22A

奥の細道5 北陸路Ⅱ

開催日 2022年 月 日〜
参加者 /サリーナ
総合評価 ★★
難易度
走行距離 442km
地域 甲信越

黒部四十八瀬 小川と立山連峰
黒部四十八瀬 小川と立山連峰

コース紹介

ヴァーチャル・サイクリング奥の細道の第5ステージ『北陸路Ⅱ』は、市振から金沢、福井と北陸を西へ向かい、敦賀からは南東へ。琵琶湖をかすめて大垣まで。

基礎情報:奥の細道1 日光路2 奥州路3 出羽路4 北陸路Ⅰ

地図:GoogleマップgpxファイルRide With GPSトライアル記録

発着地 累積距離 標高 コース・見所、奥の細道の句
Stage5 北陸路Ⅱ 442km
市振 START
0km
1514km
10m 市振を過ぎて、ここからは越中。最終第5ステージは富山、金沢、福井と北陸を西へ向かった後、南東へ方角を変更。琵琶湖をかすめ、目指すは西美濃の中心で交通の要衝であった大垣。ここが奥の細道の『むすびの地』となります。
黒部川 21km
1535km
30m 市振からしばらく行くと、朝日町、入善町、黒部市と、黒部川が形成する広い扇状地に入ります。黒部川は豪雨による洪水のたびに氾濫し、川筋が定まらずいくつもに分かれていたため、この辺りは『黒部四十八ヶ瀬』と言われていたそうです。そんな多くの川を越えて進む芭蕉たちです。この日は滑川で宿泊。
那古浦 69km
1583km
5m 翌日は富山湾沿いを西へ進み、那古(奈呉)浦(なごのうら)にやってきました。ここは、大伴家持が『東風(あゆのかぜ) いたく吹くらし 奈呉の海人の 釣する小舟 漕ぎ隠るみゆ』と詠んだ歌枕の地。能登半島や立山連峰を望む景勝地です。芭蕉たちは、藤が有名な『担籠(たこ)の藤浪』(氷見市の田子浦藤波神社)を訪れようと思ったけれど、土地の人に『ここから5里もあるし、家も少なく宿を貸す人はいなかろう』と言われ、断念。
 わせの香や 分入る右は 有磯海(ありそうみ)
有磯海(荒磯海)はこのあたり、富山湾西部の海のことで、芭蕉たちは海を右手に見る道を内陸へと分け入ります。
倶梨伽羅峠 103km
1617km
260m 高岡に泊まった翌日、芭蕉たちは小矢部市の埴生護国八幡宮に参拝。ここは、平安末期に源(木曽)義仲が戦勝を祈願したところで、後年加賀藩主前田家により造営寄進された1600年代前半の社殿は国の重要文化財です。戦勝祈願の後、源義仲は倶梨伽羅峠に大軍を構える平家軍を打ち破り京へ進撃、平家は西国へと落ちのびていくことになります。芭蕉たちは、この峠を越えて金沢へ。
金沢 128km
1642km
30m 金沢に着いた芭蕉は、加賀の俳人たちのもてなしを受けます。しかし、会うのを楽しみしていた葉茶屋を営む俳人の一笑(小杉味頼)は前年冬に亡くなっていたと聞いて、大いに落胆。一笑の兄が一笑追善句会を開き、芭蕉が詠んだ句。
 塚も動け 我泣声は 秋の風
金沢には9泊、芭蕉は俳人たちとの句会や市内観光に出向きます。犀川ほとりにある斎藤一泉の松玄庵に招かれ、出された料理に感謝を込めた句。
 秋涼し 手毎にむけや 瓜茄子
小松
多太神社
159km
1673km
10m 多くの俳人たちに見送られ、また同行者もあり、芭蕉たちは金沢を発って小松へ向かいます。あたりには少しずつ秋の気配が。
 あかあかと 日はつれなくも 秋の風
小松に到着。句会での芭蕉の発句。
 しほらしき 名や小松吹 萩すゝき
芭蕉は斉藤実盛の兜がある多太(たた)神社に詣でます。源平合戦の際に木曽義仲軍との戦いに敗れ、義仲の武将に討ち取られた平家の武将斉藤実盛は、かつては源義朝に仕え義仲を助けた人物。最後の戦いの時に身につけた兜や錦は以前の主君源義朝公から拝領したもの、そして老齢を隠すため白髪を黒く染めていた。木曽義仲は実盛の兜・袖・臑を多太神社に奉納したという。
 むざんやな 甲の下の きりぎりす
山中温泉 183km
