よもすがら) 秋風聞や うらの山  曾良
これを見て、芭蕉も『一夜の隔千里に同じ』と寂しさを感じています。
翌朝、慌ただしく出立しようとする芭蕉を若い僧たちが紙や硯を持って階段の下まで追いかけてきます。そこで芭蕉が書いた句。
 庭掃いて 出ばや寺に 散る柳
吉崎
汐越の松
217km
1731km
45m 芭蕉は加賀と越前の国境の吉崎から入江を船で渡り、汐越(しおこし)の松を訪ねます。潮が満ちると、その枝が海水に浸かってしまうという松。西行が詠んだという『終宵(よもすがら) 嵐に波を はこばせて 月をたれたる 汐越の松』に惹かれてやってきましたが、この歌は実は蓮如の作だとか。汐越の松のあったところは現在ゴルフ場になり、枯れてしまった松が残っているそうです。
松岡
天龍寺
245km
1759km
50m 芭蕉は曹洞宗の大本山永平寺に向かいますが、途中、古くからの知人のいる松岡の天龍寺に立ち寄ります。山中温泉で曾良と別れた芭蕉ですが、実は金沢から北枝という俳人がここまで同行してくれていました。別れにあたって名残惜しく、芭蕉の詠んだ句。
 物書きて 扇引きさく 余波(なごり)哉
永平寺 255km
1769km
220m 永平寺は曹洞宗の開祖道元が1244年に創建した寺院。応仁の乱や火災などにより、現在見られる建物は全て江戸期以降のものですが、仏殿や法堂をはじめ19棟が国の重要文化財に指定されています。芭蕉は山門から本堂までの距離、その広さに驚きますが、京都から離れたこんな山奥にあるのも貴い理由があってのことだとか、と記しています。
福井 271km
1785km
10m 永平寺に詣でた後、福井に向かった芭蕉は古い知人の等栽(とうさい)の家を訪ねます。すると、夕顔やヘチマの生い茂る侘しげな家屋から侘しげな女が出てきて夫の不在と訪問先を素っ気なく伝える。何だか源氏物語のワンシーンみたいだ(夕顔)と思いつつ、芭蕉は等栽を探し当てます。等栽の家に2泊した後、敦賀の港で十五夜の月を見ようと、等栽と一緒に敦賀へと向かいます。
敦賀
気比神宮
333km
1847km
10m 『越前富士』と呼ばれる日野山が見えてきた。そして『朝むづの橋』『玉江の蘆』『鶯の関』と歌枕の地を通り、湯尾(ゆのお)峠を越えると木曽義仲の燧が城(ひうちがじょう)。歌枕の『かえる山』に渡る雁の声を聞きながら、敦賀に到着したのは、十五夜前日の十四日の夕暮れでした。
その晩は月が美しく、宿で『明日もこんな美しい月を眺められるだろうね』と問えば、主人に『北陸の天気はわからないから』と言われ、酒を勧められ、その後気比(けひ)神宮に夜参りします。ここは702年に修営された仲哀天皇の御廟だそうで、芭蕉は主人の説明を受けます。昔、遊行上人二世(他阿上人)が、この神社の参道がぬかるんで皆が困っていたのを見て、自ら砂を運び往来の便を図ったという。この言伝えは今も守られ、その後、代々の遊行上人も神前に真砂を運び入れており、これを『遊行の砂持』と言うとか。芭蕉が詠む。
 月清し 遊行のもてる 砂の上
さて翌日の十五夜は、主人の言う通り雨でした。
 名月や 北国日和 定なき
色浜 347km
1861km
5m 翌日は晴れて、西行の詠んだ『潮染むる ますほの小貝 拾ふとて 色の浜とは いふにやあるらん』の『ますほの小貝』を拾おうと船を出し、敦賀湾の北にある『色が浜』へ。『ますほの小貝』とは、薄いピンクの小さな二枚貝だそう。私たちは敦賀湾沿いの陸路を北上しましょう。浜には海人の家が僅かにあり、お寺が一軒(本隆寺)。ここでお茶を飲み酒を温めて、感じとる秋の夕暮れの寂しさ。
 寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋
 波の間や 小貝にまじる 萩の塵
琵琶湖
塩津浜
380km
1894km
90m さてはて、『奥の細道』には、芭蕉が敦賀から大垣までどういう行程を辿ったのか記述されていません。ここでは、深坂峠を越える塩津街道を通って琵琶湖の塩津浜に出たということで進みましょう。
塩津街道は『塩の道』とも呼ばれ敦賀と畿内を結ぶ重要な街道だったそうで、紫式部が父に同行して越前へ行く際にも通った道なのだとか。その南端の塩津浜は琵琶湖の港町として栄え、今も宿場町の雰囲気を残しています。
長浜 404km
1918km
90m 琵琶湖の北から長浜へ。1573年、羽柴秀吉が織田信長より拝領した地(今浜)を『長浜』と改め、ここに城を築き城下町を形成。長浜城は江戸前期に廃城となりましたが、その後、長浜は大通寺の門前町、北国街道や琵琶湖水運の要衝として発展したそうです。伝統的な町並みが今も残り、それらの建物を活かしたギャラリーやカフェなどが集積、観光客の人気を集めています。市街地周辺には浅井長政の小谷城跡、石田三成出生の地、姉川の古戦場跡など、戦国武将たちの足跡がいくつも見られ、ここが当時大変重要な場所であったことを伺わせます。
大垣 442km
1956km
GOAL
10m 長浜から東へ、関ヶ原を抜ける。そして、江戸を発って約5ヶ月、ついに芭蕉は『奥の細道』のむすびの地、大垣に到着しました。伊勢にいた曾良も駆けつけ、他にも親しい人たちが次々と会いに来てくれます。しかし、その半月後に芭蕉は次の目的地、伊勢へと旅立つ。もう少しゆっくりすれば。。と思いますが、『奥の細道』の冒頭に書かれている通り、芭蕉にとっては日常が旅、旅が住まいであり、作句の原動力なのでしょう。舟に乗った芭蕉、最後の句。
 蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ
これにて第5ステージ『北陸路Ⅱ』、そして『奥の細道』終了。
参考資料:奥の細道むすびの地記念館俳聖 松尾芭蕉翁
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