1697km
70m 小松を出発した芭蕉たちは山中温泉へ。この温泉は奈良時代に行基が発見したと伝えられ、さらに平安末期に白鷺が傷を癒しているのを見つけたことから温泉旅館が始まったとか。美しい渓谷のほとり、歴史ある温泉地です。
 山中や 菊はたおらぬ 湯の匂
山中温泉を守護する医王寺、渓谷『鶴仙渓』にかかる黒谷橋などをのんびり訪れながら、芭蕉はここに9日間滞在。1910年に黒谷橋のほとりに『芭蕉堂』が創建され、また2004年には、芭蕉が泊まった宿の隣に明治時代の建物を再整備した『芭蕉の館』がつくられました。
山中温泉
(旅立ち)
183km
1697km
70m ここまで同行してきた曾良は体調を崩し、伊勢国の長島の医師にかかるため芭蕉と別れ、先行して旅立ちました。曾良が詠んだ別れの句。
 行行て(ゆきゆきて) たふれ伏すとも 萩の原  曽良
芭蕉は別れを悲しみ、笠に書いた『同行二人』の書付を消さなくては、と詠む。
 今日よりや 書付消さん 笠の露
那谷寺 197km
1711km
50m 芭蕉は山中温泉から小松に戻る途中、那谷(なた)寺を訪れます。この寺は700年代初頭の創建。当初は岩屋寺という寺名でしたが、平安時代に訪れた花山法皇が西国三十三所(近畿の観音信仰の霊場)の那智山と谷汲山から1文字ずつ取って『那谷寺』と改名したそうです。
 石山の 石より白し 秋の風
1642年に再建された本殿は『大悲閣』と呼ばれ、国の重要文化財。その中の岩屋に本尊の十一面千手観世音菩薩が安置されています。さて、芭蕉は小松に戻り2泊しますが、我々は先へ進みましょう。
大聖寺
全昌寺
209km
1723km
5m 大聖寺は白山信仰の白山五院の一つであり、江戸時代は大聖寺藩の城下町として栄えたそう。小松を出た芭蕉は、大聖寺城下町の郊外にある全昌寺に宿泊。ここには山中温泉で別れた曾良が前夜泊まっており、次の句を残していました。
 終宵(よもすがら) 秋風聞や うらの山  曾良
これを見て、芭蕉も『一夜の隔千里に同じ』と寂しさを感じています。
翌朝、慌ただしく出立しようとする芭蕉を若い僧たちが紙や硯を持って階段の下まで追いかけてきます。そこで芭蕉が書いた句。
 庭掃いて 出ばや寺に 散る柳
吉崎
汐越の松
217km
1731km
45m 芭蕉は加賀と越前の国境の吉崎から入江を船で渡り、汐越(しおこし)の松を訪ねます。潮が満ちると、その枝が海水に浸かってしまうという松。西行が詠んだという『終宵(よもすがら) 嵐に波を はこばせて 月をたれたる 汐越の松』に惹かれてやってきましたが、この歌は実は蓮如の作だとか。汐越の松のあったところは現在ゴルフ場になり、枯れてしまった松が残っているそうです。
松岡
天龍寺
245km
1759km
50m 芭蕉は曹洞宗の大本山永平寺に向かいますが、途中、古くからの知人のいる松岡の天龍寺に立ち寄ります。山中温泉で曾良と別れた芭蕉ですが、実は金沢から北枝という俳人がここまで同行してくれていました。別れにあたって名残惜しく、芭蕉の詠んだ句。
 物書きて 扇引きさく 余波(なごり)哉
永平寺 255km
1769km
220m 永平寺は曹洞宗の開祖道元が1244年に創建した寺院。応仁の乱や火災などにより、現在見られる建物は全て江戸期以降のものですが、仏殿や法堂をはじめ19棟が国の重要文化財に指定されています。芭蕉は山門から本堂までの距離、その広さに驚きますが、京都から離れたこんな山奥にあるのも貴い理由があってのことだとか、と記しています。
福井 271km
1785km
10m 永平寺に詣でた後、福井に向かった芭蕉は古い知人の等栽(とうさい)の家を訪ねます。すると、夕顔やヘチマの生い茂る侘しげな家屋から侘しげな女が出てきて夫の不在と訪問先を素っ気なく伝える。何だか源氏物語のワンシーンみたいだ(夕顔)と思いつつ、芭蕉は等栽を探し当てます。等栽の家に2泊した後、敦賀の港で十五夜の月を見ようと、等栽と一緒に敦賀へと向かいます。
敦賀
気比神宮
333km
1847km
10m 『越前富士』と呼ばれる日野山が見えてきた。そして『朝むづの橋』『玉江の蘆』『鶯の関』と歌枕の地を通り、湯尾(ゆのお)峠を越えると木曽義仲の燧が城(ひうちがじょう)。歌枕の『かえる山』に渡る雁の声を聞きながら、敦賀に到着したのは、十五夜前日の十四日の夕暮れでした。
その晩は月が美しく、宿で『明日もこんな美しい月を眺められるだろうね』と問えば、主人に『北陸の天気はわからないから』と言われ、酒を勧められ、その後気比(けひ)神宮に夜参りします。ここは702年に修営された仲哀天皇の御廟だそうで、芭蕉は主人の説明を受けます。昔、遊行上人二世(他阿上人)が、この神社の参道がぬかるんで皆が困っていたのを見て、自ら砂を運び往来の便を図ったという。この言伝えは今も守られ、その後、代々の遊行上人も神前に真砂を運び入れており、これを『遊行の砂持』と言うとか。芭蕉が詠む。
 月清し 遊行のもてる 砂の上
さて翌日の十五夜は、主人の言う通り雨でした。
 名月や 北国日和 定なき
色浜 347km
1861km
5m 翌日は晴れて、西行の詠んだ『潮染むる ますほの小貝 拾ふとて 色の浜とは いふにやあるらん』の『ますほの小貝』を拾おうと船を出し、敦賀湾の北にある『色が浜』へ。『ますほの小貝』とは、薄いピンクの小さな二枚貝だそう。私たちは敦賀湾沿いの陸路を北上しましょう。浜には海人の家が僅かにあり、お寺が一軒(本隆寺)。ここでお茶を飲み酒を温めて、感じとる秋の夕暮れの寂しさ。
 寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋
 波の間や 小貝にまじる 萩の塵
琵琶湖
塩津浜
380km
1894km
90m さてはて、『奥の細道』には、芭蕉が敦賀から大垣までどういう行程を辿ったのか記述されていません。ここでは、深坂峠を越える塩津街道を通って琵琶湖の塩津浜に出たということで進みましょう。
塩津街道は『塩の道』とも呼ばれ敦賀と畿内を結ぶ重要な街道だったそうで、紫式部が父に同行して越前へ行く際にも通った道なのだとか。その南端の塩津浜は琵琶湖の港町として栄え、今も宿場町の雰囲気を残しています。
長浜 404km
1918km
90m 琵琶湖の北から長浜へ。1573年、羽柴秀吉が織田信長より拝領した地(今浜)を『長浜』と改め、ここに城を築き城下町を形成。長浜城は江戸前期に廃城となりましたが、その後、長浜は大通寺の門前町、北国街道や琵琶湖水運の要衝として発展したそうです。伝統的な町並みが今も残り、それらの建物を活かしたギャラリーやカフェなどが集積、観光客の人気を集めています。市街地周辺には浅井長政の小谷城跡、石田三成出生の地、姉川の古戦場跡など、戦国武将たちの足跡がいくつも見られ、ここが当時大変重要な場所であったことを伺わせます。
大垣 442km
1956km
GOAL
10m 長浜から東へ、関ヶ原を抜ける。そして、江戸を発って約5ヶ月、ついに芭蕉は『奥の細道』のむすびの地、大垣に到着しました。伊勢にいた曾良も駆けつけ、他にも親しい人たちが次々と会いに来てくれます。しかし、その半月後に芭蕉は次の目的地、伊勢へと旅立つ。もう少しゆっくりすれば。。と思いますが、『奥の細道』の冒頭に書かれている通り、芭蕉にとっては日常が旅、旅が住まいであり、作句の原動力なのでしょう。舟に乗った芭蕉、最後の句。
 蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ
これにて第5ステージ『北陸路Ⅱ』、そして『奥の細道』終了。
参考資料:奥の細道むすびの地記念館俳聖 松尾芭蕉翁
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